ルドルフ・コンウェル ②
熊のようにウロウロと部屋をうろつく伯爵と、座って本を読んでいるバーナード。
私はそんなバーナードの横に座って、ジッと隣の部屋の扉を見つめていた。
時たま夫人の辛そうに呻く声が聞こえる。
その声にその都度ビクッと驚きながらも、赤ちゃんを産むのはこんなにも苦しいことなのだと、私は心の中でもう朧気になった生みの母のことを思い出す。
私を産む時も苦しかっただろうか?
私は母上に優しく微笑まれたことも、抱きしめられた記憶もない。
常に宝石に身を包んでいた母上は、私を視界に入れることさえしなかった。
私に接すると自慢の美貌が崩れるとでも思っているかのような態度だったのだ。
父上は母上しか見ていない。
美とは、そんなに大切なものだろうか?
私にはここにいる、皆の笑顔の方が眩しかった。
そんなことを考えていると、一際高い夫人の悲鳴が聞こえた。
驚く伯爵と思わず立ち上がる私。
バーナードは本から顔を上げ、扉を見つめた。
使用人の息を呑む音が聞こえた。
私はいつの間にか心の中で呟いていた言葉を、口に出していた。
「頑張れ、母上。頑張れ、赤ちゃん」
私の声を聞いた父上とバーナードが、言葉を重ねる。
「「「頑張れ、母上(テレサ:母の名前)。頑張れ、赤ちゃん」」」
それを何度か繰り返しているうちに、三人の声に引っ張られるかのように、おぎゃーという元気な声が聞こえた。
「産まれた⁉」
おぎゃー、おぎゃーという小気味よい声に、部屋にいた者は安堵して聞き入っている。
「おめでとうございます、伯爵様、バーナード様、ルドルフ様。可愛い女の子ですよ」
扉を開けた侍女が、赤ちゃんの性別を伝えた。
「そ、そうか。もう会ってもよいか?」
伯爵が震える声で訊ねるのを、侍女は満面の笑みで頷いた。
伯爵は、バーナードと私の背中を押して一緒に来るよう促す。
そっと入ったその先には大きな寝台があり、そこには疲れ果てながらも笑顔の夫人が、産着に包まれ泣く赤ちゃんを大事そうに抱えていた。
「ふふ、皆の声が聞こえたわよ。応援ありがとう。さあ、伯爵令嬢をご覧あれ」
お道化る夫人に伯爵が無言で近付き、赤ちゃんを抱えたままの夫人を優しく抱きしめた。
「こちらこそ、大切な宝をありがとう。よく頑張ってくれた」
涙声の伯爵に夫人はそっと寄り添った。
赤ちゃんの顔は見たいが、この雰囲気を壊すのも嫌だなと見守っていると、バーナードが私の手を引っ張って、スタスタと両親の元へと歩いて行く。
「イチャつくなら二人で勝手にやってていいから、俺たちの妹を見せて」
身も蓋もない言葉で父親を押しのけるバーナードに、伯爵は慌てて「最初に娘の顔を見る権利は父親にある!」と言って赤ちゃんを抱き上げた。
いつの間にか泣き止んでいた赤ちゃんは、すやすやと寝ているようで、バーナードで赤ちゃんを抱きなれた伯爵は、上手に赤ちゃんを抱きかかえ笑み崩れた。
「か、可愛い。こんなに可愛い赤ちゃんは見たことがない」
感動に震える伯爵に、流石に大袈裟だと呆れる。
そして私たち二人に視線を合わせた伯爵は、そっと手を下に下げてバーナードと私に見せてくれた。
赤ちゃんを見た私は、呆然とした。
「わー、本当に可愛いね」
素直に喜ぶバーナードをよそに、私は赤ちゃんに釘付けになる。
この子が私と一緒に来た赤ちゃん。
この子が私をこの家へと導いてくれた赤ちゃん。
この子が私は一人じゃないと示してくれた赤ちゃん。
私の心の声が漏れる。
「え、天使……」
セリーヌには自然と優しくできる。
セリーヌを見ているだけで笑顔になる。
人に囲まれているセリーヌが誇らしくなる。
以前に持っていた負の感情が、全て覆る。
セリーヌがいるだけで、私は明るい気持ちになれた。
そしてバーナードに、今日も呆れた声で話しかけられる。
「溺愛にもほどがある。そんなに甘やかして、我儘娘に育ったらどうするんだ?」
「私が一生面倒見るから我儘娘に育ってもいいよ」
「それはセリーヌと結婚するということか?」
「兄妹だもん。結婚なんてできないでしょう?」
首を傾げる私に、バーナードはそうだなと笑う。
ああ、可愛い。こんなに可愛くて柔らかくてふわふわな生き物が存在するなんて。
私は最高に幸せだ。
そう思っていると、セリーヌが涎でベタベタになった自分の指を私の口に押し込んだ。
「うっ」
「うわっ、流石にそれは引くわ」
ニコニコと笑うセリーヌにバーナードが顔を顰めるが、私はそれを笑顔で受け止める。
セリーヌの涎なら、甘い蜜と同じだ。
笑顔のセリーヌと私を交互に見たバーナードは、肩をすくめる。
「これも一種のファーストキスになるのだろうか?」
セリーヌが産まれた三年間、私はとても幸せだった。
一生の幸せをこの三年で味わった気分だった。
そうして、長く続いていた戦争が突然、終結した。
ここコンウェル伯爵領は王都からほど遠く、戦争の影響はさほどなかった。
だから忘れていたのだ。
王都の影響を受けないこの場所にいると、償わなければいけない罪があるということを。
正確に言えば私の罪ではないが、実の父親が犯した罪を私は償いたかった。
穢れのない無垢な天使のセリーヌを見ていると、そう思うようになったのだ。
暫くして、王城から第一王子の将来側近候補としての友人を集う招集が、私宛に来た。
内乱による王位継承で、王子が変わったのだ。
年齢から考えれば、確かに同じ年の私がちょうどいい。
バーナードは自分が行くと言ったが、私がそれを断った。
彼はコンウェル伯爵領にとって、なくてはならない大切な存在だ。
それに王都は私にとって、魔の場所である。
そんな所に、バーナードを送れるはずがない。
それに私が王宮に勤めることで、王都から離れたコンウェル伯爵家にも恩恵があるし、実の父親の罪の償いにもなる。
幸せを教えてくれたコンウェル伯爵家に恩返しがしたい。
父の罪を償ったその時、私は初めてセリーヌと堂々と対面できる。
天使の傍に居るには、わずかな穢れでも持つ者は似合わないから。
天使と一緒にいるために、罪を償う。
私はわずか八歳にして、王都に一人で住む覚悟を決めたのだった。




