第五話 「父」 前編
「利絵子の夏」
第五話 前編
高塚市に引っ越してきてしばらくの日数が経ち、ここでの生活にも大分慣れてきた。
相変わらず道路に人の影はなく、ぴかぴかの新しい公園に子供の姿も無い。
でも、一日一日を繰り返していくうちに、段々とそれが当たり前なのだ、と思うようになってきた。
……慣れとは恐ろしいものだ。
私はある日、ふと夜中に目が覚めた。
のどが少し乾いていたため、私は飲み物を取りに、自分の部屋を静かに出る。
しん、とした暗闇の中、階下から、明かりが少しだけ漏れている。
……お父さん、まだ起きてるんだ……。
私はそんなことを思いながら、廊下に面したクローゼットを開け、手探りで500ミリペットボトル飲料を1本取り出す。
その時。
「その件に関しては、順調です……」
ぼそっと、お父さんの声が聞こえた。
私は廊下の薄暗闇の中で、飲み物を持ったまま、思わず立ちどまった。
……誰かと、話をしているのだろうか……。
私はその時、一つの考えがぼんやりと浮かんだ。
……お父さんはこの町で、一体どんなお仕事をしているのだろう……。
「お父さん」
私がお父さんに声をかけたのは、太陽が照ってセミがじじじじ……と鳴いている時だった。
お父さんはテーブルで何か書き物をしていた。
私の声が発せられてからしばらくして、
「……どうか、したのか?」
お父さんは静かに言った。
「お父さんは、この町で何のお仕事をしているの?」
風が、静かにそよぐ。
太陽の細い光が部屋に差し込んでいる。
お父さんは、何も喋らない。
静寂が、居間を支配した。
しばらくして、
「利絵子、アイス食べるか?」
父は唐突に言った。
私は思わず、「え、あ、うん……」と返事してしまった。
父はほどなく冷凍庫からアイスを取ってきて、私にくれた。
私はそのアイスを手に取り、袋を開けた。
水色の棒アイス。それは今、外に広がっている、空の色とほぼ等価だった。
私は棒アイスと、父とを交互に見た。
父は、淡々と言った。
「……世の中には、『若いうちに知ると傷つくもの』がある……」
私は、父の言葉を黙って聞いていた。
「だから、今、利絵子にしてやれることは……その代替物を与えることだけだ」
お父さんはそう言うと、再び書き物の作業に戻った。
……私は、水色の棒アイスを持ったまま、それをかじることも出来ずに、立ち尽くした。
今の私には、水色の棒アイスの味を知る権利しかないという、無力感。
それを体の奥に感じた時、私の手から、アイスがこぼれた。
私の体が、ぐらりと傾く。
ごとん、という音と、腕や足に痛み。
お父さんの驚いた声が、耳に響く。
でもその声は、私の意識が遠のくにつれ、徐々に小さくなっていった。