第三話 「ハハオヤ」 後編
「利絵子の夏」
第三話 後編
私はゼリーを食べさせてもらったお礼を言ってから、多恵さんのお店を出た。
……青空が、透きとおっている。
お店の外に出て、そう思った。
私はそれから、当初の散歩の目的どおり、海辺に向かうことにした。
少し歩いてから辿り着いた海辺にも、人の気配は全く無かった。
太陽の光のきらめきが海の水面に反射し、潮の香りが微かに漂っている。
無人と、無音に思えてしまう世界。
まるで、私一人だけがこの世界に存在しているような感覚。
私は舗装されたアスファルトの地面に座り、さっき多恵さんのお店で買ったオレンジジュースを飲んだ。
そして、しばらく海の満ち引きを見つめ続けていた。
どれくらい時間が経ったころだろう。
不意に、視線を海から、コンクリートで舗装された地面側に移した時。
いつの間にか遠くの方で、私と同じように海をじっと見つめ続けている女の子が居た。
制服を着ているところからして、私と同じ中学生くらいの年齢だろうか。背丈からして、たぶん同学年か、一つ下の学年くらい。
私は腕時計を見た。
午後4時32分と、10秒を少し回ったところ。
おそらく、学校の帰りにこの海岸に立ち寄ったのではないかと思った。
私はその女の子を不思議そうに少し眺めていたけれど、ふと、あることを思いついた。
……あの女の子に、話しかけてみようかな。
それは、単純に好奇心から思ったことだった。
ただでさえ人の気配の無い町で話しかけたらうさんくさがられるかもしれない。
でも、そんな人の居ない(ように感じられる)町で、自分と同じことをしている人が居る。
そのことに、なんだか興味を覚えずにはいられなかった。
「あの、こんにちは」
私がその女の子のそばに立って言うと、女の子は無言で私の目を見つめた。
その瞳は、どこか遠い世界を見つめているようで、私は一瞬はっとさせられた。
同世代の友達で、こんな瞳を持った子は……かつて住んでいた町には居なかった。
私が次の言葉を言いあぐねていると、
「……海って、綺麗ですね」
その女の子は、静かに呟いた。
「海の満ち引きを見ているだけで……こころが休まる気がします」
女の子の態度は、終始落ち着いていた。
「そう、だね……」
私も同意して、それから、自然の流れのように、その女の子の隣に座った。
そして、二人して海を眺めていた。
と、
「……この町の方ですか? 学校では見たことがなかったような……」
その女の子は私に向かって聞いた。
それで私は、
「ううん。ちょっと訳があって、この町に引っ越してきたんだけど学校に転入はしてないの。……また、しばらくしたら元居た町に戻るみたいで」
私が言うと、
「そうなんですか。……私はここから少し歩いたところにある商店が実家で、そこに住んでいます。もしこの町に居る間で時間があったら、立ち寄ってみて下さい」
私はここから近くの商店と聞いて、さっきゼリーを食べた商店を思い出した。
「……ひょっとして、三原多恵さんのお店?」
私が言うと、その子は少し驚いた表情をした。
「……母を、知っているんですか?」
「うん。時々お店に立ち寄って、ジュースとか買ったりしてるよ。……時々立ち話をしてくれる時もあって……優しい人だね」
私が言うと、彼女はフクザツな表情を見せた。
「そう、ですね……」
肯定と否定が入り交じったような返事。
「……ひょっとして、多恵さんと、あまり仲がうまくいってないの?」
私は口にしてから、初対面の子に向かって少し立ち入りすぎたかな、と思った。
けれど、その子は特に気にした風は無く、
「いえ、そういう訳では無いんです。むしろ気を使ってくれて、優しくて、幸福だと思っています。……ただ……」
彼女は、海を見つめながら、
「そんなお母さんに、私の方からは一体今まで何をしてあげることが出来たのだろうって、時々不安になることがあるんです。私は、お母さんにとって本当は必要な子じゃないんじゃないかって……」
ざざ……ん……と、波の音が静かに辺りに反射する。
「だから私は、思ったんです。私を生んでくれた母の役に立つ人間になろうって。たくさん勉強して、お金を手に入れることの出来る人間になろうって。……それが、今の私の唯一の存在理由なんです」
彼女はそう言って、微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、私の直感が、或ることを告げていた。
この微笑み方は、この子にはまだ、早すぎる――
私はそれから、彼女がこの海辺にあと30分くらい居るということを聞いてから、足早にこの場所を後にした。
向かう先は、三原多恵さんの商店。
商店についてから、多恵さんが走って息を切らしていた私のことを見て心配そうに話しかけてきてくれた。
「大丈夫!? そんなに息を切らして」
「私は大丈夫……です。それより」
私は多恵さんの顔をじっと見据えた。
「多恵さんの娘さんを、大切にしてあげて下さい。このままじゃきっとあの子は……大人になるまでに壊れてしまうかも」
私が言うと、多恵さんは少しびっくりしたような表情をしてから、
私の焦燥した表情を見て、ものごとの全てを理解したかのように、静かに、うなずいた。
「……あの子に、会ったのね」
多恵さんは、言葉を続ける。
「……そう、なのよね。私が『今』あの子にしてあげなければならないことは分かっていた……。けれど、どこかでそれをためらっていた……。それは、私の結婚が本当に正しいものだったのか、迷い続けていたから……」
多恵さんは、夕焼けがかっている空を見上げた。
「けれど、あの子に罪は無いのだから……いつまでも母親の私が迷い続けて、距離を取り続けているわけにはいかない……」
多恵さんは、微かに息を吐き出した。
それはまるで、これから来る未来に対して、自身を鼓舞するかのように。
それから、私の瞳を見た。
そして、微笑んだ。
「教えてくれて……ありがとう」
その微笑みは、迷いのない微笑みだった。
それから少し日にちが経って、あの子と道で会った。
「利絵子さん、こんにちは!」
彼女は屈託の無い笑顔で私に挨拶してくれた。
それは、年相応の笑顔。
未来に希望を描こうとしている、透き通った明るい笑顔。
……私は、多恵さんと娘さんの間であの後何があったのかを知らない。
ただ、目の前に居る女の子が以前とは打って変わって明るく穏やかな表情をしているのを見て、私は胸がきゅっと締め付けられるような、切ない気持ちを覚えた。
そして私は今日もまた、散歩の途中に多恵さんのお店へと足を運ぶのだった。