第二話 「最期のスケッチ」
「利絵子の夏」
第二話
「……ふうっ」
私は今日の分の勉強を終え、机の上の教科書とノートを閉じた。
そしてそれから、何気なく窓を見た。
……空が、あかつき色に染まっている。
人のこころをぎゅっとしめつけるような、そんな印象を与える濃いオレンジ色の光。
「……散歩でも、しようかな」
私は外に出るため、部屋を出た。
風が、ゆるやかに吹いている。
部屋の中で黙々と勉強をしていた体にとって、それはとても心地よく感じられた。
私はそんな中、道路を一人歩いていく。
と、歩いている途中で古びた一軒の喫茶店が見えてきた。
この町には道路沿いにほとんどお店が無い……という印象を受けていた私にとっては、少し不思議な心持ちがした。
……営業しているのだろうか?
私はその喫茶店の前まで行き、ドアノブに手を伸ばそうとすると、
「そのお店、今はやっていないよ」
背後から声がして、私はびくっとした。
私が振り向くと、目の前には物静かそうな目つきをした男の人が立っていた。
体つきや雰囲気からして、年齢は大学生くらいに感じられた。
その男性は、言葉を続ける。
「……何年か前まではやっていたんだけれど、町の人も減っちゃって採算が合わなくなったみたいで、やめちゃったんだ」
「……詳しいんですね」
「まあ、よく来てたから。……閉店した今でも、時々見に来るんだよ。雰囲気が好きで……」
男性はそう言って、懐かしそうな目つきをした。
と、私はその男性が小さなスケッチブックを持っているのを目にした。
「……絵、描くんですか?」
私が言うと、何故か男性は自嘲気味に、
「まあ、ね……」とだけ呟いた。
そしてしばらく沈黙が続いてから、
「今日実は、この喫茶店を描きに来たんだ。……最後の絵に、相応しいんじゃないかと思って」
男性は、空を見上げて言った。
「絵、やめちゃうんですか?」
「うん……」
男性はそう言って、喫茶店の近くに野ざらしになっていた、古びた木のベンチに腰掛けた。
そして、鉛筆を取り出し、写生を始める。
私は、そっとその男性の後ろに立ち、スケッチブックに絵が書き込まれていく過程を見ていた。
真っ白だったスケッチブックに、モノクロの喫茶店が姿を現していく。
経営が終了し、レゾンデートル――存在理由が失われていく喫茶店の儚さを体現しているかのような、そんな雰囲気の喫茶店の絵。
私は、ただ黙って、その作品の制作過程を見続けていた。
数十分後、絵は完成した。
私は、その絵のもつ、ガラスのような繊細さと儚さとに、強く惹かれた。
「……どうして、こんなにすごい絵が描けるのに……絵を描くのを、やめてしまうんですか?」
「……世の中に、必要とされていないからさ。人はみんな、強くて頑丈なものを選ぶ。僕は、そういう絵は描けないから……」
男の人は、そう言って鉛筆をしまった。
その絵に惹かれていた私は、男の人の言っていることが、理解できなかった。
「……そろそろ行かなきゃ。陽も落ちて暗くなってきたし……」
辺りの夕焼けには、少しずつ黒色が混じり込んでいた。
男の人は、ベンチを立とうとした。
私はその時不意に、声が出た。
「あ、あの」
「なに?」
「……さっきの絵、頂けませんか?」
私が言うと、男の人はきょとん、としていた。
それから少しだけ微笑んで、
「……ありがとう」
そう言って、私に、モノクロの喫茶店が描かれた一枚のスケッチブックを切り取ってくれた。
「それじゃ」
男の人は、そう言い残して、もう二度と訪れることは無いだろう喫茶店を後にした。
私は、絵をそっと両手で抱きしめながら、帰路についた。
薄闇が辺りを包み込む田舎道で、少し冷たい風が、不思議と心地よかった。