最終話 「道標(みちしるべ)」
「利絵子の夏」
最終話
私は結局、元の町には戻らないと父に伝えた。
すると、翌日黒のサングラスをかけ、黒のスーツを着た女性が、私に何枚かの書類を手渡した。
そこに書かれている文字が、私にはなんなのかわからなかった。
日本語でも、英語でもない。
下線が引かれている箇所に名前を書いてほしい、とやってきた女性は言った。
日本語でいいんですか? と聞くと、背広の人は、大丈夫、と答えた。
そうして言われるままに私は何枚かの契約書に名前を書くと、
その日から、またいつもと変わらない生活が始まった。
ひとりで勉強をし、それが終わると、散歩をする日々が。
ただ一つ、名前を書く前と書いた後で違うだろうということがあるとすれば、
私は、もう二度と元居た町には戻れないだろう、という予感。
ただそれだけだった。
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そして。
「元気?」
「うん、お姉ちゃん、ボク、元気だよ!」
私が道ばたの子供に声をかけると、子供は元気よく挨拶をしてくれた。
……私が契約書に名前を書いてから、町の人は私を見るとニコニコして挨拶してくれるようになった。
それは、正式にこの町の住人となったことを意味していた。
父はある日私に、ごめんな、と一言だけつぶやいた。
私は、
「……お父さんのせいじゃないよ。人間はみんな、自分の意志とは関係無く、勝手に、この世界に生まれちゃうんだから。……誰かが言ってたけど、『人生は、自分の意志とは関係なく、神様が適当に配った手札でゲームを開始し、そして終了するようなものだ』って。だから、大丈夫だよ」
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月日が流れた。
20歳の夏。
私は形式的には「看護婦」という名目で、今もこの町に住んでいる。
私は、この町の人に食べ物を渡す。お金を渡す。……『いろんなおくすり』も渡す。何かいろいろなことを、まるでリトマス試験紙のように試してみることもある。
私は、時々胸が苦しくなることがある。
けれど、私はこの町に住み続ける。そして、食べ物も、お金も、おくすりも、渡し続ける。リトマス試験紙を液体に浸すことを、繰り返し続ける。
なぜなら、それが、私のお仕事だから。
このお仕事だけが、人間として生きているという実感を、全身で感じることが出来る唯一のことであるような気がするから。
私は、今もこの町に住んでいる。そして、いつか息絶える瞬間まで、この町に棲み続けることだろう。
そのことに、後悔は、ない。