第七話 「タカハラさん」
「利絵子の夏」
第七話
「タカハラさん」
ジジジジ……と蝉が鳴いている。
蒸し暑い気候。汗がべとついている。
私は一枚の紙を持って、町を歩いていた。
目的は、父の仕事を知るため。
父の職場は、私が今住んでいる、高塚市の市役所の一室にあるらしい。
家の居間のごみ箱から拾った一枚の紙切れに、書いてあった。
まるで、”興味があるなら持っていきなさい”と言われているかのように、くしゃっと丸められて、その紙切れは捨てられていた。
私は汗をハンカチで拭きながら、市役所を目指した。
私が役所の窓口でくしゃくしゃになった紙切れを見せると、受付のお姉さんは顔色を変え、
「……奥に、どうぞ」
私は受付のお姉さんの案内に従って、役所の奥に向かって歩いた。
そこは、殺風景な部屋。
壁は古びていて、ところどころ亀裂が入っている。
簡素な机と椅子以外、何もない。
まるで刑事ドラマによく出てくる、取調室の一室のようだ。
私が運ばれてきたお茶を飲みながら座っていると、少しして、ドアをノックする音がした。
そして間もなくドアが開き、細い眼鏡をかけた、物腰柔らかそうなおじさんが姿を見せた。
胸につけたネームプレートに、「地域安全課 第二課員 タカハラ」と書かれていた。
「……君のお父さんは、非常によくやってくれていますよ」
タカハラさんは言った。
「『他の地区』では、明るみにこそ出なかったものの……地域住民に対する対応に問題があり、暴動に発展した例もあります。ですが、この市において、あなたのお父さんに対する住民感情は概ね好意的です。今のところ、あなたが心配することは何もありません」
タカハラさんは、笑顔で言った。
「……これで、あなたの心配ごとは晴れましたか?」
私は返答に悩み、とぎれとぎれの言葉で、
「……胸の、もやもやのようなものは、まだ、どこか、続いていて――」
すると、タカハラさんは「失礼」と言って煙草の箱を取り出した。そしてそこから一本取り出し火をつけると、フィルターに口をつけ、すぅっ、息を吸い込み、吐いた。
薄い灰色の煙が、部屋に舞う。
タカハラさんは、静かに言った。
「そのもやもやは、おそらく知らないほうが……今のあなたにとって幸せでしょう。あなたにいいことをお教えします――それはこの世を生きる上で非常に大事なことなのですが――何事も深く知りすぎてはいけないということです。深く知ったところで、いいことは何一つありません。ある事柄について深く知った時、あなたは一時的な満足を得ることでしょう。しかし、その代償として、あなたは多くのものを失うかもしれない。それでもいいのなら……あなたにその覚悟があるのなら……」
私はそこで、「ごめんなさい」と言ってしまった。
何か、いいようのしれない圧迫感を全身に感じて。
「……ごめんな、さい」
私は、もう一度、あやまった。
すると、タカハラさんはにこっと笑った。
「……カツ丼にしますか、それとも親子丼にしますか」
「……え?」
「こんな取り調べ室のような部屋では、定番のメニューでしょう。もっとも、今私はあなたに取り調べをしているわけではありませんが」
私は力無く、親子丼、と言った。
そしてそれを食べてから、役所を後にした。
私が帰る時、タカハラさんがふっ、と呟いた。
「生きている私たち約70億人の人間のうち、『全ての真実』を手に入れることが出来る人が、果たしてどれだけ居るでしょうか……。私もあなたも、他の大多数の人々と同じように……おそらく生涯手にすることはないのかもしれません」
タカハラさんの言葉が脳裏に焼き付いて、離れなかった。