人形のご利益(三十と一夜の短篇第80回)
手入れするもののない山の竹やぶで、古びた人形を拾ったのは山菜取りの老婦人だった。
「あれ、なんてきれいなお顔をしてるんでしょう」
ひと目見て気に入った老婦人は、山菜を詰めたかごに人形を入れて山を降りた。
採れたての山菜を料理してタッパーに詰め、入れる先を手提げ袋に変えて向かう先は公民館。家から歩いて十五分、えっちらおっちらたどり着いた老婦人を迎えたのは老人会の仲間たちだ。
「ねえ見てちょうだい、こんなすてきなお人形を拾ったのよ」
老婦人がいそいそと取り出した人形を前に、仲間たちの反応はまちまちだった。
「ほんとうにきれいな顔だねえ」
「あらいやだ、誰が捨てたのかしら?」
「仏さまみたいなお顔をしてらっしゃるなあ」
ほのぼのと感想を言い合う老人たちのなかで、ひとりだけ大袈裟な反応を見せた者がいた。
「ダメよ! そんなもの捨ててちょうだいッ」
場違いな金切り声に、和やかな雰囲気は霧散する。
しんと静まり返った公民館の空気に居心地悪く身じろいで、ひとりの男がおどけた声をあげた。
「スズネさんや、そんな大きな声で言わんでも良いじゃないか。今日はちゃんと補聴器つけてきてるよぅ」
耳を引っ張ってみせる男に、空気がほろりと弛緩する。
「ははは! ほんとか、ケンさん。間違えて耳栓詰めてないだろうな?」
「そうねえ、このあいだもほら」
笑いで塗り替えてしまおうと追随する声を、けれどスズネと呼ばれた老婆は遮りなおも叫ぶ。
「はやく捨てて! もとあった場所に返して、いいえ。埋めてちょうだい、はやく!」
あまりの剣幕に周囲が戸惑ったその瞬間。
「なによ! うらやましいんでしょう!? あたしのお人形があんまりすてきだからってそんなこと!」
ツバを飛ばしたのは老婦人であった。ほんのりと微笑んでいたやわらかな表情をかなぐり捨てて、吠える姿は人が変わったかのよう。
長い付き合いの仲間のはじめて見る姿に老人たちが目をむいているうちに、老婦人は人形を抱え込んで玄関へ走り、乱暴に靴に足を突っ込むと駆け出した。
「渡さない、渡さないわよ! これはあたしの人形なんだから!」
威嚇するように叫びながら駆けていくその姿に、いつものおっとりとした婦人の面影はない。
残された老人たちは呆然とするばかり。
「ああ、ダメ。それはほんとうに良くないものなの、戻ってきてアカネさん……」
顔を覆ってうめくスズネの声だけが虚しく響いていた。
自宅に駆け込んだアカネは玄関に鍵をかけて、上がり框に倒れ込んだ。
全力で走ったのなどいつぶりか。ふうふうと肩で息をついたアカネは、鍵をかけただけでは安心できず家のいちばん奥まった部屋に入って人形を抱きしめた。
「大丈夫よ、あなたは誰にも渡さない。あたしのものよ、大丈夫、大丈夫」
とられまい、その一心で人形に語り掛けるアカネは、振り乱した髪によれた衣服、鬼のような己の形相に気づく余裕もない。
どれほどの間、そうしていたのか。
ピリリリリリリ。
ふと室内に鳴り響いた電子音に、アカネの肩がびくりと跳ねる。
いつしか陽が落ち、暗くなった室内にぼんやりと浮かび上がるのはタブレット型端末だ。
その画面に表示された名前に、アカネはほっと息をついて手を伸ばす。
『おーい、おばあちゃーん。元気ー?』
ぱっと切り替わった画面のなか、孫娘が笑顔で手を振っていた。
「リナちゃん、おばあちゃんは元気よ」
『え、やだおばあちゃん。なんでそんな部屋が暗いの? 危ないじゃん、電気つけて電気!』
「ああ、そうね、ええ」
促されるまま立ち上がり、電気をつけたアカネはタブレットの画面に向き直る。
『あれ、おばあちゃんその人形……』
アカネはハッとした。人形を捨てろと言われた瞬間、湧き上がった怒りが再燃しようとしていた。
相手はかわいい孫娘。そんなことも思考から取りこぼしてしまうほどの感情が噴き出してくる。けれど。
『えー、めっちゃ美人じゃーん! なになに、どこで買ったの? もしかしておばあちゃんが作ったとか? えー、いいなあ!』
すらすらと伝えられた賛辞に、アカネの怒りは消し飛んだ。
「そうでしょう!」
代わりに歓喜がアカネの胸を塗りつぶす。
「このお人形、とっても素敵でしょう。あのね、お山に山菜を取りに行ったら出会ったのよ。田舎の山だからご近所の人しか来ないのに、ぽつんと。それはもういじらしい姿で座ってらしたの。なのに、スズネさんときたら早く捨てろだなんて……!」
喜びのままに語っていたアカネは、公民館でのスズネの言葉を思い出して顔を険しくした。
こんなにも愛らしい人形をゴミのように捨てるだんあんて考えられない。そう吐き捨てるより前に、孫娘のリンが「そっかー」と明るい相槌を寄こす。
『その人、うらやましかったのかもね? 拾ったものなら自分は手に入れられないんだし。だからって人の推しを悪く言うのは許せないけどさー』
むう、と口を尖らせたリンの言葉は、アカネの胸にすとんと落ちた。
「そ、そうよね! そうだわ、スズネさんたら羨ましかったんだわ」
こんなに素敵な人形なのだ、それも仕方ない。
そう納得するアカネにリンが続ける。
『ねえねえ、おばあちゃん。あたしその人形の写真撮りたーい。見たことないくらいきれいなんだもん、友だちに見せたり、SNSで自慢したいんだー。いい?』
「ええ。ええ。もちろんよ。たくさんの人に素敵なお人形を見せてあげなきゃいけないわよね。リンちゃんはやさしい良い子ねえ」
『んふふ。おばあちゃんもやさしくてだーいすき!』
「あらあら。うふふ」
機嫌よく笑ったアカネは、リンに言われるがまま人形を胸に抱き、あるいはタブレット画面に近づけ、と過ごす。
まるでお人形遊びをしているような心地で楽しんでいたところへ、リンの背後から『リーン、ごはんよー』と呼ぶ声がした。
「あら、お母さんが呼んでるわね。それじゃあね、リンちゃん」
『うん、おばあちゃんまたね。今度遊びに行ったら、その人形を抱っこさせてね!』
言って、通話が途切れた。
暗くなったタブレットの画面には目もくれず、スマホの画面に表示された人形の顔を眺めていたリンはふと、瞬いた。
「あれ、でもアカネさんってめっちゃ勘が良い人だって言ってなかった? 言っちゃだめ、って言われた旅行をやめたおばあちゃんは生き残って、ひとりで行っちゃったおじいちゃんは事故で死んじゃったって……」
「ちょっと、リーン! ご飯だってー!」
物思いは母親の促す声でかき消された。
「はーい、今行くー!」
返事をする傍ら、リンは人形の写真をSNSに上げる。
「『おばあちゃんのお人形。なんかパワー感じない?』っと」
素早く打ち込み、投稿されたばかりの写真に愛おし気に指を這わせた。
「ふふ、ほーんと、きれいな人形」
うっとりと笑ったリンは、スマホを机に置いて楽しい団らんの席へと駆け下りていった。
***
うす暗い部屋のなか、目を覚ましたアカネは枕元に人形の姿を見つけてほっこりと微笑む。
昨晩、孫娘と交わした会話が彼女の胸のなかに思い出され、幸せな気持ちでアカネは身体を起こす。
そこに水をさすのは軋むように痛む身体の節々だ。昨日、がむしゃらに駆けたことが堪えているようだった。
「はあ、年は取りたくないものね」
よっこらせ。よたよたと立ち上がり、洗面台へ向かう。いつものように顔を洗い、ぱっと顔をあげた先。鏡に映るものに気が付いてアカネは目を見開いた。
「え、なに、これ……」
そこにあったのは人形の顔。
驚いたように添えられたしわだらけの手と、つながる年老いた首がひどく不似合いな麗しい顔がそこにあった。
「え、ええ?」
戸惑い、濡れた手で触れれば確かな感触が伝わってくる。触れる手も、触れられる顔もそれぞれがぬくもりをもっていることをアカネの感覚が告げていた。
幻覚だろうか。かさつく手で強くなでさすっても、麗しさは損なわれない。横を向いても、髪を引っ張っても鏡に映るのは間違いなく、人形の顔だ。
「そんな……」
アカネは呆然とつぶやく。そして。
「なんて素敵なのかしら!」
彼女は歓喜した。
「まあ、まあ、まあ! なんてきれいなのかしら。お肌はすべすべ、髪は艶々で黒々として。射干玉の髪ってこういうことよね。ああ、なんて素敵なの。お化粧なんていらないわ。すうっと通った鼻すじ、柔らかな眉、こんな、こんなに素敵な顔になれるなんて!」
感極まって鏡を見つめる目はゆるやかな曲線を描き、透き通った白目にうっとりとした色を乗せている。
そこに、顔が変わってしまったことへの疑念や恐れはない。
アカネはただただ美しい人形の顔に見惚れ、いつまでも鏡を見つめているのだった。
アカネの起床から数時間後、遠い街中でリンが目を覚ました。
のろのろとリビングに入ってきた彼女を見て、母親が声を上げる。
「リン、あなた……顔変わった?」
「え? なになに、美人なのがバレちゃった?」
寝ぐせ頭でにぱっと笑ったリンはいつも通りの明るさだ。そのいつも通りに細められた目を見て、母親は知らずに胸をなでおろす。
ささやかな違和感は、娘がいつも通りの笑顔を浮かべたことで見過ごされた。リンの顔は確かに、変わりつつあったというのに。
「もう、ふざけてないでさっさとご飯を食べてちょうだい。片付かないじゃない」
「はーい。あ、そうだお母さん。今度、いつおばあちゃん家に行く?」
「おばあちゃん? そうねえ、来週あたり行かないとね。大掃除のお手伝いしないと、母さんももう年だから」
母親の言葉にリンはぱっと目を輝かせた。
「じゃあ、あたしも行く! おばあちゃんの人形を見せてもらうんだ。ほんともう、きれいなんだから。お母さんも写真、見る?」
「お人形? ご飯が終わったらね。それよりリン、行くのはいいけどお掃除も手伝ってちょうだいよ」
「えー、うーん」
母親の頼みにリンは口を尖らせはしたものの、本気で嫌がる素振りはない。母娘のいつもの戯れのようなものだ。
いつも通りの娘の反応に、母親はくすぶる違和感を見ないふりして笑顔で念を押す。
「もう、頼むわよ~?」
「はあい」
気安い会話を交わして親子は笑い合う。
この平穏がずっと続くと疑いもせず。
***
そのころ、SNSでは。
リンの投稿した写真が『美人になれる人形』として世界じゅうへ拡散されていた。
『ほんとらしいよ、見てから寝たひとがきれいになったって』
『デマだね。それはそうとして、素敵な人形だ』
『みんな見ちゃだめ! これは危険な人形よ!』
ひとりが拡散した先でまた誰かが写真を目にし、そして広めていく。
あるひとは気まぐれに、あるひとは純粋に人形を美しいと感じ、幾人もの人びとが手遊びのように気軽に写真を拡散していく。中には拡散をやめるよう声をあげた人もいたが、有象無象のなかに押し流されて消えていった。
やがて人形が世界に広がるのは、もう間もなく。