送る者
お待たせしました。
「また一人ぼっちになってしまったなあ」
海を臨む崖の上、二つ並んだ墓石の前に座り込み尻尾を垂らす龍が一匹。墓前に供えたうなぎモドキの白焼きを眺め、私は深く溜息を吐いた。
こちとら九十以上歳を食った皺くちゃ爺だ。それだけ生きれば愛犬愛猫との別れは何度も経験してきたし、知人友人と死別することも珍しくなかった。
しかしそれでも、今回ばかりは心の芯に響いた。これほどまでに堪えたのは、かつて親兄弟を看取った時以来だろうか。
ごんは、この島で目覚めた私の孤独を癒してくれたかけがえのない友であり、家族のような存在だった。あの太々しい姿に救われたことは一度や二度ではない。
己が手を見る。
十六年前、初めて目が覚めた時からまるで変わらない小さな手のひら。
きっと、私はこれからも多くの者たちを見送っていくのだろう。弔っていくのだろう。龍というものがどれほど長く生きるのかなど知る由もないが、きっと百年や二百年などではないのだろう。そも、老いや寿命という概念が存在するのかすら怪しいものだ。
また溜息が漏れる。空を見上げ、流れゆく雲を眺める。
あの雲のように、私以外の、龍以外の存在は私を置いて去ってしまうのだろう。
どれだけ親しい者だろうと、どれだけ愛した者だろうと。
そして、私が去っていった彼らに追いつくことは決してなく、やがてその存在すらも風化し記憶の残滓となり、ついには忘れ去ってしまうのだろう。
かつて死という一線を跨いだ身だからこそわかる。それはきっと、死よりも辛いものだ。
であれば、この身が不滅となる前に、まだ血を流すことが出来る内に、その線をまた跨げる身である間に跨いでしまった方が幸せなのではないだろうか。
人の身を全うしてから、この島に流れ着いてから十六年。
それだけの時が流れれば、きっと向こうに残してきた妻も今頃は彼岸の彼方で私を待っているに違いない。
妻に会いたい。
子に、孫たちに会いたい。
水面に浮かぶ龍の少女は、私に何も語りかけてくれない。
足元には底の見えない奈落のような雲海が広がっている。
もう一歩前に踏み出せば、この身は重力に従ってあの白い顎の中に消えるだろう。
もう少しだけ身体を前に押し出せば、楽になれる。
妻に会える。
――風が頬を撫でる
――辺りから音が消えた
――静かな息遣いと共に私は奈落の底へ足を――
――気が付けば、私はまた青い空を見上げていた。
何が起こったのか。
ちゃぷちゃぷと海の上に浮かびながら、島の縁にある岩に引っかかっている。
島から身を投げようとしたその瞬間、真下から吹き上げてきた突風に身を掬い上げられ、そのまま後ろへと放り投げられたのだ。
それはまるで見えない何者かの手が私を引き上げたような、あるいはこちらに来るなと押し上げられたような。そんな形容しがたい、不思議な感覚であった。
目の前が滲む。
「ありがたい、ありがとう……」
涙を拭い、翼を使って身体を起こす。
全身ずぶ濡れのまま我が家へ帰ると、囲炉裏の火に当たりながら見覚えのある着物姿の少女が静かに佇んでいた。
「奇妙なものだな、人というものは」
桜色の唇が、心を包み込むように静かに言葉を紡ぐ。
「共に在りたいと想いながら、共に在ることを願わない。龍として生きようと、その在り様を変えない。不変である余には理解できないものだ」
鼻を啜り、少女の隣へとどかりと腰を落とす。
この際、この龍がさも当たり前のように我が家にいることには目を瞑るとして、その相変わらず全てを見透かしたような、悟ったような物言いは少し癪に障った。
「お前さんにはわからんだろうな。愛する者の為に己を曲げる、己の幸せを二の次に置く、それこそが人の尊さよ。それこそが、愛情というものよ」
「情、か。それこそが醜く美しい、人の輝きか」
囲炉裏の火に、少女の顔がぼうっと浮かび上がる。
普段ぶっきらぼうな物言いが目立つ彼女にしては、今回はやけに饒舌であった。
「余は攪拌する者である。淀みを払う者である。又、彼の者は芽吹かせる者である。新たな流れを生じさせる者である」
ずい、と狂飆がその身を前のめりにして迫る。
胸元から真っ白な、手折れそうな鎖骨がちらりと覗き、紫陽花のような香りが鼻先をくすぐる。まるで能面のような無表情でありながら、その姿には人の心を狂わせるほどの魔性があった。
「余には、我らにはそうあれと定められた在り方がある」
白蛇のような指先が胸元に触れ、ぞっとするような冷たさで頬へと這い上がる。
蜂蜜のような色をした大きな瞳に魂ごと引き摺り込まれるようだった。
「そして、貴公もまた定められた者。貴公が人に近く在ろうとしても、その定めは変えられぬ。我らは不変、我らは不滅。努々、忘れぬことだ」
風が吹く。
炎が渦を巻いて伸び、戸が引き千切られん勢いで軋みを上げた。
いつもより少しばかり荒々しい去り際は、彼の龍の心中を表したものか。あるいは腑抜けた同胞を鼓舞する為のものか。果たしてその真相は嵐の唸りと共に消え、また彼方へと去っていった。
取り残され、魔性に魅入られ呆けた私の手には真っ白な蕾をつけた鉢植えが一つ。
はて、今朝手入れをした時にはまだ蕾などつけていなかった筈だが。
「お前さんも随分とのんびりしてるが、きっと私より先に枯れちまうんだろうなあ」
そう自傷気味に呟いて、私は鉢植えを抱いたまま少しばかり取っ散らかった玄関を出る。空は赤らみ、二重の月が薄っすらその白い姿を晒していた。
「さて、色々あったがまずは飯だ」
今日の夕餉は、いつもより豪勢にいくとしよう。篝火も派手に燃やして、皆で一緒に送ってやろう。それこそがきっと、あいつにとって最高の手向けになる筈だ。
まずはウナギもどきの肉を処理してしまう。そのぶ厚さはまるで座布団かという程であるが、これを腹から炭火でじっくり焼いて白焼きに。
脂が炭の上で弾ける音を聞きながら米を洗って火にかけておき、家畜小屋で鶏を絞める。
狸が死んだ時には後を追って身を投げる程弱っていたというのに、その日の晩にはけろっとした顔で我が子のように育てた鶏の首を撥ねるとはいやはや、狂飆の奴がいなくてよかった。もしもあの龍がこの場にいたのなら、また小難しい小言を頂いたに違いない。
そうしてさっと鶏を捌くと、その肉と内臓を竹串に通していく。もも肉はひと口サイズに切り分けて、米が踊る土鍋の中へ。
汁物は干し貝とうなぎモドキの肉を入れてお吸い物に。
さっと片手間で拵えるのはハマダイコンの葉のおひたし。刻んで茹でて、絞った後に魚醤をちょんと垂らす。
頭上に月が輝く頃には、我が家の食卓には数々のご馳走で彩られていた。
「それじゃあ、頂きます」
手を合わせ、箸へと手を伸ばす。
まずはうなぎモドキの白焼き。これに関しては襲われ仕留めたその晩に味わっているのだが、ふわりと柔らかい身は噛めば噛むほど旨味が溢れ、あの不気味な見た目からは想像もつかないほどの美味であった。
「うん、やはり美味い」
出汁の染み出たお吸い物を啜り、焼き鳥を頬張る。
ハツにレバー、皮にむね。味付けが少量の塩だけなのが実に惜しい。嗚呼、ここにタレをこれでもかという程塗りたくって齧り付ければ、これ以上の幸せはないだろうに。
しかし、お楽しみはこれから。
傍らに鎮座した土鍋を開ければ、中から現れたるは芳醇な香りを立ち昇らせる炊き込みご飯。
鶏めし、にしては色が薄いが、残念ながらここに醤油や砂糖なんていう上等なものはないのでご勘弁願いたい。
しかし私にとっては、鶏の出汁がしみ込んだこの米こそ何よりのご馳走であった。
鶏めしを掻っ込み、白焼きを摘まむ。
口の中を落ち着けたくなった時にはハマダイコンのおひたしの出番だ。これもまた、大根の葉に似てさっぱり美味い。
「さてさて、秘密兵器のお目見えだ」
宴もたけなわといったところで部屋の奥から引っ張り出したのは、大事に大事に封をされた一抱えほどの壺。満を持して封を解き、竹の杓子で救い上げたのはきらきらと輝き、芳醇な香りを放つ黄金の液体であった。
これぞ私のとっておき。
蜂蜜酒、ミードと呼ばれる人類最古の酒である。
製法はいたって簡単。蜂蜜を水で薄めて寝かせるだけ。あとは自然と発酵が始まり、三週間もあれば酒になる。
無論、現代日本であれば酒造法に触れる違法行為であるがここは異世界であり、人っ子一人いない空の無人島である。私が勝手に酒を造ったところで誰が咎められようか。
「それじゃあ、小さな友人の幸せを祈って、乾杯」
器に並々と注がれた酒を、ぐっと喉奥へ流し込む。
すっと、鼻先に蜂蜜の甘い香りが抜ける。度数はさほど高くなく、白焼きや鶏めしに合っているかと言われれば正直喧嘩しているぐらいだが、この喉奥がかっと熱くなる懐かしい感覚たるや、思わず目頭も熱くなろうというもの。
「美味い、美味いなあ」
反対側にちょこんと置かれた白焼きのその向こう。太々しい態度で欠伸を漏らす獣の姿を幻視する。
十六年目の春の夜。
手酌で注いだ酒の上、零れた雫が弾けて消えた。