蛸と龍と
十一年目、夏。
入道雲を向こうに見ながら、水面がうねる。
海面を押し上げ、水飛沫と共に飛び出してきたのは大人の胴を三つ束ねたような太さの、無数の吸盤が並んだ触腕であった。一つ、二つ、三つと続いて飛び出しては、空中を飛び回る私を絡め捕らんと唸りを上げて襲い掛かってくる。
「やれやれ、また厄介な奴が現れたな」
あの巨大な吸盤に捕まれば最後、水底まで引き摺り込まれて後はもう貪られるばかりだろうが、幸いにして動き自体は緩慢であり、これならばよほど余所見をしない限り万が一もないだろう。
四方を囲んで包み込むように迫ってきた触腕を熱線と石斧で切り裂きながら、私は浅く息を吐く。
残心。
私が静かに見つめる先で、先程分断されたばかりの触腕が不気味な青い血と生臭い粘液をまき散らしながら海底へと引っ込んでいく。
それらと入れ違うようにして海面がこれまで以上に大きく盛り上がると、そこからつるりとした頭に巨大な丸い目をした怪物が現れた。
赤黒い体色に、ぬめりのある体、八本の太い足。
蛸である。
鯨でも丸齧りにできそうな、小島のような大きさの蛸であった。
焼けばさぞ食いでのありそうな巨体であるが、その表面を覆う粘液は夏の日差しに十日晒した生魚のような強烈な臭いを放ち、とてもではないが食おうという気にはならない。
ぎょろりと、頭の下の方に引っ付いた目玉がこちらを睨み付ける。
どうやら足を切り落とされて相当ご立腹の様子だが、こちらからしてみれば逆恨みもいいところだ。
私は腰に手を当て、尾を振り回しながら睨み返す。
「言わせてもらうがね、初めに手を出したのはお前さんの方だからな」
溜息を吐く私の身体には、股から腹、そして背中にかけて判を押したような丸い吸盤の跡がくっきりと残っていた。
これは今朝方、磯場で罠の確認をしていたところを襲われ、水中に引き込まれる直前で何とか脱出した時に付けられたものだ。枯れ切った爺な私ではあるが、嫁入り前の娘の身体にこうもキズ物にされては腹の一つも立てる。
そも、こいつはいったいどこから湧いて出たのか。
大猪や大虎とは文字通り桁違いの巨大であるし、これほどの異様を見逃すほど私も耄碌していないつもりだったのだが。
「まあ、どのみちいつかは相対する運命だったのだろうし、喰うか喰われるか、それ以外の問答は無用か」
奴さんの足は半分切り落としてあと四本。こちらは頭上から一方的に攻撃できるし、冷静に対応すれば負けはない。
そうして私が得物を構え直したその直後、先程まで青い血が噴き出していた大蛸の足がその動きを止めた。いや、僅かに震えているように見える。力強く握りしめられた拳のように、あるいはきつく結ばれ軋む音さえ聞こえそうな口元のように。
そして次の瞬間、乱暴に切断されたその断面から新たな足が飛び出してきた。
そういえば、蛸の足はトカゲの尻尾のように、切られてもまた生えてくるのだったか。であるならば、蛸をそのまま大きくしたようなこの怪物もまた、蛸と同じ特徴を持っていても不思議ではない。流石に、ものの数秒で再生したことには目を丸くしたが。
しかしその再生力もそう万能ではないらしく、切り落とした足のうち新しく生えてきたのは二本のみ。龍の炎で焼き切った残り二本は傷口が焼いて塞がれている為か、再び生えてくる様子はない。あるいは、龍の力に寄るものか。
ともかく、これで方針は固まった。
あとはもう、特に記すようなこともなく。
寄ってくる足を炎で焼き払い、無防備になった眉間に一撃。
久方ぶりの怪物との相対は、それで呆気なく幕を閉じた。
奴さんも途中からは口から墨を吐いたり、体色を変えて海中へ逃げようとしていたようだが、今回ばかりは相手が悪かった。
相手が蛸で、その性質もほぼほぼ私の記憶の中にあるものと相違がないとわかった以上、逃走の際に使用する墨やら何やらには当然警戒していたし、これまで油断や慢心から散々痛い目を見てきた私であるので、こういった手合いと戦う場合は念には念を入れ、相手の息の根を止めるまで一切の油断、容赦を捨てる心意気でかかった。
その結果、件の蛸さんは奥の手も虚しく空を切り、今まさに砂浜で私の夕餉になろうとしていた。
「ここまでデカいと捌きやすくて助かる」
大部分、特に頭などは内臓の臭いがきつく捨てるしかないだろうが、八本の足の真ん中辺りは臭いの原因であるぬめりを皮ごと取り除いてしまえば何とか食べることが出来そうだ。少し身が残るぐらい厚めに皮を取り除き、ゴムのような弾力の身をぶつ切りにした後で蔓を使って纏めて縛り上げた。
そうして戦利品を担ぎ上げて家まで帰ると、薄切り、厚切り、ブロック状と用途に合わせて切り分け、小屋から少し離れた場所にある別の小屋へと運び込む。
その小屋自体には、何もない。ただただ、部屋の中央に藁が敷かれた木の蓋があるだけである。しかし蓋を開け、備え付けられた梯子を下れば、夏とは思えない冷ややかな微風が肌を撫でた。それもその筈、常に一定の温度に保たれた地下室に並んでいたのは幾つもの氷の塊。
ここは、去年の夏にようやく完成した氷室だ。
外気温の影響を受けにくい地下室を藁や葦で作った小屋で覆い、冬のうちに川やら泉で出来た氷を切り分けて運び込んでおいた。
こうしておくことで夏の間も食料を長持ちさせることができる。いわば原始的な冷蔵庫のようなものだ。
そうして今夜のうちに食べてしまう分以外を保存すると、次は家畜と畑の面倒を見る。
それが終わる頃にはだいたい空は赤く染まり、私はようやく出来た余暇の間にぼうっと空を見上げた。
家畜も増え、初めは一畳分も無かった畑も今となっては随分と大きくなり、人ひとりが食っていくには十分な実りも得られるようになった。
私の龍としての力も次第に強くなるばかりで、あの大鷲を超えるような化物でない限りはそう易々と後れを取るようなこともなく、逆に今日のように返り討ちにしては、十日か、あるいはひと月は持つ程の食料にしてしまう、そんなことばかりだ。
そうしていくと、こうやってぼうっと、何も考えずに過ごす時間が増えてくる。
心に余裕が出来る、と言い換えてもいい。
しかしこの心の余裕というのが実に厄介で、考えなくてもいいこと、思い出さなくてもいいようなことまでその余裕に滑り込んでくる。
「あいつらは、元気にやっているかなあ」
空を見上げ、思い出すのは家族の顔ばかり。
大往生した爺が何を女々しいことを、と思われるかもしれないが、生憎それ以外に縋るものがない。
目を見張るような、例えば空いっぱいに広がる大陸でも浮いていればそんな余計なことも考えなくなるだろうが、今となっては空に小さな島が一つ二つ流れていたところで、川を泳ぐ魚を眺めるのと何ら変わらない。
慣れてしまった。
「慣れんでもいいのになあ」
ぽつりと、そんなことを漏らす。
されとて十年、十年である。
どれほど突飛なことであれ、珍妙な世界であれ、十年も暮らせば慣れもしよう。
こんな時、妻なら、あの人ならばどうするだろうか。
或いは孫なら、あの遊び上手な男であればどのようなことをして気持ちを紛れさせるだろうか。
思いを馳せる。彼の地に、今はもう届かないあの場所を思い浮かべる。
「何見てるの?」
そんな私の頭上から、声が降る。
中性的な、少年とも少女ともつかぬ虹色の声が。
見上げれば、そこにあったのは鮮やかな翠色の瞳と、真っ白な、ふわふわした羽毛に包まれた大きな頭。そこから二本、金の枝が絡み合って伸びているような美しい角が緩やかな曲線を描いて後ろへと伸びていた。
くりっとした無邪気な瞳に、私の間の抜けた顔が映り込んでいる。
「やあ、初めまして!」
呆気にとられる私を置き去りにして、真っ白な何者かは溌剌とした声と共に翼を広げた。
赤、黄、緑。
先端が色鮮やかに彩られた、雪のように白く美しい翼に目を奪われる。
「は、初めまして」
辛うじて口から零れたその言葉は、夏の夕焼けに溶けて消えていった。




