龍の吐息は湯気に蕩け
サービス回(?)
木々が葉の色を変え、森全体が赤みを帯び始めたとある秋の日。
僅かに冬の気配を感じさせる肌寒い風に身を震わせながら、私は小屋の裏でひたすら拡張工事に勤しんでいた。
柱を立て、屋根を作る。素材はいつもお世話になっている竹と泉の周辺から切り出した木材やら丸太やら。
拵えているのは四阿と呼ばれる、屋根と柱だけの建築物。公園などの休憩所によくあるあれだ。
正確には四阿らしき物であり、ある物を用意する為にそれなりに広く、雨が凌げる屋根があればそれで十分な為、作り自体はかなり簡素なものとなる。
流石に小屋を何件も建てていればこれぐらいの作業なら手慣れたもので、昼飯時になり腹の虫が鳴り始める頃には六畳程の広さの、それなりに整った四阿が出来上がっていた。
本日の昼餉は焼き魚と貝のスープだ。
午後も作業が残っている為、手早く胃に流し込むと私は海岸までひとっ飛びして、下準備していたとある品物を担ぎ上げた。
三日月のような形をした、ともすれば大きな獣の爪にも見えるそれは何を隠そう、いつか仕留めた巨大な怪鳥の嘴そのものである。あの時、怪鳥の体は肉から骨から、内臓に至るまで活用できそうな部分は全て解体して保存、小鬼族の人々と分配していたのだが、この嘴はその時に確保していたものだ。
大きさは私の身体がすっぽりと収まってしまう程だが重量はそれほどでもなく、抱えて飛ぶ分には何ら支障はない。あれほどの巨体であっても鳥は鳥ということなのか、しかしその強度は骨というよりは鋼鉄に近く、なるほど確かに、これほどの嘴であればその一撃は鯨でさえも容易に仕留めることができるだろう。文字通り一口サイズの小鬼族などひとたまりもない。
しかし今はこの強度こそが肝要。
嘴を我が家まで運び終えた私は、そこで改めて寸法を測り直して丸太で土台を組み始めた。四角く土台、枠組みを拵えたらそこへ逆さにした嘴を嵌め込んでいく。土台と嘴が接触する部分に凹型の溝を掘って固定し、底部は地面から少し離れるように高さを調整する。
完成したら、それを土台ごと持ち上げて先程作った四阿の下へ。ここまでくると、全体的にそれらしい形になってくる。
「よしよし、素人にしてはよく出来てるじゃないか」
完成したそれを見て、満足げに頷く私。
小屋の裏に出来上がったのは、怪鳥の嘴を浴槽代わりにした露天風呂だ。
屋根以外に視界を遮るものはなく、いつでも正真正銘の森林浴が楽しめる。家畜小屋が近いので少しばかり獣臭いのが難点だが、あまり離れた場所に作ると水を汲んでくるのに苦労するので仕方がない。
壁がないので辺りから丸見えだが、そもそもが私しかいない無人島であるので覗きの心配はない。
問題は、この嘴がしっかりと浴槽として機能してくれるか、である。
固いとはいえ骨は骨なので、湯が沸く前に脆くなって穴が空いたりしたら使い物にならない。一応は私の炎で炙ってみたりして耐火性は確認しているが、それでも精々が一分前後。それ以上続けてどうなるかまでは試していない。
まあ実際には中に水を張るので燃えることはないだろうが、いかんせんこれほど大きな嘴を浴槽にするなど前代未聞のこと。何があるかは実際にやってみなければわからない。
「さて、それじゃあ試してみるかい」
まずは泉から水を汲む。と言っても土器でちまちま汲んでくるのは手間がかかりすぎる為、ここは自慢の腕っぷしにものを言わせて浴槽ごといく。おおよそ二百キログラムはあるだろうが、今の私にとってこれぐらいの重さは子犬を抱き上げるのとそう変わらない。
そうして水を張った浴槽を土台へ戻し、その下で火を焚いて湯を沸かせる。
しばし時間を置き、しっかりと適温にまで沸き上がったらさっさと着ているものを脱ぎ捨てていざ湯舟へ。まずは土器で湯を汲んで身体の汚れを落とすのだが、ここで取り出したるは白濁した四角い物体。
これは今の今まで食べ続けた貝の殻で作った石灰と獣脂、そして海藻を灰になるまで燃やし、それを水に浸すことで出た上澄み部分、つまりは水酸化ナトリウム、あるいは苛性ソーダと呼ばれるものを使った、手作りの石鹸である。
材料さえ揃えばどんな世界であろうと作ることが出来る代物ではあるが、この苛性ソーダはとても強いアルカリ性で劇物に指定されており、手に付着すれば爛れ、目に入ろうものなら失明の可能性すらある。
つまりは軽い気持ちで手を出すと取り返しのつかないことになる超の付くような危険物なのだが、これに関しては流石の私もなるべく皮膚には付着しないよう慎重に取り扱った。
まさか竜の肌を傷つける程の力はないだろうが、念には念を、というやつだ。
そうして拵えた手作り石鹸だがこれが中々に素晴らしい出来で、水に濡らして軽くこすれば真っ白な、通常の石鹸と比べてもそう遜色のない綺麗な泡が次々と湧き出してくる。
デカい猪やら鳥やらと獣の脂には事欠かなかった為にそれなりの量を作っていたりするのだが、それらが遂に本領を発揮する時が来た。
まずは髪から。
この島で目覚めてからこちら、水で汚れを流すぐらいしかしていなかったにも関わらず不思議と痛むようなこともなく、その美しさに一切の陰りも感じさせない自慢の銀髪ではあるものの、だからといって手入れを怠って良い道理はない。
まずは手櫛で軽くごみや汚れを落とし、何回かに分けて湯をかけて髪全体をしっかりと濡らしておく。奥までしっかり濡らしたら、泡立てた石鹸を髪全体に優しく、丁寧に揉み込んで馴染ませる。男の髪と違って細く繊細なので、強く擦ったり乱暴に扱うのは厳禁だ。
この島で初めて作った石鹸は少しばかり獣臭さがあったものの洗い流せばそう気になる程でもなく、概ね成功と言っていい仕上がりであった。
「はは、もう半世紀以上前のことだが、案外しっかり覚えているもんだ」
肩から流れる髪に指を通しながら、遥か彼方の記憶を辿り苦笑する。
まだ娘が幼い頃は、こうして髪を洗ってやったもんだ。
特に子どもの髪なんかは大人よりもずっと繊細な為、少しでも雑に扱うとすぐに痛がって大変だった。ずぼらだった私なんかはその都度、女子の髪はこう扱うべしと妻に厳しく躾けられたものだが、まさか昔取った杵柄がここに来て役に立つとは、人生何があるかわからないものだ。
そうして髪に馴染ませた泡をこれまた丁寧に時間をかけて洗い流し、くるりと丸めて角に乗せたら次は身体を洗っていく。
これもまた、随分な手間だ。
何せ人よりも洗う部分がいくらか多く、さらに腰回り、胸元、腕や足の鱗まで磨かなければならないのだから、人の倍以上は手間も時間もかかる。
「なんだ、また少し増えたか」
きゅっとくびれた腰に泡を塗りながら、私は以前よりも鱗の数が増えていることに気が付いた。腰回りに広がっていた部分がまるで肋骨に沿うように這い上がってきており、手触りから察するに背中の方も背骨を覆うように鱗の部分が広がっているようであった。
見れば内腿の方にも鱗は広がっており、どうやら傷付けられれば致命傷になりやすい部分を優先的に防御するように、皮膚の表面が徐々に鱗へと変異しているようだ。
「まさか、背びれでも生えてくるんじゃないだろうな」
竜なのだからあり得ない話ではない。
しかしそうなると竜というよりは恐竜、怪獣の類ではなかろうか。
下手な鎧よりは頑丈な鱗が急所を守ってくれるのは実に心強いのだが、これ以上背びれ尾ひれが引っ付くと、いよいよ仰向けで眠るのにも苦労するようになってしまう。それは、出来れば勘弁してほしいものだ。
「まあ、悩んだところで成るようにしか成らんか」
褐色の肌に浮かぶ白い泡を洗い流しながら、私はそう言って頭を振った。
足の爪先まですっかり綺麗になったことを確認すると、いよいよ、ようやく湯舟へと身体を鎮めた。
身を清めるのにかなりの時間がかかったのでもうすっかり冷めてしまっているかと思いきや湯は丁度いい塩梅で、腰まで浸かるとついうっかり口から間抜けな声が漏れだしてしまった。
「あー、生き返るなあ」
尻尾と背中が邪魔になるので寛ごうとするとどうしてもうつ伏せに近い、浴槽にもたれかかるというよりはしな垂れかかるような体勢になるのがちょっとばかり不満ではあるが、これはこれで心地良い。
特に翼は皮膜の部分に細い血管が通っているのか、どっぷりと湯舟に漬けるとまるで蕩けるような温かさであった。
立ち昇る湯気。森に響く鳥たちの声。木々のざわめき。
尻尾が湯舟を揺らす音。
富士たちの声と匂いで色々と台無しではあるが、これもまた一つの味というものだろう。
「良いなあ、これは堪らんなあ」
日々の忙しさ、殺伐さを束の間忘れ、私の口から甘く熱い吐息が漏れる。
娯楽の少ないこの島に、新たな楽しみが生まれた瞬間であった。