虎穴に入らずんば
揺れる。
優しく、しかし力強く、それはまるで子を抱きあやす母親のような繊細さで。
揺れる。
それは記憶の奥底に眠っていた、幼少の記憶。覚えているはずのない、かつての光景。
それは寝付きが悪くぐずっていた私を抱く母の微笑み。
あるいはそれは、泣きつかれて眠る私を背負う、父の背中。
優しく、力強く、そして誰よりも厳しかった両親の姿であった。
やがてひんやりと心地よい感触が肌を伝い、私の意識はゆっくりと常世から現世へと浮き上がってくる。
そうしてまず目にしたのは、こちらをじっと覗き込む水晶玉のような瞳であった。
思考が固まる。
身体が凍り付く。
すわ何事かと私が声を上げるよりも早く、瞳の主がその大きな前足を持ち上げて、少しの躊躇いもなくこちらの頭目がけて振り下ろされる。
——ぷにっ。
そんな音が聞こえるような、柔らかい感触が顔面に押し当てられた。
「んが、んごご」
猫、いやどちらかといえば犬の肉球が近いだろうか。柔らかく、土臭い、何とも言えぬその感触を払いのければ、そこにあったのは記憶にあるものよりもずっと小さな、柴犬程度の体付きをした虎の姿があった。
縮んだ。そんなまさか。
狼狽えている私の顔が面白いのか、甲高い、虎というよりは子猫に近い鳴き声を発しながら右へ左へと飛び回るその後ろから、同じような顔をしたもう一匹がひょっこりと顔を出した。こちらは警戒心が強いのか、はしゃぎ回る個体の後ろからおっかなびっくりといった風に耳を伏せ、岩陰から顔を半分出したりしまったりしている。
その姿を見て、ぴんときた。
この二匹は、あの大虎の子どもなのだろう。
先に見つけた、あの死んでいた大虎が番であったならば、その間に子を儲けていても不思議ではない。
となると、ここはあの大虎の巣であろうか。どこかの洞穴のようだが、奥は暗闇で覆われておりどこまで続いているのか、その全容を知ることはできない。
ここで私はこれから、この可愛らしい仔虎の夕飯にでもなるのだろうか。
ちらりと背を見る。傷はまだ、癒えてはいない。相変わらず腰から下の感覚も曖昧であるし、ここから逃げるのはかなり困難を極めるだろう。
あの状況で止めを刺されなかったのは解せないが、状況的に見れば私は身動きが取れない新鮮な餌以外の何物でもない。
だが幸運なことに、仔虎たちは私のことを遊び道具、あるいは初めて見る珍獣程度に思っているようだし、親が帰ってくる前に這ってでも身を隠さなければ。
そうしてじゃれついてくる仔虎を尻目に、身体を引きずるように洞穴の出口へと向かった、その時であった。
どすんと、ひと際大きな足音。
低い唸り声。
巨大な影が、私を覆い隠す。
恐る恐る、顔を上げる。まるで悪戯が見つかった子どものように、ぎこちない動き。
大きな前足。鋭い牙が覗く口元には、戦利品の如く大蛇の亡骸をぶら下げて、冷徹な瞳でじっとこちらを見下ろしていた。
僅かに見えた希望が、無慈悲にもすり潰されていく絶望感。
私の行く末を暗示するように、大蛇の亡骸がぼとりと目の前に零される。そして、先程までそれを咥えていた牙が、ゆっくりと私の首筋にあてがわれた。
圧倒的な死の恐怖に、目の前が真っ白になる。
頭の中はもうぐちゃぐちゃで、下腹部がじわりと湿っぽくなるのを感じた。
そのまま、持ち上げられる。力はまだ込められず、私の首は繋がったまま。
小柄故にあっさりと持ち上げられた私は洞穴の奥、仔虎たちが待つ場所まで運ばれる。だが、その運び方が妙だった。
はじめはこのまま首の骨を噛み砕かれ、殺されるのだと恐怖し、失禁までやらかしたものの、どうにもおかしい。やけに私の扱いが丁寧なのである。
獲物、すぐに食い散らかす餌の扱い方ではない。
優しく、壊れないように、しかしうっかり落としてしまわないよう確かに力は込めながら。
どこか懐かしいその感覚に目を丸くしていると、やがて私は仔虎たちがじゃれあう寝床の真ん中にそっと置かれた。
あっという間に、仔虎がまた纏わりついてくる。
そこには警戒心など欠片もない。こいつは絶対に自分を害さないという、絶対的な信頼があるのだろう。満足に身体を動かせないだとか、親が近くにいるだとか、そんなことではなく、それはまるで弟が兄に甘えるような、親愛に近い感情なのだろう。
何故だかわからないが、そんな風に思う。
やがて私を運んできた大虎が、入り口から大蛇の死骸を引きずってきた。
仔虎二匹が飯だ飯だと盛り上がる中で、大虎はそれを引き裂き、食い千切り、引き千切っていくつかの肉塊へと変えていく。
そんなことをしてあの腐食液は大丈夫なのかと心配になったが、どうやらあの液を含んだ分泌腺だったり毒袋だったりは頭に固まっているらしく、私が燃やして黒焦げになったそちらは誰も手を付けず、巣の奥で虫に集られていた。
動物としての本能なのか、あるいはどこぞの狸のようにそれなりに高い知能を有しているのか、なんとも器用にやるものだと感心しつつ蛇肉にがっつく仔虎たちの様子を眺めていると、目の前にでんっと赤黒い物体が置かれた。
私の頭ほどはある巨大なそれは、大蛇の心臓であった。私の頭ほどはあるそれは、驚くことに死んでからかなりの時間が経っているにも関わらず未だ脈打ち、その命を必死に繋ごうと足掻き続けていた。
恐ろしい、いっそ壮絶な程の生命力に圧倒されていると、それをじっと見つめていた大虎がまるで何かを催促するように、それを鼻先でこちらへと押し出してきた。
食え、ということなのだろうか。
いやいや、確かに蛇は精力増強、滋養強壮に良いとは言われているが、いくら何でもこのサイズを、それも生で食うというのはいささか理性が咎めるというか、食中毒だとか、寄生虫だとか、その辺りを考慮すると到底食っていいものには思えないのだが……。
ちらり、と大虎の目を見る。
いくらか穏やかになったように見えるその瞳にはしかし、全部食らうまでは目を離さないという、確固たる意志が浮かんでいた。
これを、食う。
再び、大蛇の心臓を見やる。
まだ血の滴る新鮮な心臓が脈打つ。
互いの存在をかけた闘争の果てに、私が奪った命。
止めを刺したのはこの大虎であるが、あそこで私が致命傷を与えなければ、大虎自身もどうなるかわからなかった。事実、この大虎の番はあの大蛇に殺されているのだから。
であるならば、奪った命に敬意を払うことこそが生物としての、自然の中に生きる者としての掟なのではないだろうか。
差し出された心臓を、そっと抱き上げる。
命を頂くのであるから、礼は尽くすべきだろう。心臓を抱え、私は残った腕と翼を使って身体を起こす。軋み、痛む腰に鞭打って姿勢を正し、徐々に弱りゆく心臓へと手を合わせた。
「頂きます」
目を開き、掴み上げた心臓へと牙を立てた。
濃厚な血の匂い。口が裂けたのかと錯覚するほどの鉄の味が舌を蹂躙し、えずくほどの生臭さが喉の奥を掻きまわす。
胃液が逆流する。花火が爆発したような閃光と衝撃が頭の中を駆け巡る。
しかし、それらを理性で無理矢理に押し込んで、私は食い千切った心臓のひと欠片を何とか飲み下した。
ほぅ、と蕩けるような吐息が漏れる。
変化は劇的であった。
それが胃の中に入った途端、血生臭さは脳を麻痺させる麻薬めいた甘い香りに、鉄のような血の味は高級和牛にも引けを取らない、得も言われぬ旨味の塊へと変わった。
それからは、あっという間だった。
残っていた理性はそのあまりの旨さに数秒で消し飛び、まるで腹を空かせた野犬のように心臓を、その血肉を食らいつくした私は全身を走り抜ける快楽に酔いしれながら、いつしか夜も更け、怪しく光る二つの月をぼぅっとした目つきでぼんやりと眺めていた。
両の足で、しっかりと大地を踏みしめながら。
銀の髪が、風に流れる。
柔らかな月明かりを全身に浴びながら、私は両翼をいっぱいに広げ、火照った身体を夜風で冷ます。
すらりとした足はより長く。
尻は女性らしい丸みを帯び、腰は柳の枝のように細くしなやかで、たわわに実った乳房は手の平で掬い上げてなお溢れるほど。
少女から女へと変わりゆく危儚さと、それ故の背徳的な美しさ、そして妖精のような妖しさを孕んだ肢体が、そこにはあった。
「ああ、なんという、なんという心地良さか」
身体から漲る生命力に、私は両手を広げて歓喜した。
溢れ出る万能感。今ならばどんなことでも成し遂げられそうな、それほどの充足感。
これだ、これこそが、私だ。私という、存在なのだ。
そうして、私は月に向かって雄叫びをあげる。
背後でどこか冷ややかな視線を向ける獣の気配にすら気付かずに。
そうして、一通り勝鬨の声を上げたその直後。
「あれ、なんだ、力が……」
ふっと、まるで電池が切れたように、私の意識は再び闇へと沈むのだった。
さらばロリ(血涙)
でもまだJKぐらいなのでまだロリでも通じるか……?
これ以上成長させるかは未定です。




