竜虎相搏
グロ表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
獣の痕跡を発見してから、早十日が過ぎた。
あれから森の中を探索し、虎と思われる獣の縄張りがどの程度の規模か、その大まかな範囲は把握することができた。
どうやら奴さんは予想よりもかなり狭い、しかし島全体で見ればそれなりの範囲を縄張りにしているようで、具体的に言えば島の中央、あの一つ山とそこから流れる川の殆どが縄張りの中に納まっていた。
どうやら前回、川の辺りを探索した際に出くわさなかったのはかなりの幸運であったらしい。あるいは、当時はまだ川の付近にまで縄張りを広げていなかったか。
いずれにせよその範囲、境界を把握したことで今のところ獣に襲われることもなく、今まで通りの日々を送れている。
ただ、幾つか変化はあった。
一つは、最近になって獣の縄張りが広がる様子を見せなくなったこと。ほんの数日前までは森の中で新たな痕跡などを見つけることが出来ていたのだが、これがぱったりと無くなった。
もう縄張りを広げる必要が無くなったのか、あるいは他のことに気を取られているのか。
そしてもう一つは、私の第六感というか、本能というか、そういった直感的な部分の変化。
何というか、ずうっと角の辺りがむず痒いのである。
今までに何度かあった、異常を察知してのざわつきとはまた違う感覚で、何というか、落ち着かない。
異物感というか、嫌悪感というか、そう、頭を洗っている時、背後に何者かの気配を感じた時のような、形容しようのない不気味な感覚。それに近い。
それがここ数日ずっと、起きていても、寝ていてもまるで影のようについてくるのだ。
そんな状態で安眠など出来ようはずもなく、今日も今日とて私は目の下に大きな隈を作り、欠伸を噛み殺しながら身支度を済ませ、空へと上がる。
背には大弓、腰には矢筒とナイフ、そして手には鱗の槍を持ち、竹の盾は蔓でベルトを作って尻尾の先端に固定できるように工夫した。こうして尻尾で盾を扱うことで、槍や弓を取り回す際も邪魔になることはない。
たかだか尻尾と侮るなかれ。こう見えて私の体重程度なら軽く持ち上げる力があるのだ。
そうして、完全武装の上で私は違和感の元、その気配が強くなる方へと向かう。
どう考えても善いモノではない、悍ましさすら感じるモノではあるのだが、その正体を確かめないことには私に穏やかな夜が訪れることは二度とない。であるならば、どれだけ気が乗らなくとも確かめねばなるまい。
「うっ、なんだこれは」
そして、異変はすぐに見つかった。上空にも届く程の強烈な悪臭が、森の一角から立ち昇っていたからである。チーズとくさやを混ぜ合わせて腐らせたような、筆舌に尽くしがたい臭いに私は思わず鼻を摘み、目を細めた。最近は自分でも猫か犬かと思う程に鋭くなった嗅覚であったが、それがここにきて完全に裏目に出た。ほんの少し、せいぜい一息程度であったにも関わらず、まるで鼻孔の裏に纏わりつく様な悪臭に涙まで浮かんでくる。
しかし、いかに鼻が潰れそうな臭いであろうとも、明らかな異変を前にして逃げ帰ることなどできようはずもない。鼻を摘み、えずきながら臭いの原因を探すこと少し。森へと降りた私の目の前に広がっていたのは、予想を遥かに超える、目を背けたくなるような惨状だった。
動物の死骸である。
背は三メートル以上。胴回りは私が二人横に並んでなお余るほど。しかし筋骨隆々で逞しいその肉体も今は半透明の粘液に覆われ、虫も寄り付かないほど強烈な腐臭を放っていた。両目はとうに腐り落ち、茶と黒の縞模様をした腹からヘドロのような色の腸がまろび出ている。
そのあまりにも凄惨な姿に、私は腹の奥からせり上がるものを堪えきれず、その死体から背を向けるようにしてぶちまけた。
どれぐらいそうしていただろうか。やがて腹の中も空っぽになり、喉が焼けるような不快感だけが残った頃、ようやく私は現状の確認を始めた。
恐らくは、虎の死体である。
虎柄の毛皮。大きな牙と手足。長い尻尾。
体格こそ地球の虎を遥かに凌駕しているが、その特徴は概ね一致する。
そしてここ最近まで縄張りを広げていた、例の獣の正体とみて間違いないだろう。
では何故、島の三分の一近くを縄張りにし、間違いなく生態系の頂点に立つであろうこの大虎が、こんな尋常ではない死に方をしているのか。それが問題だ。
込み上げるものを必死に抑えながら死体を改めていると、その首筋にかなり大きな、私の拳ぐらいならすっぽり収まってしまいそうな刺し傷を二つ見つけた。どうやらこれが致命傷となったようだ。
同族同士の縄張り争いでもあったのかとも思ったが、それでは纏わりついている粘膜の説明がつかない。
そうして正体不明の粘膜を調べる為に木の枝を突き入れてみると、何ということか、粘膜に触れた枝の先がぶすぶすと音を立て、煙まで上げ始めたではないか!
先程まで胃をひっくり返してげんなりしていた私であったが、これには翼と尻尾を跳ね上げ、まさしく弾かれたようにしてその場から飛び退いていた。
酸か。毒か。
どちらにせよ、尋常ではない。
よくよく目を凝らして見れみれば、虎の死体が横たわっている辺りの草木はぐずぐずに腐り、黒く変色していた。
嗚呼、何と馬鹿な男だろう。あれだけわかりやすい異常が目の前にありながら、まるで警戒することなく近づいてしまうだなんて。
しかし周囲の環境にも悪影響を及ぼすとなると、あの死体をこのまま放っておく訳にもいかなくなった。今のところ拡散する様子はないが、何かの拍子にアレが風に乗って島中に広がりでもすれば最悪の場合、この島が草木の生えない不毛の土地になってしまう可能性だってあるのだから。
しかし、かといって不用意にアレに近づくわけにもいかず。
「仕方がない。焼き払うか」
少しばかり考え込んだ後、そう決心した。
周辺への延焼が心配だが、今から木を切り倒して防火線を作る余裕など無いし、近場の枝を落とした後は様子を見ながらやるしかない。
そうと決まれば早速始めるかと、私が腰からナイフを取り出したその時。
森の中に、地を揺るがすほどの獣の咆哮が響いた。
まるで雷鳴のようなその咆哮に私が身構えると、森の奥、木々の間から大きな足がのしり、とその姿を現した。茶と黒の縞模様をした、象と見まごう程の強靭な前足である。
そうしてひりつく様な緊張感の中、威厳と高貴さを感じさせる、王者の顔が露わになった。
黄金の瞳に歌舞伎の隈取に似た縞模様。頬は引き締まり、唸る口元からは鋭い牙が僅かに覗いている。
平伏したくなるような、威圧感。
涙さえ零れそうになるような、美しさであった。
「凄い」
そうとしか、言えなかった。
逃げるとか、戦うとか、そういった感情、思惑はとっくの昔に頭から抜け落ちて、まるで絶世の美女の艶姿を目の当たりにしたように、私の目は現れた大虎の姿に釘付けになっていた。
だがそんな蕩け切った腑抜けた心は、次の瞬間には魂さえも凍り付く恐怖へと変わる。
低く唸る大虎の黄金の瞳。その中に自分が映っていないことに気が付いたのと、明らかに異質な音が森に染み入るように響くのとは、ほぼ同時であった。
それは微かな息遣い。
細く、静かに吐き出す、何者かの冷たい声。
全身の毛を逆立てながら、大虎が咆哮をあげる。鋭い牙を剥き出しにして、僅かに姿勢を低く構えながら正面を睨みつけた。
ぞっと、背筋が凍るようであった。
頭上を覆う木々の合間を縫うように這う、鉄色の体。
細長い口先からは二股に分かれた舌が顔を出し、大虎と同じ黄金の瞳に宿るのは寒気がするほど生気を感じさせない冷酷な意思。
それは巨大な蛇であった。
眉のような、あるいは王冠にも似た逆立つ鱗を持ち、鋭い牙が乱雑に並ぶ口元からは悍ましい腐臭を放つ、亡者のような蛇である。
瞬間、理解する。
先程の惨状は、この者によって作られたのだと。
大虎が咆える。それは警告であった。
それ以上近づけば命はないという、最期通達。
しかし大蛇は何ら臆する様子もなく、悠々とした態度でその大きな頭を持ち上げた。
その体格は大虎にも引けを取らず、頭から尾の先までは十メートルはありそうだ。
大虎の唸り声と、大蛇の冷たい息遣いを交差する。
先手を取ったのは大蛇の方であった。
大きく裂けた顎から、僅かに濁った半透明の液体を大虎に向けて放つ。
これを大虎は大きく横に飛び退くことで躱すが、放たれた液体は大虎の背後にあった木にぶつかると、これをぐずぐずに腐らせてしまった。恐ろしい程の腐食性である。これをまともに浴びてしまえば、いかに大虎といえどもひとたまりもない。
逃げるべきか。
あるいは戦うべきか。
どちらと。どちらも、私の命を脅かす脅威には違いない。
漁夫の利を狙うか。
いや、見たところ大虎はあの腐食液を警戒して攻めあぐねている様子だし、何より同格であろう別の個体が大蛇に殺されているところを見るに、実力は大蛇の方が上。
であるならば、ここは大虎を助けてより大きな脅威を排除するべきか。
物陰に隠れ、そんなことを考えている内に状況に変化があった。
今まで腐食液を躱し続けていた大虎が、ついに攻勢に出たのである。
大蛇の僅かな隙を突いて飛び掛かった大虎はさっと相手の背後へと回り込むと、その鉄色の鱗へと己の牙を突き立てた。
苦悶の声をあげ、大蛇がその大きな体を振り回す。大虎も相当な体重であろうに、それを諸共振り回す大蛇のなんと力強いことか。
対して、大虎も必死に首元に食らい付いてはいるものの、その長い首を振り回し、勢いをつけて周りの木々にぶつけられてはたまらない。やがて打ち所が悪かったのだろう。ぎゃん、とひときわ大きな声をあげて、ついに大虎は大蛇の首元から振り落とされてしまった。
大蛇の瞳がぎらりと光る。振り落とされた勢いで地面に叩きつけられ、力なく横たわる大虎を忌々しげに見下ろして、その口を大きく開け拡げた。どろりと、異臭を放つ粘液がその口元から垂れる。
耳に届く、弱弱しい鳴き声。
それを聞いた瞬間、私は背の大弓を取り出して、大蛇に向けて矢を放っていた。
自分ですら驚くほど冷静に、そして正確に放たれた矢は大蛇の首元、大虎がその牙で穿った傷跡へと吸い込まれていった。
大蛇が悲鳴を上げる。身の毛もよだつ程の冷たい瞳が、ぎょろりとこちらへ向いた。
「ああ、やっちまった」
色々と考えていたくせに、いざとなるとこれだ。
行き当たりばったりの出たとこ勝負。
ほとほと、私は頭が悪いらしい。
そうして盛大に後悔しつつ、私は引きつった笑みを浮かべる。
それは、牙を剥く獣の貌に似ていた。
次回は明日7/17の12時に更新します。
※2022/07/06 加筆修正致しました。




