竜と龍と
その日は朝から酷い豪雨だった。
獣にも似た唸り声をあげながら吹き荒ぶ突風。横殴りの雨はまるで石礫のようで、今にも小屋の壁に穴が開くのではと私は戦々恐々とした心持ちで身を縮め、部屋の隅で丸くなるしかなかった。
まさしく嵐、台風、木々を根こそぎ吹き飛ばし、泉の水さえ巻き上げんとする暴威である。
そんな中でこの掘っ立て小屋がまだしっかりとその形を保っているのは他でもない、身を委ねるこの大樹のお陰であった。
今にもばらばらに引きちぎられ、巻き上げられんとする小屋を大樹の豊かに茂った葉が守り、逞しい幹が支えているのだ。いや、それだけではない。言葉では形容しがたい感覚ではあるが、今この時、確かにこの場所は不可思議な、見えない何者かの力で守護されていた。
何となく、直感に近いものではあるが、そう思う。
その証拠にこれほどの暴風に殴られ、吹き付けられているというのに我が家は戸の一つも吹き飛ばされていない。きっとこの大樹に寄り添ってさえいなければ、こんな素人が拵えた粗末な小屋などひとたまりもなかっただろう。
「それにしても、今度のは凄まじいな」
股から回した尻尾を頼りなさげに抱きしめて、とうとう雨漏りまで始めた天井を見上げて息を吐いた。
その直後である。かっと空が真っ白に染まった刹那、耳元で爆弾が炸裂したかと錯覚するほどの雷鳴が脳天を突き抜けた。耳を覆う暇すらない。
その凄まじさたるや打ち付ける風の音をかき消し、ほんの僅かな間ではあるが呼吸を忘れ意識すら失うほどであった。
頭が真っ白になり、気が付いた時には私は呆けたように口を開け、焦点の定まらない目でぼうっと天井を見上げていた。
そしてはっとなって、今更思い出したかのように大きく息を吸い込んだ。
肌がひりつく。こめかみが、角の付け根が馬鹿みたいに痛い。明滅する視界、霞がかかった思考のままで、私は小屋の出入り口へと這っていった。
何故か。
呼ばれているのであれば、出向くのが道理である。
誰に。
このような激しい嵐の中を訪ねてくるものなど、それこそ風神、雷神様ぐらいであろう。
だが私は気でも狂ったか戸を引き上げ、荒れ狂う嵐の中に身を投じる。半ば無意識に、何者かに操られるようにそうしていた。本能が囁くままに、夢遊病のような歩みで小屋を出て、音もなく泉の傍へと降り立った。
ぴたりと、雨風がその動きを止める。あれだけ激しく吹き荒び、渦巻いていた嵐が。
訪れるのは薄暗がりと、不気味なまでの静寂。
毛先から滴り落ちる雨粒の音さえも聞こえそうな静けさの中で、私は空を見上げた。
そこに何かが、何者かがいるという確信と共に。
そこにあるのは大きくて分厚い、真っ黒な雨雲であった。時折その隙間から稲光を漏らしては、そこに潜む何者かの影を浮き上がらせている。
やがてその内から、ぬっと巨大な尾が顔を出す。鯉のような緑色の鱗に覆われ、鮮やかな赤いたてがみを靡かせた美しい尾であった。
次に腕が出た。五本指。鋭い鉤爪。その手の片方には、何やら黄金に輝く玉を握っている。
そうしてようやく顔が出てくる。
たてがみの生えた蛇。そのような顔つきであった。
珊瑚のような枝分かれした角。ぎょろりと剥いた目玉の上にはたてがみと同じ色の眉が乗っかり、顔の三倍はあろう長さの立派な二本の髭の下では、のこぎりのような鋭い歯列が光っている。
竜。いや、印象としては龍と書いた方がしっくりくるだろうか。
いつぞやか雨雲の中に見た、あの龍である。
しかし大きい。とぐろを巻けば、この島全体を一回りできそうな大きさだ。
だが、その威容を目の当たりにしてなお私の口を突いて出たのはあまりにも気安く、そして無礼な言葉であった。
「おい、誰だお前は。お前さんだろう、私を呼びつけたのは」
不思議なことに、恐怖はなかった。ご近所さんに挨拶をするような軽い心持ちで、こんな酷い天気の中に人を呼びつけやがってと、畏れるどころか僅かに腹を立てながら、私は頭上で八の字になりながらこちらを睥睨する龍を見返していた。
やがて龍は頭だけを器用に泉の上まで降ろしてくると雷にも似た唸り声を響かせ、その眉間に収まってしまいそうな小さな私を興味深く観察するように視線を這わせたあと、やがてくっと喉を鳴らした。
笑った。
いや、嘲笑った、というのが正しいか。
とにかく、何やら小馬鹿にされたような、そのような雰囲気は察した。
『随分と変わった趣だな。同胞よ』
それは子をあやす母のような優しい色であり、子を諫める父のような厳格な色をした声。
そして明らかに日本語ではない、それどころか人のものですらないその言葉の意味を私は正しく理解していた。私にとっては龍が言葉を発したことよりも、そちらの方が驚きは大きかった。
そして何よりこの島に来てから初めての、かれこれ一か月ぶりになる言葉を介した対話である。気分が高揚し、何から話したものかと胸の奥から溢れんばかりの言葉が湧き上がっては消えていく。そうして魚のように何度か口を開けたり閉めたりした後、私はようやく次の言葉を絞り出した。
「同胞、と言ったか。お前さん、この娘っ子のことを知っているのか」
『娘、とは誰か。同胞よ、余は無駄な問答を好まぬ。此度は久方ぶりに同胞の気配を感じた故、気紛れに訪れたまで』
「誰って、私しかいないだろう。なあ、お前さんや、私はこの身体をこの娘にお返ししたいのだ。死にぞこないの枯れた爺に乗っ取られたとなっては、この娘があまりにも不憫でならんのだ」
その言葉に偽りはない。もしも今、この娘の身体に私の、老いぼれた爺の魂が憑りつき、その居場所を奪ってしまっているのなら、とっととお返しするのが道理である。情けないことにいつまで経っても、一度死んでも死ぬのは怖いが、若者の命を奪ってまで生き永らえようとは思わない。そんなことをすれば私を看取ってくれた妻に、家族に申し訳が立たぬ。
どうせなら、胸を張って三途の川を渡りたいのだ。
だが私のその言葉に龍は何やら目を細めた後、口元を僅かに釣り上げながらそのたてがみを逆立てた。珊瑚のような角から紫電が迸り、辺りをかっと照らす。
『戯言は止めよ、幼き者よ。余は無駄な問答は好まぬ。三度目はない。確かに貴様は不思議な色を宿してはいるが、それは星の意思に因るものよ。星がかくあれと定めたのなら、貴様はそれに従うしかない』
龍のその言葉には明らかな苛立ちの色と、これ以上無駄な問いを投げるようなら相応の報いを受けさせるという、彼、あるいは彼女の冷たい意思が籠っていた。
改めて言うが、島をぐるりと一周できるほどの巨大な龍である。そう凄まれてしまえば、さしもの私も黙り込むしかない。
「いや、いや、気に障ったのなら申し訳ないが、もう一つだけ答えて欲しい。私は人が沢山暮らしているような町、いや村やら集落でもいいのだが、そんな島に行きたいのだけれど、お前さん、いや、貴方にそういったところまで送って頂くことはできるのだろうか」
ほんの僅かな希望。だがそれは、数秒と待たぬうちに霞と消える。
『ならん。幼き同胞よ、赤子は揺り籠にて育つもの。良く育ち、善く生きよ。そうすれば悠久の時の中で、再び相まみえることもあるだろう』
「……そうか。それは、そうか」
ぼんやりとだが、確信めいたものはあったのだ。
私の翼では、島から離れた場所まで飛ぶことはできない。ある程度のところまで行くと、何故か翼から浮力が、あの不思議な力場が失われるのだ。
はじめは島を中心に何らかの超常的な力が発せられていて、それが薄まることで力場の維持が難しくなる、そう捉えていた。だが、きっとそれは真実ではない。
赤子と揺り籠、この龍はたった今そう表現した。恐らくはその比喩こそが真実に最も近いのだろう。つまり私には、この島から出る資格が、それに足る何かが決定的に欠けているのだ。
それは肉体的な成熟、時間、あるいはもっと単純な、竜としての力なのかもしれない。
だが一つだけ確かなことは、私はそう簡単にこの島から出られないだろう、ということだった。
いや、待て。
何か見落としている。重大な何かを。
龍は島からは連れ出せないと言った。だが、町があることを、人がいることを否定はしなかった。
「やはり、人はいるのか!」
『いる。己を人と呼ぶ者たち。小さく弱い、愚かで賢明な生き物よ。同胞の中には人と共に生きる変わり者もいたが、姿まで人に似せる者は稀だ。だからこそ、余も興味を持った』
やはり、やはり、この世界にも人は暮らしている。
これまでは物的証拠からの推測でしかなかったが、これではっきりした。ならば、堪えられる。
救いがあるなら、まだ踏ん張れる。
「そうか、そうか……!」
『月のように涙を流すのだな、幼い同胞よ』
それはまるで海辺の波音のような、慈愛に満ちた声であった。
そして何やら考え込むようにして数度唸り、やがて雨の香りのする吐息を漏らして小さく喉を鳴らしてみせる。何が何だか、龍の心中など察しようがないのだが、何やら腑に落ちるものがあったようだ。
『成程、それこそが其方の定めか。成程、成程。で、あればその色、その姿であるのも道理よ』
何やら面白がってああだこうだ言っている。それぐらいは察することができた。
そして、ここにきてようやく私は畏れという言葉の意味を真に理解した。
圧倒される。何もかも。
九十と少しばかり生きてきて、それなりに老熟したと思い込んでいた我が身のなんと浅はかなことか。
何百、いや、何千か。いったいどれほどの時を生き、どれほどの世を過ごせば至れるのか想像もつかない、命としての究極。何もかもを上回る、人間の力など取るにも足らない圧倒的な存在感。
それはまさに、神にも等しい姿だった。
『気紛れも存外良いものだ。幼き同胞よ、汝の良き巣立ちを願っているぞ』
「あっ、ちょっと、ちょっと待て!」
なんだその、如何にもそろそろお暇しますね、みたいな台詞は。
にわかに焦りだす私を横目に、龍は首をもたげ、辺りには再び嵐のような暴風が吹き荒れ始めた。ああ、せっかく言葉を交わせる者と出会えたというのに、こんな短い時間で。
手を伸ばす。
言葉を探す。
大いなる存在を、かの龍を私程度が引き止められるなどとは思っていない。だが、最後まで、奇跡的に得たこの機会を最後まで活かすために、私は叫んだ。
「名は、貴方の名を教えてほしい!」
縋りつくような私の声に、龍は角を光らせながら言った。
『狂飆と、人は余をそう呼ぶ。ではさらばだ、幼き月の朋よ』
最後にそう言い残し、眩いばかりの雷光と共に龍はその姿を消した。
あれだけの巨体がまるで幻であったかのように、今はもう影も形もない。ただただ無残に薙ぎ払われ、吹き飛ばされた燻製器やら、焚火台の残骸だけが、先程までの出来事が現実であることを静かに語っていた。
空を見上げる。そこにあるのは雲一つない、美しい青空。
「とりあえず、まあ、足掻くしかないわなあ」
角の付け根を掻きながら、私は気の抜けた声でそう呟くのだった。
待望の新キャラだよ!(即退場
ただこちらに関しては主人公と対にするつもりなので、後々再登場します。
あとこっちは人化します。ケモナーの皆様申し訳ない。




