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ドラゴンブレス


「はぁっ、はぁっ……もう一回!」


 人は、その先に希望という光があってこそ、前に進むことができる。

 たとえ進む道が如何に険しくとも、どんな困難が待ち構えていようとも、進んだ先に希望があるからこそ、人は傷つき、泥にまみれようとも折れず、必死に前へと進み続ける。

 その姿はまるで篝火に引き寄せられる羽虫のように儚く、哀れで、そして美しい。

 風を掴む。

 打ち付けるのではなく、しなやかに大気を包み込み、翼の内側で回すように。

 羽ばたく。

 草が打ち倒され、泉の水面に大きな波紋が広がる。

 羽ばたく。

 白い飛沫が跳ねる。風が唸りを上げ、両の翼が水を吸ったように重くなった。

 四つん這いに近い体勢から、両手足で思い切り地面を蹴り上げる。

一瞬の浮遊感と、内臓が腹の下に押し込まれるような不快感を合図に、翼を大きく動かした。

 カメラの倍率を下げた時のように、目の前の光景がぐんと遠くなる。

 高さにして、おおよそ三メートル。

 順調、ここまでは予定通り、何度も繰り返してきたいつも通りの流れ。

 泉の水面に映る、手足をぴんと伸ばし、大の字で浮き上がった己の姿は少し、いやかなり不格好ではあったがとにかく、ここまでは順調だ。

 問題はこの後、身体が重力に引かれ、自由落下を始めてから。

 翼を広げる。

 意味などこれっぽっちもないのだろうが、ついつい両腕も一緒になって動いてしまうのはもはやご愛敬である。

 一緒になって、翼と同じ動きで振り下ろした。

 そしてここからも、今まで通り。

 いや、今回は少し違った。

 左右の力加減が上手くいかなかったのか、翼を振り下ろした途端に私の身体は右向きに傾き、そのまま滑空するような恰好で泉の縁、小さな見物客が呑気にも大欠伸をしているその横へと突っ込んだ。

 顔から爪先まで泥だらけになりながら、さながら飛行機の胴体着陸である。

 

「んーあー、やっぱりこうなるか」

 

 青臭い草の香りに顔をしかめながら、私は空を仰ぎ見た。

 憎たらしくなる程の青空。その端っこに、丸っこい獣の耳が映り込む。


「本当に呑気な奴だなあ、お前は」


 野生動物ならばもっとこう、(せわ)しなくしていてもいいだろうに。

 いや、野生動物だからこそ、こうも自由なのかもしれない。


「必死に生き急ぐ奴なんて、人間様ぐらいのものか」


 それこそ二四時間三百六十五日、常に何かしなければと見えない何かに追い詰められ、丸一日のんびり生きられたことなど、老いさらばえた後でしかなかったか。

 いや、そんなことより目下の課題、飛行についてである。

 警戒心をどこかに置き忘れてきた狸を脇に、現状の問題について考える。

 飛び上がるまでは問題ない。

翼で風を掴む感覚も随分と掴めてきたし、浮き上がる途中に墜落することは無くなった。

 問題は、浮き上がったあと高度を維持、安定させること。

 私の勘が悪いのか、それとも翼の扱い方が下手なのか。

 恐らくは、その両方だろう。私自身、幼少の頃より覚えが悪いだの何だのとよく父に叱られていたのをよく覚えている。

 思えばこれまで翼を腕の代わりのように扱っていたし、そのせいで変な癖でもついてしまったのかもしれない。

 どちらにせよ気長に焦らず、こつこつと慣らしていくしかないのだろう。


「とりあえず、水浴びが先か」


 今朝からずっとこの調子で練習を続けていた為、全身くまなく草まみれ泥まみれになってしまった。

 まあどうせこの後も土器作りやら建材集めやらで埃まみれ草まみれになるのだが、爪の間やら鱗の隙間やらに挟まった泥や砂利が気になって仕方がない。

 特に泥で張り付いた髪の不快感ときたら、まるで常に頭を虫が這い回っているかのような不快感である。

 そんなこんなで身に着けた防具をぱぱっと脱ぎ去って、泉へと飛び込んだ。

 いつもならもっと下流の川で身体を洗うのだが、今日は飲み水として利用する分は汲み終わっているし、あの狸が寝床を荒らさない保証もないので手近な場所で済ませることにした。

 何より雲一つない快晴の下、燦燦と降り注ぐ日の光を浴びながらの水浴びはえもいわれぬ心地よさがあり、ある意味でこの島唯一の娯楽とも言えるのだ。これを逃す手はなかった。


「あー、生き返るなあ」


 泉の縁に腰掛け、しゅろ製のたわしで足の鱗を磨き上げながら熱い息が漏れた。

 何やらこう、歯に挟まった食べかすが綺麗に取れたような気持ちよさがある。

 鱗の汚れをあらかた落としたら、次は髪を水に浸し、優しく揉みながらこびりついた泥を落としていく。

 角の部分は何度も水をかけながら、表面の溝に汚れが溜まらないよう丁寧に。

 付け根は指の腹で揉みながら、上から下へ。髪全体を洗い終えたら軽く絞って一纏めにし、角を留め金代わりにくるりと巻いて頭の上へ。

 誰かが見ればものぐさだと口を尖らせるかもしれないが、生憎ここには私一人。雑な仕事を咎める者がいないなら、私の好きなようにやらせてもらうまで。

 うなじを洗い、肩から腕へ。凹凸の少ない胸元を下って、もうすっかり傷跡もなくなった細い腰を撫でる。

 引き締まった腿を揉み解して、先ほどしっかりと磨いた膝から先はさっと流す程度に。

 この身体になってかれこれ三週間余り。何だかんだですっかり馴染んだものだと我ながら感心するばかりだ。

 

「はじめは線の細さに心配したものだったが、成るように成るもんだ」


 最後はお楽しみ、尻尾の磨き上げだ。

 私の腰ほどは太い立派な尻尾だけに、洗い甲斐があるというもの。

 ここも脚と同じく、たわしで洗う。

 上から下に。鱗の流れに逆らわず、撫でるように磨いていく。

 ふと、こちらをじっと見つめる視線に気が付いた。


「なんだ、助平狸め。お前さんも洗ってやろうか?」


 可愛らしく小首を傾げる狸に歩み寄り、ひょいと持ち上げてみる。

 うん、夏毛で短いとはいえやはり野生動物。泥と獣臭さが入り混じり、すさまじい匂いがする。

 ありていに言えば、臭い。

 丸っとした黒い瞳と見つめあうこと、数秒。

 追加の仕事は、狸の丸洗いと相成った。


「なんだ、本当に呑気だなお前さんは」


 もっと暴れまわるかと思ったが、私に洗われている間、狸は実に大人しいものだった。

 これならばまだ、娘や孫を初めて風呂に入れた時のほうが手を焼いたぐらいである。

 そして丸洗いされてさっぱりした本人はというと、泉の傍、一番日当たりのいい場所を陣取ってごろごろと横になり、地面に体を擦り付けていた。


「はは、あの分じゃあ、明後日には元通りだな」


 まあ、獣は獣で色々とあるのだろう。

 こちらはこちらで、髪が乾くまで一休みさせてもらうとしよう。

 ああ、今のうちに防具の方も洗っておくか。元が鱗で小さい為そう時間がかかるものでもないが、自分の肌と直接触れ合うものであるので、こちらもなるべく丁寧に磨いておく。

「シ、シ、ド、レ、レ、ド、シ、ラ……」


 綺麗さっぱりして、陽気な空模様の下でのんびりと手を動かしていたからだろう。気が付けば、私の口先は生前良く聞いた、馴染み深いメロディを奏でていた。

 翼を揺らし、尻尾を指揮者の指先のように振りながら、心に鳴り響くは整然と並びたった交響楽団が奏でる美しい旋律。

 もう耳にすることはないだろう思い出に心和ませながらそうしていると、ふと私の肩先に止まるものがあった。

 狸ではない。

 それは美しい緑の羽をもった小鳥であった。

 こちらをまるで警戒せず、小さな嘴で上機嫌に囀るその姿に、私は目を丸くする。

 ありえない、とはもはや思うまい。

 野生の狸があれほど人に懐き、あまつさえ大人しく水浴びまでさせるのだから、小鳥が一羽二羽肩に停まったところで、腰を抜かすほどではない。

 だがこちらが驚いて鼻歌を止めると、その小鳥はまるで続きを促すように、その嘴でこちらの肩を叩いてくるではないか。

 まさか鳥に歌を催促されるとは思ってもいなかったので、これには流石に腰を抜かすかと思ったが、可愛らしいお客のリクエストを無碍にするわけにもいかず、少し気恥ずかしくなりながらも私は鼻歌を続けた。

 そして、そんなことをしながら少しばかり時は流れ。


「随分と大所帯になったもんだなあ」

                 

 ようやく髪が乾ききった頃、私の身体には十羽近い小鳥たちが集まっていた。

 肩やら、翼やら、角やら。

 身体のあちらこちらを止まり木代わりにして、中には体を丸くして熟睡するものまでいた。


「こらこらお前さんたち、そろそろ飯の時間だからちょいと退いてくれ。じゃないと焼き鳥にしちまうぞ」


 私がそう言って立ち上がると、小鳥たちはいっせいに羽を広げ、空高く飛び去って行った。

 やれやれ、どうせなら翼の扱い方でも教えてくれれば良いものを。

                            

「ま、鳥に言っても仕方ないか」


 よっこらせっと、少しばかり軽くなった身体を持ち上げ、泉から足を抜く。

 お日様のおかげで芯まで冷えることはなかったが、今回は少し水に浸かりすぎた。

 腹ごなしは、焚火で身体を温めてからにしよう。

 ぶるりと震える肩を抱き、そんなことを考えながら焚火へと向かおうとしたその矢先。

 先ほどの小鳥たちの置き土産であろう、頭のてっぺんに残されていた小さな羽毛が、ひらりと鼻先に舞い落ちてきた。

 むずむずと、堪えようのない衝動が鼻の奥からせり上がってくる。

 そう、どうしようもない生理現象だった。


「は、はっ、っくしゅ!」

 

 爆発音。

 あえて言うが、くしゃみの音ではない。いや、そう表現すると語弊があるし、たしかにくしゃみではあるのだが、くしゃみではない。

 それ自体は、我ながら情けない、しかし身体の年頃を考えれば可愛らしいくしゃみ。

 だがその途端、私の口から噴き出したのは、可愛らしいとは到底思えない、物騒極まるものであった。

 端的に言えば、火を噴いた。

 まるでガスに炎が引火したように、巨大な炎が吹き上がったのだ。

 それは先ほどまでの和やかな雰囲気を文字通り吹き飛ばす、私の理解力を遥かに超える出来事であった。

 あー、うー、と唸り、一言だけ零れ出る。


「火おこしが、楽になるなあ」


 どうやら私の頭は、あの狸並みにのんびりしているようだった。

はくしょん大爆発(ドラゴンブレス)

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