拠点作り
熟睡とは程遠い朝であった。
さもありなん。雨露を凌げる場所とはいえ、寝床はお世辞にも寝心地が良いとは言い難く、身に着けるのは原始的な腰みの一枚。
自前の翼で身体を包んでいくらかましにはなったものの、それでも日が昇るまでは芯が冷える寒さであった。
さらに気が気でなかったのは、時折寝床の周りから聞こえてくる物音である。
どうやら己は自覚していたよりも遥かに消耗していたようで、草木が発する僅かな葉擦れから川音、虫の羽音に至るまで、ほんの僅かな音でさえ身体が過敏に反応し、意識を微睡みから引き戻してしまう。
柔らかな布団と井草の香りが恋しいと思いつつ、己が不甲斐なさを悔いる長い長い夜であった。
「やれやれ、初日からこれとは我ながら先が思いやられる」
ぐっと拳を突き上げるように伸びをして、そう独り言ちる。
ぐう、と腹の虫が鳴った。それと、僅かにこめかみの奥がじんじんと鈍く痛む。
空腹なのはともかく、頭痛は無視できない。おそらくは軽い脱水症状だろう。昨日寝覚めてから何も飲んでいないのだから、無理もない。
どうやら今日も今日とて、水場を探して歩き回ることになりそうだ。
「ありがとうな、おかげさんで助かったよ」
一宿一飯の恩義というが、返せるものと言えば礼ぐらいのものである。
一晩世話になった大木に手を合わせて頭を下げると、すっと髪を梳くような爽やかな朝風が吹き抜けていった。
ははっ。
何やら心地よくなり、思わず笑みが漏れる。
悪くない。
腹も空くし喉も乾くが、悪くない気分だった。
さて、挨拶も済ませたところでぼちぼち出発するとしよう。昨日歩いてきた方向は覚えているので、今日はそれとは違う方向を探索することにする。
高望みではあるのだろうが、バナナの木や竹なんかが見つかるとありがたい。
前者はその幹に大量の水分を含んでいるし、後者は空洞になった内部に水を貯めこんでいる場合があるのだ。
もっとも、日本でもなければ地球ですらないこの地にそういった植物が見つかる可能性はかなり低いだろうが。
そんなことを考えながら進んでいると、私の耳が鳥の鳴き声や草木の揺れるもの以外のある音を敏感に捉える。
ちょろちょろと涼しげに響くその音を聞いた途端、私は半ば本能に従うように、その音のする方へと歩きだしていた。
腹も空き、喉も乾き、これまでさんざ歩き回ったというのに、自分でも驚くほどすんなりと足が前に出る。いやはや、この身体の強靭さたるや、もはや野生の獣顔負けであろう。
そうしてはやる気持ちを抑えながら視界を遮る枝先を潜り抜けると、そこには我が目を疑うような、望外の景色が広がっていた。
これまで歩きとおした疲れなど吹き飛ばしてしまうような、鮮やかな青緑色。
大きさはサッカーコートの半分ほどはあるだろうか。地下水が湧き出ているのか、奥のほうに行くほど水の色が暗くなっている。
溢れた水が流れ出し川になっており、両手ですくい上げてみれば濁りもなく、異臭もしない。
できることなら火を起こし、煮沸消毒してから口にしたいところだが、何せ山登りを含め数キロは歩き回ったあとである。今は腹を壊すリスクよりも、喉の渇きが勝っていた。
ごくりと喉を鳴らし、すくい上げた水を啜る。雪解け水のような冷たさが喉から胸へと広がり、優しく喉の渇きを満たしていく。
ああ、五臓六腑に染み渡るというのは、きっとこういうことをいうのだろう。
天を仰ぎ見ながら、私はほうと息を吐いた。
そうして一息ついたあと周囲を確認してみれば、このあたりは極端に水かさが増すこともないのか、日が照っている場所は森の中のような湿っぽさがなく、足裏からほのかに地面の温かさが伝わってくるほどであった。
日当たりがよく、小川が流れる開けた場所。
まさしく探し求めていた、理想的な水場である。
しかし何より目を引くのは、泉の傍に佇む一本の大樹。
高さは軽く三十メートル以上はあるだろうか。
大人五人でも抱えきれないだろう太い幹はところどころ苔むし、乾いてしわくちゃになった表面は、相当な齢を重ねていることを感じさせた。
どこか懐かしささえ覚えるその肌をそっと撫でると、青々とした葉をつけた枝が風に煽られ、まるで笑い声のような音を奏でる。
「自分より年長のものに会うのは久しぶりだ。すまないがちょっとばかり失礼するよ」
周囲に生えるものとは、明らかに種が異なる大樹。
どこか神聖なものを感じさせるそれに一礼し、私はその根元へと潜り込む。そして自分の予想が正しかったことを確信し、思わず笑みが零れた。
大樹の根元にあったのは、人ひとりがすっぽり収まってしまうほどの空洞。
中は思った以上に広く、三畳はあるだろうか。天井に隙間もなく、獣臭さもないので野生動物が寝床として使っている可能性も低いだろう。
足元に腐った枯草やら落ち葉が積み重なっているが、これらを掻き出して中を綺麗に掃除すれば、十分に寝床として利用できる。
日はまだ高い位置にあるから、時間的には余裕がある。しかし、だからといって寝床の掃除にすぐさま取り掛かるべきか。
答えは否だ。掃除は後でもいい。
運がいいことに、本当に幸運なことに、現時点で雨風をしのげる寝床と水は確保できた。では次に何を求めるべきか。
火だ。
火があれば夜に体を温めることができるし、食料を調理することもできる。
さらに野生動物は火に近づくことを嫌うため、安全の確保にも繋がる。
この浮島――ただの島と呼ぶにはあまりにも摩訶不思議なのでこう呼ぶことにする――に危険な動物、狼や熊がいるかはわからないが、警戒しておくに越したことはないだろう。
必要なのは火種を作るための火きり棒と火きり板、そして火種を移して火を大きくするための火口になる枯草などだ。
これらの道具自体はすぐに見つけることができるだろう。
問題は湿度だ。先程まで彷徨っていた森の中よりは幾分かましにはなっているが、それでも春の日本程度には高い。
この湿度の中ではたして順調に火がおこせるのか、正直に言って不安だ。
さらに言えば、知識はあれど実践などしたこともない。
しかし、残念ながらここにはマッチもライターもない。やらなければいけないのだ。
幸い泉の周りは日当たりもよく、寝床と決めた大樹の傍に乾いた倒木があったおかげで道具はすぐに用意できた。
枯れ枝を丁度よい長さで折って二本の棒を作り、片方は石で成形して先端を滑らかに、もう片方は側面にすり鉢状の溝を作り、ほんの少しだけ切り込みを入れておく。
あとは棒の先端をすり鉢部分に押し当てて両手でごりごりと回してやれば、棒の摩擦熱で高温になった削りかすに、切り込み部分から入ってきた空気が反応して火種ができる。
きりもみ式と呼ばれる、おおよそ殆どの人が想像するだろう原始的な火おこしの方法だ。
火口には枯草と、腰みのにも使った樹皮を細く裂いたものを使う。
ただしこのままでは湿っていて使い物にならないので、しばらくの間は日の当たる泉の傍に石を積み、その上で乾かしておく。
そうして火おこしの準備を終えた私は、さっそく大樹の洞の掃除に取り掛かる。
積み重なった落ち葉を一掴みしてみれば、掴み上げた下からむわっとした異臭が立ち昇った。
下の方にある落ち葉や枯草が腐り、異臭を放っているのだ。
虫や微生物にしっかりと分解されれば腐葉土となり、立派な肥料になるのだが、これは虫が食ってくれなかったのか、それとも雨水などがしっかりと蒸発せず腐ってしまったのか、どぶ川のような臭いがする。
よく分解された腐葉土であれば、これほどの悪臭は放たないだろう。
しかし、一度しっかりと乾燥させてやればそのうち肥料として利用できるかもしれない。
この場所で畑まで作るかはわからないが、保存しておいて損をすることはないだろう。
だが出せども出せどもまるで減らない落ち葉の山に、私は額に浮かんだ汗を拭いながら大きく息を吐いた。
大樹の裏に積まれた落ち葉の山は、もはや私の背丈に届かんばかりである。
さもありなん。何年積み重なってきたかも計り知れない、三畳分の落ち葉である。
それだけでも辟易とする作業であるのに、しだいに洞の中に充満する腐った土の臭いといったら、まさしく鼻が曲がりそうなほどである。
さらには落ち葉を取り除く際、毒蛇や毒虫が潜んでいないか細心の注意を払いながらの作業であるので、神経をすり減らすことこの上ない。
だが、この浮島に病院や薬局の類があるとは思えず、薬や血清など夢のまた夢。
不用心から噛みつかれ、毒をうけてしまえば治療もできず、ただただのたうち回り、死を待つしかない。
当然であるが、一度死んだ身ではあっても死にたがりの阿呆ではないのだ。避けられるのならば、いくら手間がかかろうとも避けるべきである。
結局、洞の大掃除が終了し、寝床となる一角に新しい枯草を敷き詰めたころには日は傾き、空は茜色に染まっていた。完全に日が沈むまで、あと一時間もないだろう。
だがひと仕事終えて気が緩んだのか、ぐう、と腹から情けない音がする。
目が覚めてから何も食べていなかった為、たまらず腹の虫が抗議の声をあげたようだ。
ともあれ、申し訳ないが食の問題はひとまず後回しにせざるを得ない。
雨露をしのぐ寝床が完成した今、次に優先すべきは火の確保だ。
乾かしておいた枯草と樹皮を確認すれば、数時間日光に晒したそれらはよく乾燥しており、火口とするには十分な状態になっていた。これで準備は十分。
あとはひたすら体力、気力勝負だ。
よし、と私は気合を入れたあと、先ほど拵えた木の板を足の裏で抑え、手のひらに唾を吐いた。これで少しは滑り止めの代わりになるだろう。
そうして片膝立ちの状態で木の棒の先端をすり鉢状の穴にあてがうと、それを両手で挟み込んでごりごりと回していく。
ごりごり。
ごりごり。ごりごり。
ごりごりごりごり。
一心不乱に、木の棒を回す。
火よ灯れ、火よ灯れと念じながら、茜色の空が暗くなり、暗闇に虫が鳴き始めるまで、回す。
回す。
回す。
「かあっ、なかなかうまくいかんなあ!」
じとりと身体に汗をかき始めた頃、私は胸にため込んだ息とともに四肢を投げ出した。
頭上には爛々と星が輝き、その光の瞬きはまるで四苦八苦する私を見て笑っているようであった。
煙は出るし、焦げるような匂いもする。あと一息というところまではできている気がするのだが、そのあと一息が上手くいかない。
何かこう、肝心なところで間違えているような、そんな違和感があるのだ。
力の入れ方が悪いのか、それとも道具が悪いのか、あるいはその両方か。
「いっつ、これはまた、ひどいな」
鋭い痛みに顔をしかめる。見れば、両手に真っ赤な血まめがいくつも出来上がっていた。男の頃と同じ力加減でやったせいだろう。
人間離れした姿形をしていても、女の柔肌には違いないのだ。明日からは、この身体の使い方も覚えていかなければならない。
月明かりだけを頼りに川の水で手を洗い、裂けてしまった手のひらを舐める。
一見すれば汚く感じるかもしれないが、唾液にはリゾチームなどの殺菌作用を持つ成分が含まれている。
さすがにちゃんとした薬と比べるべくもないが、これでなかなか馬鹿にはできない。何よりも、何もしないよりはマシだ。
じんわりと熱を持つ手を振って水気を飛ばしながら、火口を乾かす時に利用した倒木へ腰を下ろす。
空を見上げれば、文字通り満天の星空が所狭しと輝きを放っていた。言葉を失い、思考を放棄するほどの絶景。
陳腐な言葉にはなるが、それはまさに夜空に宝石を散りばめたような、心奪われる光景であった。
そして何よりこの島自体が空に浮かんでいる為か、星空が驚くほど近くに感じる。
それこそ、手を伸ばせば届いてしまいそうなほどであった。
だが、私が真に目を奪われたもの。それは何も、その美しい星空だけではない。
頭上に輝く星空のその向こう。黄金の輝きを放ち、弓なりになった月。生前の記憶にあるものよりも巨大な月の、さらにその向こう。
欠けた月の隙間を埋めるように寄り添う、もう一つの月。
「ううむ、これはまた、驚いた……」
馬鹿のように口を開けたまま、私は奇想天外な光景を見上げ続ける。
手のひらの痛みは、いつの間にか消え失せていた。
食料はもうちょっと後です