謝肉祭
肉だ。
肉だ!
肉の山だ!
先ほど解体が終わったばかりの、新鮮な肉である。
重さを図る道具がないため正確な数値はわからないが、おおよそ八百キロ、下手をすれば一トン近くはあるだろう肉の山、宝の山である。
そしてこの大仕事をやり切ったおかげで私の手は脂まみれで艶々としており、舐めてみれば鼻を突く獣臭さと、さらりとした脂の甘みが僅かに舌の上を撫でる。
いかん。久しぶりの肉とはいえ、この脂の甘さは癖になりそうだ。
指を舐ること数分。はっと意識を引き戻した私は、ほんのり熱くなった頭を振り、火照った身体を冷ますように翼をばたつかせた。
今は肉、肉である。
いかんせん素人の仕事なの血抜きも完全ではなく、香りにも獣臭さが残っているが、表面を覆う脂の艶やかさとくれば実に煽情的で、今この時においては世界中のどんな美女よりも魅力的に見える。
思わず両手で鷲掴み、貪りつきたくなるような、魔性ともいうべき艶姿である。
殆どは長期間保存できる干し肉や燻製にするつもりだが、それでも普通に消費していては食べきれない程の量だ。
しかしあれだけ苦労して手に入れた肉である。痛んで捨ててしまうのはあまりにも忍びないし、何よりあの大猪に対して失礼極まる。
なので、干し肉や燻製用に切り分けた肉以外は、一度のうちに食えるだけ食ってしまうことにした。
食い溜め、というのは長期的に見て利のない行為に思えるが、腐らせるよりは良い。
いや、腐ったら腐ったで実際はいくらでも利用方法はあるのだが、貴重な食糧、それも肉なのだから、できる限りは己で味わいたい。
つまるところ、ただの我が儘である。
そして大量の肉を調理する方法だが、これにはかなり原始的な方法を使おうかと思う。
まずは穴を掘り、底に石を敷き詰める。
次にその石の上で焚火をし、十分に熱したあと肉を置き、葉っぱを何枚も重ねて包み込んでから土を被せて蓋をする。
こうして石の熱を中に閉じ込めて、肉を蒸し焼きにするのだ。
問題は焼き加減が確認できず、肉を取り出すタイミングの見極めが難しい点だが、これだけ大きな肉塊である。大げさなぐらい時間をかけて丁度いい塩梅だろう。
「ふう、とりあえず穴の深さはこんなものか」
肉、今回は特に大きな足の部分。豚でいう肩、スネ肉を丸ごとぶち込む。
あまりの大きさに一本しか収まらなかったが、これでも数百キロはある。それを無意識に、丸ごと一本ぺろりと平らげてしまったこの娘の胃袋はいったいどうなっているのかと腹を撫でてみるが、そこにはきゅっと締まった腰と可愛らしい臍があるばかりである。
爬虫類のような特徴を持っているのに臍とはこれ如何に、と明後日の方向に流されてしまった思考を引き戻しつつ、隙間なく敷き詰めた石の上で火を焚き始める。
小さな薪から、大きな薪へ。
火が大きくなって安定したら、石を熱している間に他の肉を切り分けてしまう。
まずは表面を覆っている脂を丁寧に取り除き、一口大に薄くスライスしていく。取り除いた脂は後々利用するので、土器に固めて保存。
できた薄切り肉はそれぞれ半分ずつ干し肉と燻製に加工する。
ので、その為に必要な道具をまた拵えていく。
切って、干して、はいお終い、とならないところが辛いところだ。
とはいえ、そう手間のかかる仕事でもない。
燻製に関して言えば、要は肉を吊るして煙で燻せればいいのだから、仕組みは簡単でいい。
以前作ったことのある雨避けの簡易シェルター。
あれを応用する。
骨組み自体は全く同じだが、今回は左右一本ずつ横木で繋いで、その間に細い枝を等間隔で並べていく。
フレームの真ん中あたりに、棚を作るような感じだ。
だがその前に、薄切り肉はさっと海水に浸しておきたい。
塩漬け、などと贅沢なことはできないが、幸いここは海も近いのである程度塩味を効かせるぐらいのことはできるだろう。
そんなこんなで海へひとっ走り、といきたいが、時刻は真夜中、明かりは焚火と月明かりのみで、正しく一寸先は闇である。
大猪を仕留めた以上、そうそう凶暴な野生動物はいないだろうが、それでも暗がりの中、森の中を進むのは危険すぎる。
肉の加工は、夜が明けてから行うことにしよう。
で、あるならば、残るは今日明日で食う分の肉である。
巨大な足が二本と、あばら、肩周りの肉がたっぷりと残っている。
「どれから手を付けるか……」
食らう肉をどうするか悩むとは、これまた随分と贅沢なことだとは思いはしつつも、一度に食べきれる量に限界があるのもまた事実。
結局悩みに悩んだ末、残った二本の足を先に片づけることにした。
まずはももの部分を一口大に切り分けて、串焼きにしていく。
野菜も香辛料もないので彩りもへったくれもないが、この粗野な見た目がまた食欲をそそる。
そして一本、二本と焚火の傍へ。
じゅうじゅうと、肉の焼ける音。
溢れる肉汁が滴り落ちる度に炭が弾け、ほのかに甘い香りを立ち昇らせる。
原始的な、本能を直に揺さぶってくる官能的な香り。
たまらず、一本目に噛り付いた。
固い。
歯を押し返す、牛肉とも豚肉とも異なる歯ごたえ。
だがしっかりと噛み締めていけば、その奥から甘い、濃厚な脂がじわりと滲み出てくる。
ブランド牛のような気品の高さも、いつも食べていた精肉のように整った美味さもないが、この、野性的な、暴力的な味わいこそが、今の私には何より甘く、極上に感じられた。
気が付けば、私は一本目を瞬く間に完食し、二本目へと手を伸ばしていた。
こちらは脂身が多く、噛めば噛むほど甘い脂が口内で弾ける。
筋張った部位もまた、他とは異なった弾力で小気味のいい歯ごたえを返してくる。
三本目、四本目。
これまで貝や果実ばかり口にしていた反動か、私の食欲はこの濃厚で肉厚な相手を前に止まることをしらず、気付けば私の腰回りほどはあった肉塊をあっさりと胃袋に収め、ついにはどう控えめに言っても一口大とは呼べない、拳ほどはある肉を枝に突き刺し、まるで原始人のような様相で一心不乱に肉に喰いついていた。
美味い。
美味い。
そういえば、これほどまで脂に塗れた食べ物を口にするのもかれこれ何年ぶりになるだろうか。
この島に来る前、つまり病室、我が家の一室で看取られるまでの数年はひたすら病院食のようなものだったし、それ以前も油っこいものは体が受け付けずそう多くは食べられなかった。
そう思えば、今のこの、いくら肉を詰め込んでもびくともしない胃袋のなんとありがたいことか。
肉の美味さと、そのことへの感謝で目尻から涙が溢れてくる。
「美味いなあ、美味いなあ」
そうして涙をぬぐいながら、少しばかり塩味の効いた串焼きを全て平らげた頃には空は白み始め、森の中にはうっすらと朝霧がかかり始めていた。
何だかんだで夜を通しての作業になってしまったが、美味い肉をたらふく腹に詰め込んだおかげか眠気も倦怠感もなく、正しく意気軒高といった様子である。
ならばこのまま残った作業もしてしまおうと、私は薄切りにした肉を土器の壺いっぱいに詰め込んで、海へ向かって駆け出した。
背丈が伸び、足も長くなったので一歩一歩が以前と比べ大きくなっているが、川辺の石の上を跳ねるようにして進んでもまるで足元が危うくなる様子もないことから、どうやら感覚のずれも無く、やはり膂力だけでなく身体全体が相当強化されているようだ。
しかし、それならばと翼を大きくはためかせてはみたものの、やはり空を飛ぶにはまだ何か足りないのか、私の翼は相変わらずつむじ風を巻き起こすのが精いっぱいであった。
そんなことをしている間に、私はあっという間にいつもの海岸へとやってくる。
あとは海水に薄切り肉を漬けて、拠点へと戻るだけだ。
それほどしっかりと漬け込む必要もないだろうから、肉を詰めた壺で直接海水を汲み、中でさっと混ぜ込んでおく。
あとはこれを乾燥させ、煙で燻すだけだ。
「ふっふっふ、これは出来上がりが今から楽しみだなあ」
何やら丸一日ほど食べ物のことばかりを考えている気がするが、それはそれとして、この保存食作りが上手くいけば食料にも幾ばくかの余裕が生まれてくる。
そうすれば、ようやく食料集め以外、つまりは拠点作りや周辺の探索に割く時間も生まれてくるだろう。
最大の困難を乗り越えられたことは僥倖だが、解決しないといけない問題は、まだまだ山のように残っているのだ。
何ともまあ、気の滅入る話であるが。
「せめて空を飛べればなあ、探索もかなり楽になるのだが」
少しは訓練でもするべきなのだろうか。
壺を抱えた尻尾を右へ左へくゆらせながら、私は頭を悩ませる。
鳥や昆虫ならば、生まれた時から空の飛び方、翼の扱い方を心得ているものだが、この身、魂は日本で暮らしていた何の変哲もないじじいである。
で、あるならば、少しでも身体の動かし方を知る為に色々と試してみるのも吝かではないのかもしれない。
さしあたって、まずは翼の使い方を覚えるべきだろう。
サイズ的には全長、片方の翼の端から反対側までおおよそ四から五メートル程の、私の身体をすっぽり覆えてしまうほどの大きさである。
しかし人間が空を飛ぶには、おおよそこれが三十四メートル。つまりは片翼十七メートルというとんでもない大きさが必要だと、昔何かのテレビ番組で聞いたことがある。
その時想定していた体重が六十キロ。
私の今の体重がざっくり五十キロだったとしても、とてもではないが理論上飛行できる大きさには達していない。
となると、どうにかして翼を大きくするか、別の方法で飛行するしかないのだが……。
「空の飛び方なんぞ、考えたこともないからなあ」
それこそ、羽ばたいて空を飛ぶなんて、想像したこともない。
いっそのこと、超能力や修行で身に着けた超パワーで空を飛び回る方が、日本人としては馴染み深いぐらいだ。
しかしまあ、ここは島が空に浮き、超ド級の猪が闊歩する異世界である。
「まあ、やれるだけやってみるかい」
翼の爪で頭を掻きながら、溜息交じりにそう漏らす。
朝霧が晴れ、お天道様が海岸線から顔を覗かせ始めた、十八度目となる清々しい朝のことであった。




