73 想い
「あ、あの…殿下…」
「何だ」
「手を離して…くれませんか」
ミナはアルフォンスの私室だという部屋にいた。
目の前にはいい香りのお茶と美味しそうな焼き菓子。
座り心地の良いクッションに腰を下ろし、目の前にそれらが並べられるのをみてミナは今日の疲れと喉の渇きを自覚したのだ。
花茶であろう、優しい色合いのそのお茶で喉を潤したいのに。
何故かすぐ隣へと腰を下ろしたアルフォンスがミナの手を握りしめたのだ。
強くはないが、決して離さないという意思を感じられるその手の強さに振りほどく事は無理そうだと悟ったのだが…ずっと握られたままはさすがに恥ずかしい。
それに目の前のお茶がどんどん冷めてしまう。
もったいない。
「殿下。朝からの実戦でヴィルヘルミーナ嬢はお疲れなんです」
ミナの声を無視してその手を握り続けるアルフォンスに、部屋の片隅に控えていたフリードリヒが見かねたように口を開いた。
「お茶くらいゆっくり飲ませてあげてください」
「…そうか」
ようやく気付いたようにアルフォンスは手を離した。
それでも距離は近いまま、ミナがティーカップに手を伸ばすのを見つめている。
(うう…飲みにくい…)
間近で見つめられてはせっかくのお茶の香りも分からなくなる。
そんなミナの気持ちなど気づいていないであろう、目を細めながらミナを見つめるアルフォンスにフリードリヒは大袈裟にため息をついた。
「何だ」
「いえ、それは天然なのか計算なのかと」
揃って首を傾げたアルフォンスとミナに、もう一度ため息をつく。
「前回のお茶会といい、今日といい、ヴィルヘルミーナ嬢を殿下手ずからエスコートしたでしょう」
「それが何だ」
「…殿下がそういう事をなさっていいのは婚約者のみだという事をお忘れではないですよね」
「え」
「ヴィルヘルミーナ嬢に未だそこまでの知識がないのをいい事に…」
「人聞きの悪い事を言うな」
思わず声を上げたミナを哀れむような眼差しで見たフリードリヒを、アルフォンスは睨みつけた。
「私がエスコートするのは後にも先にもミナ一人きりだ」
「ですからそれは婚約してからでないと…」
「順番などどうでもいいだろう」
「よくないから言っているんです」
「———私が王位に就いたらそんなくだらない決まりは廃止してやる」
「くだらないって」
「あの…殿下」
ミナはアルフォンスを見上げた。
「決まりというのはどんなものでも意味があると聞きました。そう簡単に廃止すると言わない方がいいのでは…」
もちろん、くだらないと思われる決まりもある。
時代にそぐわないものもあるだろう。
だがその決まりが生まれるには何かしらの意味があるのだから、まずは守りなさいと孤児院でリゼに教わったのだ。
そして秩序を保つために多少理不尽な決まりであっても必要だという事はミナ自身、孤児院で暮らしていた時に実感していた。
「ああ、ヴィルヘルミーナ嬢の方が分かっていますね」
フリードリヒをもう一度睨むとアルフォンスはミナへ向いた。
「ではミナ。今すぐ婚約しよう」
「は…?」
「そうすれば私が君をどこに連れていこうと問題はない」
「殿下」
諌めるように強い口調でフリードリヒが口を開いた。
「今のヴィルヘルミーナ嬢の言葉を聞いていなかったのですか」
「婚約は国王の許可を得ればすぐ出来るだろう、そういう決まりだ」
「その前にフォルマー家との合意が必要ですよ」
「ではそのうち宰相が来るだろうからその時に」
「殿下…何を焦っているのです」
フリードリヒの言葉にアルフォンスはしばらく沈黙し…視線をテーブルへと落とした。
「———今日来た魔術団員達は、討伐隊に参加すると聞いた」
「そうですね」
「皆若い…最年長のブルーノでも、兄上と数歳しか離れていない。そして彼らは私より経験もあるし魔術に長けている」
アルフォンスの視線がゆっくりとミナへ移る。
「討伐は幾日もかかる。その間ずっと彼らと共に過ごさなければならないのだ」
「…もしかしてヴィルヘルミーナ嬢を取られると思っているのですか?」
「魔術団だけではない…他の貴族達もミナを狙っている」
そっと伸びた手がミナの手を握り締めた。
「一日でも早く婚約者として…ミナを私のものだと示したいのだ」
「殿下…」
「王太子妃というものがミナにとってどれだけ難しいものか分かっている。それでも私は…君を手放せないんだ」
(あ、れ…今の言葉…どこかで…)
ふいに失ったはずの記憶が蘇った。
前世で遊んでいた乙女ゲーム。
その中の一つに出ていた、アルフォンスによく似た赤い髪の王子がヒロインに言った言葉。
その言葉の答えの選択次第でヒーローと結ばれるか決まるのだ。
(選択肢…正解———いや、違う)
自分の言葉で、伝えなければ。
「私は…確かに、王太子妃になる覚悟も…それがどういうものかも、まだ良く分かっていません」
ミナは自分の手を握りしめる手に、空いている手をそっと重ねた。
「でも…できるならば、私は…殿下の側にいたいと思っています」
アルフォンスの手に力が入った。
「それは…君も私の事を好きだと思っていいのか」
ストレートなアルフォンスの言葉に、ミナの顔がさっと赤く染まる。
見る間に耳まで赤くなりながら、ミナはこくりと頷いた。
絆された、のかもしれない。
だが何度も言葉と態度で自分に好意を示されれば心も動く。
アルフォンスに抱く感情が彼と同じものなのか、これが恋なのか…それもよく分からない。
けれどアルフォンスから向けられる眼差しも言葉も、心がくすぐったくなるような、嬉しいもので。
彼に触れられるのも心地良いと思うのだ。
ゲームのヒロインのように迷わず身分が違う相手と生きていこうという強い意志はまだ持てない。
けれど、アルフォンスと共にいたいと、そう抱く気持ちは確かなのだと思う。
家族や友人とは違う、この感情が好きというものならば、きっとそうなのだろう。
「ミナ…」
アルフォンスはミナを抱きしめた。
「本当に、何があっても私は君を手放さない」
「…はい」
「どちらかが死ぬまで…いや、死んでもだ」
「———はい」
この先、どれほど辛い事があっても。
この腕が自分を抱きしめる限り大丈夫なのだろう。
アルフォンスの腕はそう思わせる強さと温かさがあった。




