72 想い
「ヴィルヘルミーナ!」
馬車を降りるなりミナの名を呼びながら駆け寄ってくる人影が見えた。
「お父様…」
「ああ…無事で良かった」
息を切らしながら宰相は娘を強く抱きしめた。
「…父上、そう力任せに抱きしめたらミーナの息が出来なくなりますよ」
アルトゥールの声に宰相が慌てて腕をゆるめる。
ミナはほう、と息を吐くと助かったというように兄を見上げた。
「お帰りミーナ。怪我はないかい」
「はい」
「殿下もお疲れ様でした。———宰相閣下」
アルトゥールは娘を抱きかかえたままの父親に冷めた視線を向けた。
「ミーナの無事が確認できて気が済んだでしょう。早く仕事に戻って下さい」
「いやしかし、色々と話も聞きたいし…」
「それは後で家でゆっくり聞けばいいでしょう。日が暮れるまでに終わらせなければならない仕事がたくさん残っているんですよ」
アルトゥールは空が赤く染まった外へと視線を送った。
宰相が決裁をした後、文官達がその処理を行わなければならない。
朝から娘の事で頭が一杯の宰相は全く仕事が捗らず、部下達も仕事が滞ってしまっているのだ。
アルフォンス達と共にミナが王宮へ帰還したと知らされ執務室を飛び出してきた宰相を追うように、ばたばたと文官達がこちらへ走って来るのが見えた。
「ほら、早く戻って下さい」
「だが…」
「早く仕事を終わらせてミナと共に帰ればいいだろう」
アルフォンスが口を開くと宰相の腕から奪うようにミナを引き寄せた。
「ミナ。宰相の仕事が終わるまでお茶でも飲んでいよう」
「あ…はい…」
「殿下!」
「ほら、迎えが来たぞ宰相。早く仕事を終わらせないと…ミナは今夜は王宮へ泊まっていく事になるな」
アルフォンスの言葉に顔色を変えた宰相は、文官達を引き連れて慌てて執務室へと戻っていった。
「それではミナ、私の部屋へ行こう」
「殿下。それはなりません」
ミナの肩を抱いて歩き出そうとしたアルフォンスをアルトゥールは慌てて止めた。
王子の私室へ入れる令嬢は婚約者のみと決められているのだ。
「あの宰相の様子ではそう時間はかからない。少しの間くらいいいだろう」
「そういう問題ではありません。二人はまだ…」
「少し早くともいいだろう。行こう、ミナ」
ミナの肩を抱いたままアルフォンスは歩き出した。
「…殿下はもう婚約した気でいるようだね」
二人の後ろ姿を見送りながらエーミールは小さく苦笑した。
「宰相も大勢の前でやらかしたようだし」
「執務室に連れて行くから待っているよう言ったのだけれどね…」
アルトゥールはため息をついた。
ここは王宮のエントランス。
多くの人々が行き交っている。
今のやりとりで最近の社交界で大きな噂となっている、黒髪の少女が宰相の娘である事、そしてこの冬に王太子となる事が内々に告知されているアルフォンスと特別な関係であろう事———それらは噂話の新たな話題として数日中に広まってしまうだろう。
「…済まないな、エーミール殿」
フォルマー家には、エーミールの弟エドモントとの婚約申込みの話も来ている。
だがアルフォンスとミナの噂が社交界に広まってしまえば、このまま二人が婚約する流れとなってしまう可能性が高い。
「———まあ、初めからうちは分が悪いから」
国王が望む婚約話に割り込もうとしていたのだ。
それを覆す理由がなければならないが…例えばミナがエドモントとの婚約を強く望んでいればだが、実戦での二人の様子を見る限り、ミナにはエドモントに対して級友として以上の感情があるようには見えなかった。
そして積極的なアルフォンスへの反応を見る限り、彼の事を憎からず思っているように見えた。
———エドモントには悪いが、彼がその恋を叶える事は難しいだろう。
「しかし…殿下は変わったな」
「…ああ」
以前は全く女性に興味を示さなかったアルフォンスだが、ミナへの気持ちを自覚してからはそれを抑える事もなく、積極的に彼女へアプローチするようになった。
(あの積極性がエドにもあれば良かったのに)
恥ずかしいのか、王子への遠慮なのかは分からないが、エドモントはミナへ想いこそ伝えたものの、それ以上の行動へは出ていないようだった。
初恋は叶えられないであろう弟の幸せを願いながら、エーミールは長い廊下の先へと消えていった二つの人影を見送り、今日の報告を待ち構えているハルトヴィヒの元へ向かうために歩き出した。




