恵みのカッパ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやよ。夏に着る服の準備、もう終わったか?
――何? 私服は大して着ないから、去年とほとんど同じ格好?
はあ、まあ気にしない奴だったら、そこまで買い換えることもないだろうしな。一年のうちで数時間しか着ない服とか、大量にあるクチなんじゃないのか? お前も。
ちっこい頃は親が用意してくれて、それを身につけていれば良かった。そのうちおしゃれに凝り出す奴は、服だの靴だのたくさん揃えながら、「金がない、金がない」ってバイトにいそしんでいたような。
服は自分が頓着しなくても、相手からどう見られるかという点に置いても、重要なツールだ。そいつの身につけているものを値札代わりに、価値を見定めようとする感覚は、今も昔も変わらない。「奇妙な出で立ちにはは気をつけろ」と、古来の遺伝子が訴えているのかもな。
かくいう俺も、小さい頃にヘンテコな格好をする奴が身近にいて、おかしなことも体験した。その時の話、聞いてみないか?
俺が小学生の時のことだ。新学年のクラス替えで一緒になった女子のうち、ひとりが変な服装で登校してきたことを、他の奴から聞いたんだ。何でも彼女は雨の日に時々、黒いカッパを着るのだという。今日もそうだったとか。
探せば黒いカッパというのは、一応ある。ただ登校する際は黄色などの明るい色を採用し、事故に遭う危険を減らすのが定石のはず。それがわざわざ目立たない色を着てくるなど、俺には少し信じられなかった。帰り際は雨が止んでおり、彼女はカッパとやらを取り出さず、帰って行く。
俺が実際に目撃したのは、それから数日後。再び、雨が降った時のことだ。俺は登校途中で、噂の彼女とたまたま一緒になったんだ。
聞いたとおりのおかしな格好だ。彼女の目元以外を覆い隠す重厚な姿は、風に吹かれてもほとんどなびくことはない。彼女の動きに合わせてわずかに揺れはするが、その重量感は冬物のコートを連想させる。
今は夏に差し掛かろうという時期。たとえ雨降りでも、半袖でやっていけるくらいの気温はあった。それなのにこの重装備はいささか、周囲の空気とそぐわない。そのことを追及すると、彼女はこう答えたんだ。
「この中って、とっても涼しいんだよ。汗もかかないし、暑いけど湿っぽい日なんかぴったりなんだ」
俺はその言葉を、簡単には信じなかった。きっと自分の服装を突っ込まれて、そのことの非を認めたくないから、意地を張っているんだと。
それから学校に着くまで服のことには触れなかったが、俺の頭の中では彼女を「変な奴」に認定していた。
やがて梅雨も明け、雨が降る日も少なくなる。彼女は元来、身体を動かすことが好きだったから、男に混じって集団球技をすることもよくあった。参加してくる女子は皆無じゃなかったが、この頃になると彼女は、雨が降っていなくてもあの黒いカッパを羽織るようになっていた。
校舎内では、さすがに身につけない。だが昼休みに外で遊ぶ段になると、ランドセルの中から畳んだカッパを取り出し、昇降口で身につけてから外へ飛び出していく。炎天下でもそれは変わらず、見ているだけでこちらも暑くなってきてしまう。
黒い服は光を吸収し、熱を帯びる。理科の授業でも教わったことだ。気候にもよるが、白づくめと黒づくめでは、服自体が持つ熱さに10度以上の差が生まれることもあるらしい。半袖短パンの俺たちでさえ汗だく必至のこの炎天下、いくら強がっていたとしても、彼女のあの黒いカッパは汗その他もろもろで、大惨事になっているはずだ。
なのに、彼女があれを身につけ続けるのは、どうしてなのだろうか? まさか、本当に涼しいのだろうか? 俺の中ではどんどん疑念が湧いてくる。もうこの時、俺の頭は連日の暑さで、どうにかなっていたのかもしれない。
俺はまず、彼女と仲がいい女子に、彼女の妙な黒いカッパを身につけてもらうよう頼んだが断られた。男同士だと、もののやり取りはさほど気にしない環境だったから、うかつな頼み事だったのかもしれない。
だが、みんなの前で女が着ていた服を貸してもらい、身につけるということは避けたかった。妙な噂が流れると、翌日以降が面倒になる。
俺は周囲に悟られないように気をつけながら、ようやく同じタイミングで下校することに成功。周囲に人がいなくなったところで、彼女に例のカッパを試しに着させてもらえないか、尋ねてみる。
セミの鳴き声がうっとおしく感じ始める、昼下がりのことだった。俺はだらだら汗を流す隣で、彼女は依然として変わらない、目元だけをのぞかせるカッパを身につけている。話に聞く、イスラム女性のような出で立ちだ。
彼女はまじまじと俺の顔を見た後で、改めて周囲を見回す。人影がいないかどうかを確かめているらしく、気配がないと悟るや近くの公園に俺を引っ張り込んだ。陽の光を浴びて、木立の影が公園の半分近い面積を占めていたが、彼女はそれを避けるように動きながら、日なたのただ中へ。俺もそれについていく。
「初めに言っておくよ。気分が悪くなったりしたら、すぐに私に伝えて。この中、本当に涼しいんだから」
「なんで涼しいのさ? 氷を仕込んでいるとか? 黒は熱を持つって、学校の先生が話していたぜ」
「味わってみれば分かるよ」
彼女は腕と頭を引っ込めて服を脱いでいく。ほんの数秒間だったが、途中で生地の半ばから何度か彼女の腕が唐突にのぞき、また隠れたように見えた。
――服のどこかに穴でも空いていたのかな? その割には引っかかる様子もなかったけど。
そうこうしているうちに、彼女が脱いだ服を軽く畳んで俺に差し出してくる。カッパの下は今日の授業中と同じ、白いブラウスとサスペンダー付きの赤いスカートだ。
俺は差し出されたカッパを手にするが、想像していたよりもずっと軽い。印刷紙を一枚だけ乗せているような、さして気にならない程度の違和感。下手をすると俺が着ているものよりも軽い気がして、着る前に思わず目の前で広げちゃったよ。
ところが、両肩を掴んで垂らしたはずのカッパが、不意に指から逃げる。危うく地面に落ちかけたそれを彼女がさっと抱きとめた。にわかには信じられない。俺はほんのわずかな間も、指を離していなかったのに。
「怖じ気づいた? ならこのままでもいいんだけど。早く決めて」
若干不機嫌そうな声音と表情で、もう一度、カッパを差し出してくる彼女。むっとしながらカッパをつかみ取ると、今度は一気に裾から頭を突っ込んだ。
当時は彼女の方がほんのわずかだけ背が高い。サイズは気にならなかったが、問題は着てからだった。
頭と腕を通した俺の前に、奇妙な視界が広がる。
俺は今、彼女を含めた目の前の景色を、額縁にはまった絵のように認識していた。映画のビデオをテレビで見る時、アスペクト比の違いのせいで上下にすき間ができる時があるだろう? あれが左右にも展開されている形だ。くっきりと区切られた視界は、望遠鏡をのぞいたかのように、わずかな範囲しか見えない。
問題は、その周り。「額縁」部分における景色だ。そこには緑色の空と紫色の山々が見えていた。
俺はそれを高い空中から見下ろしている。その先には、山と同じ色に染まった地面、そしてなお黒に近い色に染まった森が広がっていた。
視界は勝手に左から右へ動いていく。同時に、俺は鳥肌が立つほどの冷たさを覚えていたよ。
怖いんじゃない。ここの……「額縁」の向こうの世界はここよりもずっと涼しく、俺がそこへ身を置いているからこそ、そう感じられるんだ。動いていく絵の中では、森や山の途切れた平野部と思しき場所に、三角屋根の家や田畑らしく、ならされて区切られた地面がある。
そこを行き来している、ごま粒のように小さい人々が無数にいた。ある者は家から出てきて、ある者は子供らしき小さい者たちと連れだって、どこかへ走り出している。そして、ある者たちは、大きく白い煙を囲みながら、一様にこちらを見上げて両手をかざしていたんだ。それはまるで、エサを欲しがっているツバメの雛が、大きく口を開けているかのようだった。
俺は悟ったんだ。俺は今、この「額縁」の世界の中で太陽になっているのだと。時と場所、人によってはどうでもいい存在で、けれど狂おしく求めるものでもあって。その世界を俺は見つめているんだ。もっと彼らを眺めていたい……。
「はい、ここまで」
彼女の声が想像以上に近くから聞こえた。見ると、俺の世界を描いていたはずの「絵」の部分が、もう指先ほどの小ささになっている。そこにはもう、公園の景色が見える余裕がない。俺に向かって手を伸ばしている、彼女の手だけが映っていて……。
俺は公園に戻ってきていた。うだるような暑さも、勢いを増したセミの声たちも一緒に。
脱がされた感覚もないのに、俺は元の服に戻っている。そして彼女の手には例のカッパが広げられている。
「やっぱ、慣れていないとああなっちゃうよね。危なかったよ。もうちょっとで君、あそこで太陽として、ずっと生きる羽目になっていたんだから」
彼女はサイズを測る時のように、袖を広げながら自分の身体にカッパをくっつける。
するとどうだ。カッパは彼女の身体へ張り付いたかと思うと、次の瞬間には彼女の身体を内側に取り込んでいた。彼女は裾を通すまでもなく、すり抜けて服を身につけていた。
「君も見たでしょ。恵みが必要なんだ、あの世界。だからあたし、この世界の雨とか陽の光とかと一緒に自分の熱も送っているの。すっごく涼しかったでしょ、あそこ? だから私たちの世界の雨や熱は、それだけで救い主になるんだ。
ま、植物と同じでやりすぎは危ないけどね。向こうも、私たちも」
彼女はにこりと笑うと、悠然と背中を向ける。「これで満足したでしょ?」と言わんばかりで、俺はぼうっとその背中を見つめるしかなかったよ。
それからも彼女は卒業まで、雨が降る日以外も、あのカッパをしばしば身につけていたんだ。