9 冷たい明日
打ち込みやっと終わったので今度こそ完結に持っていけそうです。
熱のこもる音大の練習室でも、彼女と暮らした完全防音の部屋でもなく、モミの立ち並ぶ森のなかにぽっかりと空いた下生えに覆われた小さな丘の上で、俺はゆっくりと深呼吸して、指の先、爪のきわまで酸素が行き渡っていくのを感じながら、弦を押さえ、弓をヴァイオリンへ置く。
脳髄に刻み込まれている楽譜を開き、俺は今このわずかな一瞬だけあの頃へ戻るのだ。
何も知らずにいられたあの頃。俺は過去に戻りたいのだろうか、よく分からない。あんなに辛い別れはもう二度とごめんだという気持ちと、やり直せる可能性が少しでもあるのなら、たった一度でいい、やり直したいという気持ちもあった。昔話を語る奴に未来は開けないのに。
俺の手の中で鳴り出したヴァイオリンは、以前使っていたような家が数軒立つようなクラスのものではもちろんなく、甘くシナプスを揺らされるような高音も出ないし、全身を共鳴させるような安らかな低音も出せない。無論、俺の腕がプロだったとはとても言えないくらいまで落ちたということもあるだろうが、弾き手より楽器本体に問題のあるタイプの不具合だった。
ああ、でも、音の美しさなんてどうでも良い。
俺の血にまみれた手から。四六時中鳴り響く銃声に潰された耳から、音楽が俺の中を突き抜けて、どこまでも広がってゆく。人の血管の総延長は10万キロにもなるらしい。10分にも満たないこの音楽が俺を満たし尽くす事は到底出来ないだろうが、腐った記憶ばかりが蠢く頭から、愛しい記憶を思い出させるには十分だった。
俺は、包まれている。
音の暖かさに、音楽の素晴らしさに。
バカみたいな戦争の中にいる俺にも、ちゃんとここにいると居場所を教えてくれる道しるべ。
俺たちが今まで歩いてきた道を雪が優しくおおい隠し、雪は音を柔らかに吸い込んで、俺の音は、ヴァイオリンは、遠くには届かなくても俺には届く。
今、この時、この瞬間だけは、葬送歌であるとか、上官の前であるとかそんな事は些細な事だ。俺は確かにヴァイオリニストであって、今ここにいるのは、あの頃の俺自身であるという事。音楽と共にあった日々が壊れた噴水のように記憶から溢れて止まらないのだ。
白く冷たい雪に落ちたのは、どちらの涙か。
余韻が空気に溶けていくことが、こんなにも辛かったことなんてあったろうか。もし音楽の終わりが見えたなら、それは雪の結晶の形をしているだろう。弾き手によって形は変わっても、終わり方はいつも一緒だ。手の中で儚く消えてしまうのだ。
俺は、生命の香りのするヴァイオリンを上官へ手渡した。くれ、と言えればどんなに良かったろう。だが、葬送歌を弾き終わった瞬間から、俺はただの一介の兵士となる。
上官は俺からヴァイオリンを受け取り、背を向けて一言、ありがとう、と呟いた。上官もカノンが辺りに響き渡る間は、ただの妻を喪った男であり、あの高圧的な上官でなかったのだろう。
「良いカノンだった。妻もこれで少しは弔えたと願おう。……たまに、俺が呼びつけた時は弾きに来るように。それと、ここでのことを一言でも漏らしてみろ、俺とお前二人仲良く軍法会議送りだ。よく覚えておけ。」
「はっ、かしこまりました。」
弾きに来いとは随分傲慢なことだが、上官というのは大概そういう奴が多い。まあ、俺もヴァイオリンを弾いている間はまだ人間であれるような気がするから、大歓迎だ。