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夏の窓辺  作者: 森中満
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8 冷たい真夜中

 ある晩。敵の1旅団を敗走まで追い込み、俺のいた戦線がひと段落ついた夜のことだった。


 「おい、お前。上官Bが呼んでる、すぐに行った方がいい。」

 「分かった。」


 今回の戦闘で心身ともに疲れ果てた俺は久しぶりにこびりついた血をゆっくりと落として、眠ろうとしていた。硬い寝具にくるまり、うとうとしていた所に声をかけられ、せっかくの安眠を邪魔されたおかげで俺は常より苛々して、あまり話したことのない兵士だったが自制がきかず、ぶっきらぼうに返事をしていた。


 「久しぶりに眠れるのに残念だったな!」 


 同室のやつらに口々に囃し立てられる。冷たい戦場は娯楽が少なすぎるし、気がついたら班のメンバーが1人減ってるなんてざらだから、気を紛らわしたいんだろうが、安眠を邪魔されたこちらとしては迷惑なことこの上ない。


 「クソ、恨むぜ、全く。お偉い様は一兵卒の安眠なんてどうでもいいんだろうよ。」

 

 緩ませていた軍服をきちんと締め直しながら入口へ向かう。外はいつの間にやらまた雪が降り出していた。白い雪が今日も失われた赤の上を覆い尽くしていくのだろう。翌朝には、まるでそこに何も無かったかのように真っ新で真っ白な大地が俺たちの前にあるに違いない。自然は、俺たちがいがみ合っていることなんて歯牙にもかけず、ただただ雪を深く、深く一夜にして積もらせていく。だが、短い夜の眠りが明ければ俺たちは雪の上に鮮血を散らしながら、敵を1人でも多く殺さんと雪に埋もれた大地を無作法に、無遠慮に踏み荒すのだ。


 「全くだ。でもいい知らせかもしれないだろ?昇進とかさあ。」

 

 1人がそう声をあげる。


 「昇進してたらお前ら顎で使ってやるよ、待ってな。」

 「眠いから無理。」


 俺は眠い頭を振りながら、何とかテントを出た。



 「〇〇です。」


 薄い扉をさも重厚な樫の扉であるかのように上品に叩いてから、大声で自分の所属と名前を言い、いや、もはや叫んで、と言った方が正しいかもしれない。そうして中からの返事を木偶の坊のように突っ立って待つのだ。


 「入れ。」


 そう命じられて部屋の中へ一歩踏み入れると、俺たち最下級の兵士にはとても使うことの許されない簡単な家具や、何より暖かそうな寝具が置いてあり、階級の差をまじまじと感じた。実際、顔を上げて徽章を確認すると俺よりも3つも上の徽章がまるで俺を睨みつけるように胸のところについていた。


 「〇〇は前職、ヴァイオリニストだったそうだな。」

 「はっ。ですがもう何年もヴァイオリンなどひいておりませんので、以前とは比べようもないほどに腕は落ちているはずです。」

 

 そうは言ったものの、まちがいなくこれはヴァイオリンを弾かされるだろう。何だってこんな極寒の前線にヴァイオリンがあるのかは分からないが。


 「それは問題ではない。アマチュアの俺よりはましな演奏ができるはずだ。」

 「はっ。善処いたします。」

 

 Bは俺をぎろりと睨め付け頷いた。


 「ここまで言えばもう分かるだろう。ヴァイオリンで弾いてほしい曲がある。お前だったら楽譜がなくても弾けるだろ?プロとはそういうものだからな。」


 はるばる遠い外国の戦場まで来ていびられることになるとは思いもしなかった。プロが何でもできると思ったら大間違いだとこのクソ上官の頭を掴んでぐらぐら揺らしてやりたいような気持ちにかられたのは仕方のないことだと思う。だが、言われた曲名は幸いにも簡単なカノンでヴァイオリンを持つことよりも銃を抱えて走ることの方が上手くなった俺でも弾けそうな曲だった。


 ここで弾かされるのだと思ったが、どうやらBにはお偉い様にしかわからない「隠された意図」があるようで終始高圧的だったBはもごもごと少し口ごもると俺に付いてくるように命じた。


 男たちの軍靴でぐちゃぐちゃにされた黒っぽい雪でどろどろになった道を上官について歩く。辺りには必要最低限の光しかなく、白っぽく光る雪の上を丸く頼りなさげに照らしていた。もう時刻は真夜中を回っているのだろう。外は身を切るように寒かった。

 やがてそのわずかな光すら見えなくなり、俺たちはいつの間にかお互いの懐中電灯が照らす道なき道を進んでいる事に気がついた。外を歩いて大分経つ。一体どこへ向かっているのかと思ったが相手に聞けるわけもなく。俺たちは黙って真っ暗な森の中をかき分けながら進んでいた。


 「ここだ。」

 「ここは......。」


 Bの持つ懐中電灯がぐるりとあたりを照らすと、たくさんのモミの木がしんしんと降る雪の中静かに俺たちを見下ろしていた。いつの間にか、俺たちはモミの木の群生地に着いていたのだ。モミの木は他の木よりも背が低い。針のようなモミの木の葉の隙間から月の光がわずかに差し込み、そこだけぼんやりと深い森から浮き出たようだった。聖なる夜に相応しい威厳と、神聖さで雪の中に佇むモミの木たち。血の匂いに塗れているであろう汚れた俺たちをじっと拒んでいるかのようにさえ思えてくる。


 「2,3ヶ月前、妻が亡くなった。」

 

 Bは、とつとつと語り出す。Bはこの前線へ異動してきたばかりで、俺はBの経歴なぞ知らなかったのだが、Bはどうやらほんの数ヶ月前、今の地位に昇進したらしく、今回の異動もそれに関連したものだったらしい。ただの一兵卒ならば時々、とはいっても戦いが激化した今、その時々もなくなっていたが、取れる休暇もBは取れなかったそうだ。Bは職業軍人だったから開戦してからこのかたずっと、この血なまぐさい戦場を駆けずり回っていた。それこそ、寝る間も惜しんで。階級を上げるというのはそういうことだ。そんなBが妻の元へ帰ることなんて夢のまた夢で、彼の妻もそれが分かっていたから自分が今病に苦しんでいることなんておくびにも出さずに、気丈にBに手紙を書き続けたらしい。そんな愛情深い手紙が、たった一通の電報にとって変わったのはつい最近のこと。Bの妻はBに会うことも出来ずに、たった1人で逝ってしまったそうだ。

 

 「彼女は音楽が好きで、ヴァイオリンの音色は特に好きだった。本来ならばこんなこと許されないのだが、今日は聖夜だ。せめてもの彼女への弔いにカノンを弾いてくれないか。」


 Bは静かにこちらを見つめていた。そう請われても俺が返せる答えは一つだけ。ここは戦場だ。Bは俺のクライアントではなく、上官であり、俺にはイエス以外の言葉は許されない。俺自身が話を聞いて彼の妻にヴァイオリンを捧げたいと思ったのだから、あまり問題ではないかもしれないが。


 「もちろんです。」






 

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