4 記憶の底
私とあの人は長いこと恋人だった。だがそれも昔のこと。彼の顔も思い出せなくなるくらい昔の話だ。なぜ今更彼のことを思い出したのだろう。
彼の音すら思い出せなくなってどれほど経つのかも忘れてしまった今になって、なぜ。
「何で付き合ってたんだっけ?」
私と彼の馴れ初めはとても簡単なことだった気がする。
一般の高校に通っていた私の周りにはヴァイオリンを16になっても続けている人なんて彼以外にいなかった。それに加えて、彼はいわゆる神童で、数々のコンクールで1位を獲っていたから、私が彼のことを見かけたのは高校が初めてではなかったけれど、きっと彼は私のことなんて高校に上がるまでは知りもしなかったはずだ。
彼には、才能があった。
「〇〇もヴァイオリンやってるんだな。」
彼と私の初めて交わした言葉だ。
「うん。△△もやってたんだね、知らなかった。」
私のプライドが許さなかった。私だけが彼を知っていて、彼は私のことを知らないなんて。
だがしばらく彼と言葉を交わしていくうちに、少しずつ私と彼は打ち解けていった。時は偉大だ。その直接のきっかけは高校2年生の秋。進路という文字が現実味を帯びてくる人生において大きなターニング・ポイントだった。周囲が明るい光が差し込む将来を順々に、だけど1人ずつ確実に決めていく中、私と彼だけは将来食べていけるかもわからないような不安定で不透明な未来を選んでいた。
「ヴァイオリニスト目指すんだ、すごいね!」
何度同じ言葉を聞いただろう?もはや聞き飽きたこの言葉を聞かされるたびに、私は少し微笑みながらごまかすことが常だった。最初はそんなことないよ、と言い返していたけれど皆に線を一本はっきりと引かれて、私が発した言葉は彼女たちにどうしても届かなかったから、同じことを繰り返すうちに疲れてしまったのだ。
彼も私と同じ。
決して私たちがすごいわけではない。
私も、おそらくあの人も自分たちからヴァイオリンを取ったら何も残らないことを知っていた。私達はヴァイオリンを捨て去るには余りにも色々なものを捨て過ぎていたし、ヴァイオリンが持ってきてくれたものもそれと同じくらいに多かった。
私と彼はお互いに孤独だったのだ。とても。
孤独な高校生たちにとって、付き合って慰め合う理由なんてそれで十分だ。
だが私には彼がいたから、他のヴァイオリニストの卵たちに比べれば幸運だったのか、それとも不運だったのか。
今の私には分からない。