個体差を超越する存在
「さて、諸君。本日は様々な背景からもたらされる政治・戦略という段階を、紐解き、戦術・戦闘へと構成層を降りながら、階層ごとの意味を捉え直す」
低く、しかし威厳に満ちた声――
オコート校長の声が講堂全体へ響き渡りました。
候補生たちは、まるで時間までもが停止したかのように耳を傾けています。
それもそのはず。オコート校長は前の執政官というだけではなく、かつて三つの星系戦役を終結へ導いた智将であり、言葉一つひとつが、超重元素どころか縮退物質と同質の重さを持っているのです。
オコートの講義は、以下のように進みました。
・政治的背景:国家・連合・同盟の構造と利害
・軍事戦略:大規模運用・補給・艦隊配置の原則
・戦術:個別戦闘単位の運用、部隊間の連携
・戦闘:最小単位の直接対決、場合により徒手空拳による応用
これらの要素は中央士官学校の候補生たちにとって、当たり前どころか無意識レベルで刷り込まれています。
しかしオコートは、深い知識と重みのある経験からもたらされる様々な視点や考察を絡めて、高次元レベルで再解釈した内容を語りました。
単なる理論の再掲ではなく、経験と智性が融合した“高次構造的再解釈”。
戦略を上層から降ろすのではなく、下層から逆照射する語り口。
だからこそ候補生たちは、理解ではなく“体感”としてそれを吸収します。
一言一句を、零さぬように。
そして、講義はゆっくりと終局へ向かいます。
「戦略とは、政治と軍事の連続体である。
それらは戦術として実次元の中で結実し、
最終的に戦闘――個体が執行する最小単位となる。
そう、この講義では、まず思考を宇宙規模に展開し、最終的にその流れを“個の動作”という一点へ収束させた。
これは連続体を精緻に観察する試みともいえるが――」
オコート校長はここで、このようなことを言いました。
「貴官らは中央士官学校の候補生であるが、
皆、この最小単位について理解しているだろうか?
……すなわち、“一兵”がどう立つか、どう戦うか、ということを」
老練にもほどがある元帥の言葉に、候補生の多くは、うっ、と息を飲みました。
彼らは全員、新兵訓練所で個人戦闘訓練を受けていますが、それを実践する機会を持った者は少ないのです。
共生知生体連合はこの三十年、常に専守防衛戦略を取り、人的資源を浪費するような陸戦を可能な限り避けてきました。
ゆえに、軍事戦略の最小単位を実際に知らないという事実に、ある種の戦慄すら覚えるのも無理はありません。
もちろん、実戦経験者――銃剣を振るうような肉弾戦を経た者もいます。
「――ふむ、そうだな……ゴローロ君。
それについては、君に一家言あるのではないかな?」
「はっ……」
ゴローロは共生知生体連合宇宙軍第一軌道降下団出身ですから、戦闘という最小単位について、この場の誰よりも、将官であったオコートよりも経験しているでしょう。
「現実的な戦闘、個人戦闘においては……」
ゴローロは自分の体験を言語化しようとして、少し考えこみました。
そして――
「ただ一人、兵士として戦う……覚悟が問われます」
低く、腹の底から絞り出すような声でした。
実戦経験者、それも歴戦の猛者の言葉に講堂の空気がわずかに震えます。
「どれほどの戦略があろうと、どれほどの艦隊が背後に控えていようと、最後の瞬間に立っているのは“一兵”です。
誰も代わってはくれません。敵を前にして、指令も援護も消えたとき――残るのは自分の呼吸と鼓動、それだけです」
候補生たちは息を詰めたまま、動けずにいました。
ゴローロの言葉は、訓練で聞く抽象的な精神論ではなく、彼の中で何かが、実際に焦げ、壊れ、そしてなお立ち上がった記憶から発せられていたのです。
「……なるほど」
オコート校長はゆっくりとうなずきました。
「君の言葉には、戦場の重力がある。
それは教科書に記せぬ“実体”だ。――諸君、覚えておくといい」
その声は再び講堂を満たしたが、先ほどまでの理性の講義とは違い、どこか湿り気を帯びていました。
「戦略も、戦術も、結局は“個”を基点として構築されねばならぬ。
個が崩れれば、いかなる連合も瓦解する。
ゆえに――我々は“個”を見なければならない」
オコートは一歩、教壇から前へ出て、こう尋ねました。
「しかし、個とはなんだろう?」
オコートはゆっくりと歩きながら、講堂の中央に立ち、その声音はもはや講義というより、審問に近いものになっていました。
「われわれは、個を“等しい単位”として扱う。
だが、実際にはそうではない。
個体は決して均質ではなく――いや、むしろ絶望的なほどに差がある。」
候補生たちは顔を見合わせました。
“共生”や“平等”という理念が連合社会の根幹にある以上、その言葉は異端にすら聞こえるのです。
「同じ訓練を受け、同じ戦場に立っても、勝つ者と敗れる者がいる。
いや、同じ一撃を受けても、生き残る者と砕け散る者がいる。
それが“個体差”というものだ」
校長は「それを認識したまえ諸君」と言ってから、しばし沈黙し――
「……だがね。そのような認識の外に“存在そのものが存在する”現象がある。
声の調子を落としてから、こういうのです。
「認識を超越する存在。
常識の枠を超えた者。
我々がいかに体系を築こうと、彼らはその外側からやって来る。
彼らは才能でも天運でもなく――構造そのものの歪みとして“生まれる”」
静まり返った講堂の中で、照明が一度だけ、わずかに明滅しました。
「個体差を超越する存在……
そういう者を、私は見たことがある。
戦場で。星系をまたぐ混沌の中で。
彼らは戦略を超越し、秩序をねじ曲げる存在だった」
オコートの瞳が遠くを見ました。
それは、回想ではなく、再会のような光でした。
「……今から諸君に見せよう。
数値化できるものではない。
宇宙の法則にすら縛られぬ孤立した方程式だ」
卓上のホロテキストが消え、空気がわずかに震え――
重力がねじれ、黒い霧が床を這い上がるのです。
「おぅ、来たか」
校長がそう言うと、講堂の重い扉がひとりでに軋んで開きます。
……否、開いたのではありません。
空間が裂けたのです。
薄い膜を破るように黒い霧が広がり――
その奥から、一歩、また一歩と“何か”がこちらの世界へ侵入してくる。
重力が歪み、照明が瞬く。
時間さえも数瞬、凍りつき。
その男は、まるで夜そのものを人の形にしたような姿をしていた。
長身で、影よりも黒い外套をまとい、その裾は風もないのにゆらりと揺れる。
赤い両眼は血のように深く、視線を向けられた者は一瞬、魂を掴まれたような錯覚を覚える。
口元には常に微笑――
それも“慈悲”ではなく、“愉悦”に近い笑みが。
頭には、つばの広い深紅の帽子。
黒い手袋には古びた魔法陣めいた刻印が走り、指先を合わせるたびに金属音のような静電が鳴る。
シャツは鮮血色、ネクタイは闇を縫うような黒。
全体としては古き時代の紳士装いだが、どこか軍服にも神父服にも見える――
“矛盾した衣”。
「くはっ……校長殿、ずいぶんと真面目な授業でしたな。
――では、ここからは私が引き継ごう」
男は講堂の中央で立ち止まり、唇の端を吊り上げます。
不敵な笑みが、講堂全体を凍りつかせました。
「講義名は――
個体差と言う概念を超越する狂気。
愚者は死に、賢者は踊り、英雄は笑う。
さて、諸君。始めようじゃないか」
その言葉と同時に、候補生たちは音もなく――
別の場所へと移動したのです。




