だれ、どこ、なに
十字路に差し掛かった僕の目の前に、男は突然姿を現した。
一度見たら忘れなさそうな男なのに、僕はすぐ傍に行くまでこの路地に自分しかいないと思っていた。
恐ろしく、平坦な顔をした男だった。
線で引かれたように横に伸びた口が、やけに目に付く。
身に着けている喪服の方が、よほど現実的で立体的に見えた。
男はただ、僕を見ていた。
特に何を言うでもなく、何をするでもなくじっと見ている。
話す気分には、ならなかった。
僅かに視線を下げ、目礼のなりそこないの挨拶をするだけに止める。
男が、視線を交差点の方に向けたように感じた。
まるで「早く行け」とでも言うように。
言われるまでもなかった。
こんな男に付き合うなんて、真っ平ごめんだった。
僕は、男を見もせず歩き出す。
最初に右の道を選んだ事に、特に意味はなかった。
何となくだ。
強いて言うなら、早く男から離れたかったからかもしれない。
右に行けば何かある、という確信は、残念ながらなかった。
それでも、僕はどこかへ進まなければならない。
どこかへ。
何もない、道だった。
周りには高い塀があるだけで、何も見えない。
楽だな、と思った。おかげで迷わず前に進む事が出来る。
心なしか、足取りが軽くなった。
選ばなくていいというだけで、心が軽くなる。
右の道を進んでいくと、道端に大きなぬいぐるみを見つけた。
僕の体より少し小さいくらいの、クマのぬいぐるみだ。
――メリ。
ぬいぐるみから、何か音が聞こえる。
まるで、大きな爬虫類が脱皮を始めるような音だった。
可愛らしいクマのぬいぐるみは、風もないのにビクビクと動いている。
――メリメリッ。
背筋がざわつく。
僕は、思わずぬいぐるみから背を向けて歩き出した。
横たわるぬいぐるみの背中あたりが割れ、真っ赤な液体が流れているように見えた。
割れ目から人間の手のようなものが見えたのは、きっと気のせいだ。
――ブチチッ。
何かを破る音が聞こえた。
思わず僕は、目を閉じて走り出す。
もう、後ろは一度も振り返れなかった。
気がつくと、僕は再び十字路にいた。
見知った光景に、思わず安堵して座り込む。
荒くなった呼吸を必死で落ち着けながら、僕はそっと後ろを振り返った。
あのぬいぐるみから出てきた何かは、追っては来なかったようだ。
激しい運動で胸はまだ苦しいままだったが、ひとまずは大丈夫だろう。
体を起こして交差点に行くと、先ほどの平坦な顔の男は、まだ先ほどの場所にいた。
出来るだけ、見ないようにしよう。
声でもかけられたら面倒だ。
今度は、真ん中の道に行って見よう。
呼吸が落ち着いた僕は、そのまま男に背を向けて歩き出す。
そう言えば今いる場所がどこなのかも、わからない。
いずれにしても、僕は行かなければならない。
どこかへ。
真ん中の道は、ひたすらに上り坂だった。
交差点から見た景色では、とてもそんな風に見えなかったのに。
延々と続く上り坂に内心うんざりする。
またしても、代わり映えのない景色。
先ほどと違うのは、この坂と、壁の向こうに屋根のようなものが見える事くらいだ。
着ている服が、べたべたと張り付く。
体を続けざまに動かしたせいで、随分汗をかいているのが不愉快でならない。
息苦しくてワイシャツのボタンを一つあけると、少しマシになったような気がした。
汗を拭って、前を眺める。
どうやらもう少しで、この上り坂は終わりらしい。
道の先で、坂道が途切れているのが見えた。
登りきったら一休みする事を心に決めて、だるくなり始めた足をまた前に進める。
それにしても、なんて辛い坂道だ。
視界が、開けた。
坂道の終わりには、もう道はなかった。
ずっと続いていた壁も屋根もなくなり、底の見えない崖が前に広がっている。
他にあるものと言えば、一人の老婆が座っているベンチだけだった。
出来ればもう、戻りたくなかった。
僕は地面に手を着いて崖を見下ろし、降りる方法を探し出す。
崖には、いくつか足場があるようだった。
これなら下りれないことも無さそうだ。
薄暗くて見難い。明かりでもないだろうか。
いつも煙草とライターをしまってあるはずの胸ポケットを探ってみる。
しまった、こんなときに限って持っていない。
この薄暗い中、崖を下りるのはあまりにも危険だった。
何か方法はないか。
そう思い、僕は再び崖を見下ろす。
――ヂョキン、ヂョキン。
背にしたベンチの方から、何かを鋏で切るような音がした。
そうだ、老婆がいた。
もしかしたら、下りる方法を知っているかもしれない。
僕は体を起こして土汚れを払うと、老婆の方へ歩き出す。
しかし、話しかける事は出来なかった。
老婆の足元に、山と積まれた人形が見えたからだ。
周囲には、元人形だった、老婆に切り取られた破片が散らばっている。
老婆は手に持った植木鋏で、人形の手足や胴体を切り刻んでいるようだった。
――グリッ。
老婆は突然、首だけを回して僕を見た。
思わず僕は走り出す。
老婆はいかにも上品そうな顔立ちをしていた。
まるで孫を眺めるような、優しい笑みをしていた。
目の前で行われていた奇行をあんな表情でしていたことが、不気味でならなかった。
下り坂を駆け下りる足が、もつれる。
ここにはいたくない。その気持ちだけで、大急ぎで足を前に出し……
僕は坂道を転がりだし、いつのまにか意識を手放した。
気がつくと、また交差点にいた。
そして、またあの平坦な顔が僕を見ていた。
不気味だ。
目の前で人が倒れているのに、ただずっと眺めていたんだろうか。
厚みのない目を、睨むように見つめる。
男の目に少し感情が宿ったような気がしたが、結局何も言われなかった。
僕は男と話をする事を諦め、残された左の道を目指す。
立ち止まる事は出来なかった。
ここがどこかはわからないが、ここにずっといる訳にはいかない。
僕は行かなければならない。
どこかへ。
左の道は、普通の商店街のようだった。
交差点にいる時は気付かなかったが、なかなかに賑わっている。
そばつゆの匂いに、肉の焼ける匂い、甘い砂糖の匂い。
しかし、どれも不愉快だった。
不思議だ。腹が減っているのに、この賑わいにはいらだちしか感じない。
早くここを抜けよう。
僕は足を早めだす。
どうやら、いらだっているのは僕だけのようだった。
商店街にいる人々は、いずれもにこやかに話をしている。
何がそんなに楽しいと言うんだ。
こんなに僕は不愉快なのに。
どうしてそんなに、笑っていられる。
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
突然、周囲から同じような言葉が聞こえてきた。
なんだ、どういう意味だ。
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
人々は呪文のように、同じ言葉を繰り返しだし、近くにいる人の首元にナイフをつきたてる。
なんだ、何だと言うのだ。
商店街の賑わいが、謎の呪文と血の吹き出る音で埋め尽くされる。
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
「昨日が今日で明日ならば、いつはどこにある」
僕は、また走り出す。
周囲から飛んで来る血に時々顔を濡らしながら。
もう戻りたくない。このまま走り抜けるしかない。
どれほど走っただろう。
いつの間にか、静けさが戻っていた。
あの呪文も、血の吹き出る音も、もう聞こえてこない。
これで行ける。
どこかへ。
嘘だ。
信じたくなかった。
足から、力が抜けていく。
目の前にあるのは、あの交差点じゃないか。
いや、そんなはずはない。
きっと似た道というだけだ。
ほら、あの男の姿だって、見当たらない。
よろよろと、僕は十字路の中央を目指す。
男が立っていたはずの場所を、ゆっくり見る。
そこには、一枚の大きな鏡があった。