エピローグ
背徳感は不思議なくらいに無かった。
本当に、欠片も無かった。やり切ったという達成感も無い。久しぶりに激しい運動をした後の、心地の良い疲労感があるだけだった。
車窓の外を流れる家や星空を眺めながら、ミカのことを思い浮かべた。僕たちがこんなバカなことをしているなんて知りもしないミカ。彼女は今、一体どんな気分で病院のベッドに横たわっているのだろう。
きっと、と僕は考える。
きっと、バイト先に迷惑を掛けてしまったことを心配しているに違いない。単なる想像以上に、そう確信出来る。それを思うとなんだか余計に悔しく、やり切れない気分になった。
正直、あいつの車をぶっ壊したのはいい気味だ。「気が静まるから」という動機も納得できる。だけど、気掛かりなことは依然として残されたままだった。
彼女はきっと救われない。それは皆よく分かっているはずだ。
ミカなら手を叩いて笑うだろうと、アキラは言っていた。もちろん本気でそう思っているはずはない。あの時の口ぶりも完全に投げやりだったし、少しでも彼女と一緒にいた人間なら、その程度のことは嫌でも分かるだろう。
じゃあ、これは一体何だったのか。本当に自分達のためだけに行ったことだったのだろうか。
ミカと出会った最初の日、一緒にボウリングをした時のことを思い出す。あのボウリング場で、思えばあの時から彼女は不運に見舞われてばかりだった。
幸先悪いなあ、とミカは言っていた。そしてそれは皮肉にも現実になってしまった。
何がどう縁起が悪かったのかと言えば、他でもなくミカの、あの特殊なジンクスのことだ。最後の一ピンがどうしても倒せない、というジンクス。あれは全くもって本当のことだった。僕らが代わりに投げた時まで球はことごとく外れてしまった。最後にミカが自分で投げて外してしまった後の、あの残念そうな声と表情は今でもはっきりと思い出せる。
あの時果たせなかったスペアを成し遂げる──ユーモアの無さそうなアキラにしては洒落たアイデアだ。公園にいた時のロマンチストぶりといい、実は僕の知らない面が多いのかもしれない。
だからといって、やっぱりミカのためになるわけじゃない、と思う。結局のところこのイタズラには始めから大した意味なんか無くて、ましてや彼女にとっての救いになんて到底なり得ない。それは幾度となく繰り返された結論だ。
窓を半分だけ開けて息を吸い込んだ。夜の空気が鼻を抜けて体の隅々に染み渡っていく。
考えてみれば、復讐というのも大抵そんなものじゃないか。僕は、僕たちの行いをあえて責める気にはなれない。それが例えエゴだったとしても、あるいは愛だったとしても、今更どうしようもないことだ。
「……ミカには、何も言わないほうが良いね」
目線を高くしながら二人に言った。トラオはハッとしたような顔で僕を見て、申し訳なさそうに目を伏せた。それからしばらく誰も口をきかなかった。
「どうしたの」
間もなく、何もない道端で車が停められた。
「レク、ごめんな」
アキラはそう言って、ラッキーストライクの最後の一本を取り出した。口に咥えて火を点け、開けた窓の外にゆっくりと煙を吐き出す。
「ミカちゃん、本当はまだ眠ってるんだ」
アキラは前を見据えたまま言った。トラオは下を向きながらため息を繰り返していた。
*
「どういうこと?」
「……ミカちゃんは、目を覚ましていないってことだ」
「それは分かったよ」
何からどう訊けば良いのか見当がつかなかった。僕は色んな疑問を喉に引っかけたまま次の言葉を待った。トラオは小さな声でごめんねと呟いていた。
「あのボウリング場のことは、ミカちゃんから聞いたんじゃないんだ。俺が直接行って調べた……てか、聞き出したんだな」
「聞き出した?」
不吉な予感が胸に広がっていくのを感じた。もしかしたら、もっと前から無意識に抱いていたのかもしれない。
「ああ。あの日、お前を家まで送った後、病院に行ったんじゃないんだよ。……ボウリング場に戻ってたんだ」
アキラは語りながら、ひと口ずつ煙を吸って吐き出す。僕は大いに焦らされた。
「それで、何しに行ったの?」
「まあ、初めは何をするわけでもなかったさ。ただ何となく戻って、あいつが一人でいるときにぶちのめしてやろうかと思ってただけだ」
再び煙を吐く。トラオはうずくまって小声で謝り続けている。
「そしたら、中にいなくてさ。受付の女も別のバイトに変わってて。それで、仕方ねえから帰ろうかと思ったら、いたんだよ……」
「どこに?」
「車ん中。あいつら、営業中に外でカーセックスしていやがった」
運転席にコンドームが散らばっていたのを思い出した。あの二人が車の中で乱れている姿は容易に想像が出来た。
「気づかれないように近寄って、写真撮ってやったんだ。携帯で」
「なんで?」
「なんか、イタズラに使えないかなと思ってさ」
アキラは携帯を取り出して、そのとき撮った写真を見せてきた。あの男が裸で下品に笑っている顔も、あのケバケバしい女の顔が歪むところも、盗撮とは思えないくらいによく写っていた。
「もういいよ」
気分が悪いので僕はすぐに携帯を押し返した。アキラは「おう」と言って携帯をズボンのポケットに仕舞った。
「それで、終わった後に女が先に帰ってな。俺、その後尾けて、夜道で一人になった時に洗いざらい聞き出したよ。あいつがどんな奴なのかとか、ミカが何をされてたのかとか、全部な」
カーセックスの写真を突きつけて女を尋問したのは言われなくても想像がついた。
「あいつやっぱり、わざとミカに仕事を押し付けてたんだってよ。それで他の女には楽させて、自分に好感持たせてたらしい」
「……やっぱり、そうか」
「ああ。……それで、何より最低でムカつくのがさ。あいつ、ミカにも散々やらしいこと言い寄ってたんだってよ」
横でトラオが拳を握っているのが分かった。激情に耐えるように、必死に目を瞑っていた。
「それで、後でそのこと全部トラオに話したんだ」
「そうなの?」
僕はトラオに向かって訊いた。トラオはハッキリと頷いた。
「そう。それで、トラオが俺に言ったんだよ。な?」
アキラが声を掛けると、トラオは涙を流して頷いた。そして気を落ち着かせるように大きく息をついて、口を開いた。
「あいつを殺そうって、俺が言ったんだ」
トラオはそう言って、運転席のシートにもたれて泣き崩れた。
「殺すって……」
「ああ」
吸い終わったタバコを空き缶にねじ込んで、アキラは続けた。
「さっきぶっ潰した車に乗ってたんだよ。あいつがな」
僕は頭を抱えた。何もかもが嘘みたいだと思った。
今まで起こった全てのことが、まるで悪い夢みたいだ。だけどそれは紛れも無く現実の出来事で、ついさっき自分の手でやったことに他ならない。
「……あの女を写真で脅してさ。今夜のあの時間に、あいつを車に誘わせたんだよ。もちろん詳細は教えずにな。それで、トラオはあいつが一人で乗り込んだタイミングを見計らって俺に知らせてたってわけだ」
「で、でも」
混乱して話がうまくまとめられない。だけど少なくとも、あのトランシーバーの通信からはそんなことはまるで分からなかった。あの会話は確かに、僕にもハッキリと聞こえていたはずだ。
「トランシーバーか」とアキラは言った。僕は黙って頷いた。
「ほら。もう全部ネタバラシだ」
そう言って、アキラは腰のホルダーからトランシーバーを取り出して僕に手渡した──いや。それはトランシーバーなんかじゃなかった。
「これ……テープレコーダー?」
「そう。ラジオ付きのな」
トランシーバーのアンテナに見えていたのは、ラジオのアンテナだったのだ。
『おいすー。えー、見たところ、周りに人はいないんで、今なら大丈夫ですよー』
『ああ。はいよー』
再生ボタンを押すと、録音されたトラオの音声が流れた。僕は思わず笑ってしまった。アキラも少しだけ笑った。
「まあ、お前を騙すための回りくどい小細工だ。わざと合わない周波数でラジオの音立てたりしてな。合言葉っていう手も考えたが、まどろっこしいから止めにした」
「じゃあ、本当の合図は?」
僕が訊くと、アキラは助手席に置いたイヤホンを手に取って見せた。
「これ」
それは間違いなく、あの時アキラが耳に付けていたイヤホンだった。
「ミスチル聴いてたんじゃなかったんだ」
「ああ」
あまりの用意周到ぶりに笑いがこみ上げる。もう人を殺したのも何もかも実感が湧かず、僕はただただ笑っていた。アキラも下を向いて、肩を震わせて笑った。トラオはずっと啜り泣きをしながら謝っていた。
「でも、なんでそこまでして騙そうとしたんだよ」
笑いが収まらないまま尋ねた。
「そりゃあ、お前なら止めるだろうと思ってさ。人殺しなんてするタチじゃないだろ」
「それは……どうなんだろ」
僕にも殺意のような感情が湧かなかったわけじゃない。あの男がミカを犯そうとしていたのを知っていたなら、なおさら腹が立ったに違いない。だけど、だからと言ってここまで踏み切れたのかどうかは、自分でもよくわからない。それにミカのことを思えば……。
「やっぱ、止めてたかも」
「ああ。……勝手に巻き込んで悪かったな。自首するか?俺は構わない。……お前は?」
トラオは小さく頷いて、「構わないよ」と言った。そして涙ぐんだため息をひとつ吐き出した。
「いや」
僕は首を横に振って答えた。アキラは「そうか、悪いな」と言って再びハンドルを握った。
背徳感は不思議なくらいに無かった。
*
──それじゃあ、ミカちゃんが退院したらまた四人でどっか行こうぜ。
アキラは最後にそう言い残して走り去っていった。
僕は部屋に戻って横になると、ただひたすらに天井を見つめていた。
バレるのも時間の問題かもしれない。いくら脅されているとはいえ、あの女が警察に通報しないとも限らないだろう。捕まったらどうなるのかなんて想像もつかない。
一つだけ、良い報せがあった。
一睡も出来ないまま朝まで寝転がっていた僕の元に、一通の連絡が来た。トラオからだった。
ミカが目を覚ましたという病院からの報せが入ったと、トラオは伝えてくれた。その声からは安堵がよく伝わってきた。僕は礼を言って電話を切った。
部屋の窓を開ける。空は青くて太陽がまぶしく輝き、花の甘い匂いが漂っていた。
春の空気だ。
スズメのさえずる声が聞こえた。僕は思い切り体を伸ばしてあくびをした。
*
原付を飛ばして病院に着いたのは午前十時頃。本来なら大学で米文学の講義を受けている時間だ。
病室に入ってすぐに、ミカの姿が目に入った。彼女は右側の一番奥のベッドで体を起こして、窓の外を眺めていた。
僕は躊躇いを振り切り、白い日の光に包まれている彼女の元へと歩いた。
「おはよう」と声をかけた。
ミカは驚いた顔を一度こちらを向けると、何も言わずに俯いた。それから指先で目元を拭い、半分だけ顔を上げた。なかなか目を合わせてくれなかった。
「回復して良かった」
僕は心からそう言って、スーパーで買ってきたカットパインを手渡した。ミカは「ありがとうございます」と言って、大事そうにそれを受け取った。それから「はぁ」と短い息をついて肩の力を抜いた。
「せっかく久々にぐっすり眠ってたのに、びっくりして起きちゃいましたよ」
呆れたように笑いながらミカは言った。その声は少しだけ震えていた。
「びっくり?」と僕は訊いた。ミカは備え付けの小型液晶テレビに目を向けた。僕もそちらに目をやった。
ちょうど朝のニュースで、車と一緒にスクラップになったボウリング場のオーナーの話が取り上げられていた。澄ました顔のおばさんが「最近は訳のわからない犯罪ばかりですねえ」と言って、周りの大人はこくこくと頷いていた。
「やったんですか……これ」
ミカは悲しそうな目で怒っていた。僕はまっすぐ彼女の目を見て首肯いた。
「うん」
「なんでこんな、バカなこと……」
ミカは僕の体を叩きながら泣いた。
僕は彼女の肩を支えた。不思議と温かい気持ちになった。
「きっと皆、ミカのことが好きなんだよ」
ミカは叩く手を止めて、そのまま大きな声で泣き続けた。僕はずっとその体を支えていた。涙で服がぐしゃぐしゃに濡れた。
鼠色のスーツを着た男が病室に入ってきたのは、それから間もない頃だった。男はドアの前に立つと、その場で内ポケットから何かを取り出して体の前に掲げた。警察手帳だった。
「えー、こちらに、あー……遠崎……」
「レクイエム」
そう言って、僕はミカの体を丁寧に離した。それから彼女の頭に手を置いて、「ごめんね」と言った。
「遠崎鎮魂歌です」と言いながら、僕は男に歩み寄った。
男は一瞬呆気にとられた表情をした後、しゃきっと背筋を張って僕の顔を見下ろした。
「遠崎鎮魂歌さん。あなたに器物損壊、並びに殺人の容疑で逮捕状が出ています。ご同行願えますか」
僕は黙って頷いた。男は僕の背中にごつごつとした手を回して、そのまま廊下へと歩き出した。
病室を出るとき、一度だけミカの方を振り返った。ミカは瞳を赤くして微笑みながら、静かに手を振っていた。
その口元が「ありがとう」の形に動いたのを、僕は見逃さなかった。
—終—
これにて完結となります。途中で結末に勘付かれた方もおられるのではないでしょうか?
賛否ありそうなお話になりましたが、何がともあれきちんと締めくくられて良かったです。
最後までお読みいただきありがとうございました。