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スペア  作者: 玄侍
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3.映画館

 その古い映画館は、街のとある静かな裏通りに建っている。

 近所にはコインパーキングや床屋やスナックなんかがポツリポツリとあって、その隙間を埋めるようにして暗い雑居ビルや小さなアパートなどが立ち並んでいる。昔からちっとも変わらないそんな景観の中でも、その古い映画館はひときわ異質な空気を纏ってそこに存在している。

 映画館の名は「Silencio」。入り口の目立つところに青い筆記体でそう書いてある。「シレンシオと読むんだよ」と、小さい頃にばあちゃんが教えてくれた。そのときそこで何を観たのかはよく覚えていない。きっとその頃の僕には難しすぎる映画だったんだろう。


 僕は駅までミカを迎えに行って、シレンシオを目指して駅前のにぎやかな通りを歩いていた。この前カラオケで会ったときから一ヶ月以上経って、すっかり暖かい時期になっていた。

 夜の街中を歩くのもすごく久しぶりな気がした。実際は昨日の夜だってアキラ達と一緒に街を「徘徊」したばかりなのに、それとはまるで違う新鮮さがあった。これも隣にミカがいるせいかもしれない。

 「最近、よく眠れてる?」

 頭一つ分くらい小さなミカに向かって訊いた。彼女はずっと細かなスキップを踏むみたいに歩いていた。一歩ごとに体が跳ねて、黄色いパーカーの二本の紐がまるでシマウマの尻尾みたいに揺れる。

 「バッチリ寝てますよ」とミカは言った。その目元には相変わらず深い隈が残っていた。むしろ、前より更に酷くなっているようにすら見えた。ふっくらしていた頬もいくらか痩せて、小さな影を作り出していた。

 「……ウソ。全然寝てない」

 さすがに誤魔化せないとわかったのか、ミカはちょっと目を伏せて笑いまじりに撤回した。

 数日前、トラオにミカの調子を尋ねたときのことを思い出す。あのときトラオはこっちも見ないで「大丈夫でしょ」と言っていた。その声には全く自信がなさそうだった。

 「やっぱ、バイトとか課題が大変なんだ」

 「うん。でも、ちゃんと頑張れてるので大丈夫ですよ。本当に」

 愚痴くらい言ってもいいのに、と思う。ミカは本当に人から心配されるのを嫌う。今までもずっと、一貫してそうだった。何度彼女から、「大丈夫」という言葉を聞いてきたかわからない。

 「好きでやってるんですよ。私」

 無理やり付け足すようにミカは言った。そのとき向こうから歩いてきたサラリーマン風の男の人と肩がぶつかって、ミカは振り返ってごめんなさいと謝った。男の人は振り返らずにそのまま歩いて行った。

 「……好きでやってるんです。仕事楽しいし、私、けっこう頼りにされてるから」

 そこまで言われると、僕もそれ以上ムキになることは出来なかった。「頼りにされてる」という部分に突っ込みたくはなったけど、これ以上言ったら彼女に怒られてしまいそうな気もする。大丈夫って言ったら大丈夫なんです、とかいう調子で。だから僕はただ「ふーん」と答えた。ミカはあくびをかみ殺していた。

 「裏通りに入ろっか」

 僕が提案すると、ミカは「うん」と答えた。さっきみたいなこともあるし、やっぱり人通りは少ないほうが良い。

 靴屋の角を曲がって薄暗い道に入ろうとしたら、ミカが急に足を止めて、顔を後ろに背けた。どうしたの、と僕が尋ねると、なんでもないですとミカは答えた。

 「ただ、あれがなんだか苦手で」

 「あれって……スターバックス?」

 ミカが目を逸らしながら指差す方向には、スターバックスの円い看板があった。看板には「STARBUCKS COFFEE」の白い文字と、真っ黒い目で微笑む人魚の顔が描かれている。

 「昔から怖くて、直視できないんです。夢にも出てきたし」

 確かによく見れば不気味な気もする。髪の毛のウェーブなんてムンクの「叫び」そっくりだ。ミカが直視できないと言うのもわからなくはない。

 「確かに、ちょっと怖いね」

 「でしょ?良かった。わかってくれる人がいて」

 ミカは安心して、小走りに裏道へと入っていった。暗いのは平気らしい。先回りしてこっちを振り向くミカのもとへ歩く途中、僕はなぜか得体の知れない懐かしさのようなものを感じていた。それが何の懐かしさなのかは、どうしても思い出せなかった。


 シレンシオへと続く暗い裏通りを歩く途中、一匹の猫がアパートの駐車場から出てきて反対側のビルの隙間に入っていった。猫は白と黒の毛を持っていた。ミカは「猫だ」と言って駆け寄り、腰をかがめてビルの隙間を覗いた。向こうから走ってきた自転車の男子高校生が不思議そうにミカの背中を見ていった。

 「いなかった」

 戻ってきたミカはそう報告した。そろそろシレンシオが近い。

 「そういえば、今日何を観るんですか?」

 「さあ。なんだろう」

 実は決まっていない。だけど、あそこでは必ず何かしら良い映画がやっているはずだ。今まで一人でふらっと観に来ることが多かったけど、どれも心に残っている。ただ、一つだけ気がかりなこともあった。

 「ミカちゃん、ホラー映画観れる?」

 今更になって僕はそう尋ねた。あそこではたまに昔のホラー映画が上映されている。支配人の気まぐれなのか、エクソシストとかオーメンのような怖いやつがある日思い出したようにスクリーンに映し出されるのだ。

 「ホラー映画、大好きです」とミカは言った。スターバックスは怖いのに、と僕は思った。

 「あと、ミカちゃんじゃなくて、ミカでいいですよ」

 前から言おうとしていたような口ぶりだった。「わかった」と僕は応えた。

 後ろの方で猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、白い電灯に照らされた道路の真ん中でさっきの猫がこっちを見ていた。

 「さっきの猫!」とミカが言った。あそこまで走って戻るのかと思ったら、さすがにそれはなかった。ミカはその場で猫に手を振った。僕も手を振った。猫はこっちを見ながら二、三歩じりじりと歩き出して、そのままアパートの駐車場に素早く駆け込んでいった。

 気がつけば、僕らのすぐ右側でSilencioの青い文字がぼんやり光っていた。

 「ここだ」

 僕は弱々しい裸電球に照らされた窓口で二枚の鑑賞券を買った。窓口では青いキャップを被ったいつものじいさんがタバコを咥えてラジオを聴いていた。

 「今日は何やるの?」と僕はじいさんに訊いた。「小さな恋のメロディ」とじいさんは答えた。

 「……いや、エンゼル・ハートだったか」

 僕は鑑賞券を一枚ミカに渡した。窓口のじいさんがその場で券を回収する。無意味にも思えるけど、昔からこうだから仕方がない。従業員もこのじいさんと映写室のじいさんの二人しかいないのだ。

 「たしか、エンゼル・ハートだ」と窓口のじいさんは嗄れた声で独り言みたいに言った。ミカはポスターも何もないその殺風景な入口を物珍しそうに眺め回していた。


 上映時刻はいつも決まって昼間の三時か夜の九時。それ以外はなにもやっていない。それぞれ一つずつ別の作品を上映する。派手な音響システムも投映技術もないけど、昔の映画にはそれで十分だ。

 「すごい。古い映画館、って感じ」

 「実際、古い映画館だしね」

 劇場の広さはだいたい学校の教室二つ分程度。まずまずの広さだ。階段状に座席が配置されていて、後ろから二番目の左の方に白髪の老人が一人腰掛けていた。茶色いセーターの老人は僕たちの方を見ると、笑顔で会釈した。僕たちも会釈した。あとは前の方に丸つばの帽子を被った貴婦人風の女の人がいるだけだった。

 「空いてるね」

 階段を下りながらミカが言った。「いつもこうだよ」と僕は応えた。

 僕らは中央の席に並んで座り、映画が始まるのを待った。九時まであと十五分の時間があった。その間にミカはトイレに行き、僕は外の自販機でジュースを買って戻ってきた。一旦外に出てもすんなり中に入れてくれることはあらかじめ知っていた。

 「エンゼル・ハートってどんな映画?」

 席に戻るなり、ミカはそう訊いてきた。僕は買ってきたオレンジジュースをミカに手渡した。「ありがとう」とミカは言った。

 「観たことないけど、確か怖いやつだったと思う」

 「怖いやつかあ……」

 そう呟くミカの目は、とろんとしてまぶたが半分沈んでいた。

 「怖すぎたらどうしよう」

 「目を瞑ってればいいよ」

 そっか、と消え入るような声で返事したきり、ミカは首を傾けて眠ってしまった。上映まであと五分あった。


 スクリーンに光が灯る。真っ白い画面が色づいて、茶色いロンドンのシルエットが映し出された。エンゼル・ハートじゃなくて、小さな恋のメロディだった。僕は眠っているミカを丁寧に揺すって起こした。

 「始まったよ。エンゼル・ハートじゃなかったけど」

 ミカは眠たそうな顔で体を起こしてスクリーンを見た。楽器を持って行進する少年団たちの姿が映っている。

 「小さな恋のメロディ?」とミカが訊いた。「そう」と僕は答えた。

 「良い映画だよ」

 「なんか、知ってる気がする」

 「観たことあるの?」

 「わからない。でも、なんとなく知ってる気がします」

 それから僕らはダニエルとメロディの恋の行方を静かに見守った。おもしろいところがあればミカは口を押さえて笑った。上映中、ミカは一度も寝ないで映画に集中していた。僕は前に一度観たことがあったけど、それでも最後まで飽きることはなかった。


 CSN&Yのティーチ・ユア・チルドレンが流れる中、二人は大人たちの戒めを振り切って、トロッコに乗ってどこか遠いところへと駆け落ちしていく。それを背景にエンドロールが流れ、映画は幕を閉じた。

 映画が終わってしばらくの間、僕たちはじっと画面を見つめて音楽を聴いていた。貴婦人風の女の人はすぐに席を立って劇場を後にした。やがてエンドロールも終わり、劇場に弱い明かりが灯った。ミカは体を仰け反らせて大きく伸びをした。

 「面白かった」とミカが言った。

 「うん」と僕は応えた。

 ミカは大きくあくびをした。今度はかみ殺しもしなかった。

 「なんか、明日バイトいきたくないなあ」とミカは言った。

 彼女がそんなことを言うのは初めてだった。

 「なんで?」

 「もう、クタクタで。オーナーは厳しいし、大学の課題もまだ残ってるし」

 それから何かが吹っ切れたみたいに、ミカはバイトや大学のことを何もかも話してくれた。彼女がいかに休む時間がないのかとか、バイトの仲間ともあまり上手くいっていないこととか、大学でも疲れすぎていて講義が頭に入らないとか。特にバイトのオーナーのことは聞けば聞くほどひどかった。彼女を無闇に酷使しているとしか思えなかった。

 「なんか、結局色々と愚痴っちゃいましたね」と言ってミカは笑った。

 「バイト、やめたほうがいいよ」

 僕が言うと、ミカは笑顔のまま首を横に振った。

 「やめるわけにはいかないんです。奨学金のお金を稼がなきゃいけないし、私がやめたら他の子にも迷惑なので」

 「でも」

 その先は何も思い浮かばなかった。何かを言わなきゃいけないはずなのに、思考が固まってしまった。

 「帰ろう?」と言って、ミカは席を立った。僕はやり場のない思いを抱えたまま彼女の後を追った。


 駅までミカを見送る途中、僕はもう一度「やっぱりやめたほうがいい」と言った。ミカは下を向いて微笑みながら、「考えてみます」と言った。とても静かな言い方だった。

 裏通りはほとんどの建物が明かりを落としていた。月も厚い雲に隠れて出ていない。白い電灯だけがずっと同じ間隔で並んで、アスファルトを冷たく照らしている。僕らは小さな恋のメロディについて話しながらその道を歩いた。ミカはダニエルの友達の男の子が好きだと言っていた。

 ひとしきり感想を言い合ってからは、しばらく沈黙が続いた。自然な沈黙だった。

 どこからか、悲しそうな犬の鳴き声が聞こえてきた。夜の風は涼しかった。

 「……たまに、周りが怖くなるときがあるんです」

 ミカが慎重に口を開いた。僕は何も言わずに彼女の話を聞いた。

 「周りの人達が皆、実は目に見えない電波みたいなもので通じ合っていて、揃って完璧な動きをしているような気がするんです」

 難しい話だった。でも何となく分かる気がした。僕にも、思い当たる節がないこともない。

 「そういう時、自分だけが遠くに置き去りになってるような気がするんです。……それが、たまにすごく、怖いんです」

 ミカは両手で自分の両腕を抱きかかえていた。僕は静かにミカの肩を手で押さえた。

 「……俺は今まで一度も電波で人と通じ合ったことなんて無いし、アキラやトラオも、多分皆そうだと思う」

 それが根本的な解決になっているのかどうかは自分でもよく分からなかった。だけどミカは「ありがとう」と言ってくれた。そして僕らは駅に到着した。人はほとんどいなかった。

 「また何かあったら言ってね」

 改札の向こうのミカに向かって声を掛けた。ミカはこっちを向いて、「はーい」と言って手を振った。僕も手を振り返した。僕がミカの元気な姿を見たのは、その夜が最後になった。

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