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スペア  作者: 玄侍
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2.カラオケ

 結局、この前のボウリングから次に集まるときまでかなりの間が空いてしまった。僕は大学で同時に出された四つもの面倒な課題をやっていて、普段に比べれば圧倒的に暇がなかった。大学の教授がたは他の講義でどれだけ課題が出ているかなんて知りもしないから、時に容赦なく何重にも被せてくる。おかげで僕らはずっと大変だ。

 だけどそれはまあ、別にたいした理由じゃない。その気になれば僕はいつだって遊びに行くし、そのせいで課題が徹夜になったって一向に構わなかった。僕はもともと、そういう優先順位のつけ方をして生きてきたのだ。理性的にスケジュールを組むのはどうにも性に合わない。今までずっとそうだったし、多分これからもそうだと思う。

 直接的な理由は、メンバーの暇がなかなか噛み合わなかったということだ。皆が暇なときに限ってアキラが正体不明の変な仕事で忙しかったり(詳細はいつ聞いても教えてもらえない)、トラオが好きなマイナーアイドルグループのコンサートに出向いていたりした。

 とりわけミカに関してはバイトと大学の課題が忙しいらしく、彼女の空いている日は貴重だった。ボウリング場のバイトが週に四日で入っていて、不定期に増えることもあるとミカは言っていた。ミカは僕と違って理性的に物事を片付けるタイプだったから、大学で出された課題も適当にこなすようなことはしなかった。あるいは「出来なかった」と言うべきかもしれない。

 夜勤を含む週四日かそれ以上のバイトの合間に、溜まったレポートや何かを完璧な形で片付けるなんて、サボりがちの僕にしてみれば想像を絶するような所業だ。

 ミカの空いている時間は日が経つごとに少なくなっていった。彼女は、「私はいいので、三人で遊んでください」というメッセージと一緒に、謝っているヒヨコのスタンプを送ってくれた。

 それじゃあ意味がないんだよと僕は内心思っていた。もともと男三人ならどこへだって遊びに行っている。カラオケだってボウリングだって、時間を潰せるところならどこへでも。だけどそれは、どちらかと言えば目的もなくただ街を徘徊しているのに近い。三人とも仲は良いけどそれだけだ。ミカがいるときとは時間の輝きがまるで違う。だけどもちろん、そんなことを本人に直接言うわけにはいかない。

 「また空いてたら教えてね」と僕は送った。「ムリはせず」とも付け加えた。ミカは「はーい!」と返信して、「はーい」と言いながら手を挙げているヒヨコのスタンプを押してくれた。ヒヨコの笑顔は元気いっぱいで丸っこくて、どことなくミカに似ていた。


 *


 街の歩道ってのはよく見ると汚い。鳥の糞がやたらに落ちている。ちぢれたタバコの吸い殻は人に踏まれて中身が散らばっているし、吐き捨てられたガムは靴底の模様をくっきり写し取って地面にこびり付いている。

 道路を挟んだ向かい側に、一軒の古本屋がある。僕はその古本屋の店先を遥か遠くの景色みたいに見つめている。

 角のマクドナルドから四人組の若い男達が出てきて古本屋の前で足を止めた。赤い髪の奴が適当に本棚の本を手に取って開いた。周りの仲間が一様にそれをのぞき込む。赤髪はロクに目も通さずに「わけわかんねえ」と言って乱暴に本を置き、仲間を引き連れてわざとらしいガニ股でどこかへ歩いていった。

 「青だぞ。二人ともハズレ」

 隣に立ってベーコンレタスバーガーを食べているアキラが言った。その直後、目の前の道路を水色の軽が通り過ぎていった。トラオはしゃがみ込んでパズドラをやっている。

 「あれ、俺さっきなんて言ったっけ」と僕は聞いた。古本屋のじいさんが何食わぬ顔で奥から出てきて本を元に戻していった。

 「白だよ」とアキラは言った。「んで、俺はグレー」

 「ああ……」

 僕は虚ろに空を見上げた。ここらは朝からずっと灰色の雲で覆われているのに、遠くの方には青空がのぞいている。電線に留まった鳩が白い糞を落としてまた一つ歩道を汚していった。ハンバーガーを食べ終えたアキラは丸めた包み紙をポケットに突っ込んで、不機嫌そうにため息を吐き出した。

 「トラオ。まだミカちゃん来ないのか」とアキラが言った。

 かれこれ三十分以上はこうして、潰れたコンビニのシャッターに三人揃って寄りかかっている。

 「大学終わったらすぐ来るって言ってたけど。自転車で」

 「お前が家から車で送ってやればいいじゃん」とアキラは言う。「免許持ってないよ」とトラオが訴えるように言った。

 「自転車じゃあ、ここまで結構遠いでしょ」と僕は言った。「大丈夫かな。ミカちゃん最近疲れてるんじゃないのか」とも聞いた。ずっと気になっていたことだ。

 「そういえば最近、あんまり話してないなあ」とトラオは言った。「帰ったらいつもバイトに出てるか、部屋にこもってるかだから」

 「ムリしてんじゃねーのか」と咎めるようにアキラが言う。かなあ、と言ってトラオはスマホをズボンのポケットに仕舞い、考え事をするように頬に拳を当てた。

 そのとき遠くから「おーい!」と声がした。あの芯の通った綺麗な声だ。見ると、ミカが自転車に跨って大きく手を振っていた。僕とアキラは大きく手を振り返した。トラオは立ち上がろうとして尻餅をついた。

 ミカは肩を上下させて何度も息をしていた。風でボサボサになったショートボブの前髪をだらんと垂らして、へばりながらもこちらに歩いてくる。僕は駆け寄って自転車を押してあげた。

 「大丈夫か?」とアキラが聞いた。ミカは顔を上げて「すごい疲れた」と言って笑った。その目元には、まるで誰かに殴られたように深い隈があった。僕もアキラも、何も言わずにミカの顔を見ていた。ミカは息を切らしながら「待たせてごめんね」と言った。


 受付には真面目そうなお姉さんが一人立っていた。面長で髪は黒く、しっかり者を前面に押し出している感じのお姉さんだった。

 「フリータイムのドリンクバー付きで」とアキラが慣れた調子で言った。はい、と受付のお姉さんは答えた。

 「学生様でしたら、お安くなりますが」

 「全員学生です」

 アキラは即座にそう答えた。僕はちらりと目をくれただけで何も言わなかった。ミカは少し笑っていた。トラオは携帯に目を落としていた。

 それから学生証の提示を求められて、僕らは各々の学生証をカウンターの上に乗せた。トラオだけは専門学校の学生証だった。情報系の専門学校だ。

 お姉さんは変な名前が気になったのか、僕の学生証だけ二度見していた。まあよくあることだ。

 「はい。お部屋は208号室になります。ごゆっくりどうぞ」

 やや無愛想にそう言って、お姉さんはドリンクのカップと伝票を手渡した。そして僕らは薄暗い照明の廊下を歩き、ドリンクバーでジュースを淹れた。

 「学生証、まだ持ってたんだ」

 僕はスプライトのボタンを押しながらアキラに向かって言った。アキラは淹れたばかりのコーラをその場で一気飲みしていた。

 「ああ。辞めた後も大学から返せって言われないし。持ってりゃ何かと便利だしな」

 そう言ってアキラは空になったカップにコーラを淹れ直した。僕はふーんと鼻を鳴らした。

 「コップ、そこじゃないですよ」

 「え?」

 見ると、真ん中に置いたカップの右隣でスプライトが蛇口みたいに垂れ流しになっていた。僕は慌ててカップの位置を直した。

 「ボタンが真ん中にあるのに」

 「ジュースが出るのは右だけなんですよ」

 そう言ってミカは笑った。他の二人はさっさと二階に上がっていく。

 「紛らわしいね」

 「そうでもないですよ」

 そうかなあ、と僕は思う。ミカはずっと笑っている。疲れ切った目元なんてまるで嘘みたいに。

 そんな彼女をじっと見過ぎていたあまりに、スプライトがちょっと溢れた。再び慌て出す僕を見て、ミカは一層可笑しそうに笑っていた。


 僕らが208号室に入るなり、いきなり大音量のシンセサウンドが鳴り出した。アキラが片手で耳を塞ぎながら面倒くさそうに手を伸ばしてつまみを捻る。トラオはマイク片手に立ち上がって、早くもカラオケモードに突入していた。僕はそれなりに気を遣って早足で画面の前を横切り、歌っているトラオの奥に腰を下ろした。ミカはそのまま扉の一番近くに座って白ぶどうのジュースを飲んでいた。

 画面にはキラキラした目のアニメキャラがたくさん映っていた。ずっと女の子しか出てこない。「わっ、出たな萌えアニメ」とミカが言った。トラオは完全に自分の世界に入ってアニソンを熱唱し始めた。太っているだけあって、腹の底から出る声は抜群だ。「輝きたいの」とか「大好きよ」とか、力強い歌声にはまるで似合わないフレーズばかりで聞いていて奇妙な気分になる。それを一点のためらいもなく全力で歌い上げてしまうのがこの男なのだと、僕は改めて感じた。これこそ久しく見ていなかった奴の本性だ。まさに生粋のオタクだ。

 これには流石に妹も辟易しているのではないかと思い目を向けてみれば、ミカは体でリズムを取りながらサビを口ずさんでいた。まさかと思った。アキラもそれに気がついた。

 「ミカちゃんこの曲知ってるの?」とアキラが訊いた。ミカはちょっと恥ずかしそうに笑って「はい」と言った。

 「お兄ちゃんの影響で」

 「アニメも見たの?」

 「たまたま見たら、たまたまハマっちゃったんです」

 言い訳みたいにミカはそう説明した。それから画面に向き直って、「けっこう面白いんですよ」と言った。アキラは全然興味なさそうにへえーと言った。僕も正直なところあまり興味は持てなかった。深夜アニメは割と見る方だけど、こういうのはあまり好きになれない。

 曲が終わって、採点に移行した。90点と表示され、皆はそれなりにその点数を賞賛した。当のトラオは納得がいかない様子だった。

 「もうちょっといけると思ったけどな」

 メロンソーダを口にしてトラオは呟いた。

 「十分じゃねえか」と言いながら、アキラがマイクを手に取って次に備えた。予約リストから夜景の映像に画面が切り替わり、B’zのイントロが流れ始める。アキラは肩を揺らしながら立ち上がった。

 「歌いにくいんだよなあ。金具のせいで」

 アキラの歌は出だしから完全に音が外れていた。画面に表示される音程のバーも全然噛み合っていない。高い音のときは上がりきらず、低い音のときは下がりきらない。まあ、はっきり言って音痴だ。何度も聞いてるから慣れたものだけど。

 もっともアキラ自身は全く気にしていない様子で、所々で稲葉の真似をしたりしながら気持ちよさそうに歌っていた。本人がそれで良いなら良いのだろう。ミカも素直に曲に乗ってリズムを取っている。トラオはパッドで次に歌う曲を黙々と探していた。

 アキラの採点画面は僕が速攻でスキップしてやったから、点数はわからない。いつのまにか出来た暗黙の了解みたいなものだ。アキラも気にせず、今歌ったばかりの曲をハミングしていた。

 「はい次私!」

 終わるや否や、ミカは待ち焦がれたようにマイクを持って立ち上がった。選曲は大塚愛のさくらんぼだった。古いといえば古い。でも好きな曲だ。

 アキラがいつか言っていた通り、ミカは本当に歌が上手かった。もともと声が綺麗だし声量もしっかりあるから、歌声に余裕がある。結構高い箇所だって顔色ひとつ変えずにやすやすと歌い上げていく。音程も意識していないのにほとんどパーフェクトだ。安定感があって、聴いていて気持ちが良い。

 「上手いだろ」とアキラが言った。なぜか自慢げだ。

 「ああ」と僕は答えた。「本当上手いね」

 トラオが終盤で合いの手を入れた。アイドルコンサートで磨かれた熱苦しいくらいの雄叫びだ。ミカは笑いまじりになって最後のサビを歌い上げた。曲が終わると自然に拍手が起こった。

 採点結果は96点だった。見たことがない高得点だ。ミカはガッツポーズをとって座り、火照った頬に手で風を送っていた。歌っているうちに熱くなったのか照れていたのかはわからないけど、たぶんその両方だと思う。

 「すごいねミカちゃん」と僕は心から賞賛した。「いえいえ」とミカは一応謙遜していたけど、誇らしげな表情が全然隠せていなかった。


 その後ミカは「トイレいってきます」と言ってトイレに行った。わざわざ言わなくてもと思ったけど、彼女なら仕方ないとも思えた。それから僕の順番が来て、ロビンソンのイントロが流れ出した。僕は座ったままロビンソンを歌った。

 ミカが戻ってきたのは随分後だった。ちょうどロビンソンの終わり頃だ。僕が最後の「ルララ」を歌った辺りで、申し訳なさそうに彼女は戻ってきた。さっきよりも顔が痩せている気がした。顔色も心なしか良くない。

 「大丈夫?」と僕は訊いた。「あ、大丈夫です」とミカは答えた。採点は85点だった。

 その後三時間くらいカラオケは続いたけど、ミカはさっきほどの調子が出なかった。声量も落ちて、高い声は出しづらそうだった。僕らは何度か心配したけど、その度にミカは笑って、大丈夫ですよと答えた。心配しても逆に気を遣わせているような気がして、そのうち僕らは何も言わなくなった。ミカはウトウトし出して、途中から横になって眠ってしまった。

 「あんまりうるさいのはよそう」と僕は言った。他の二人も賛同して、そこからはバラード調の静かな曲が続いた。


 次にミカが目を覚ましたのは、僕がオアシスのStop Crying Your Heart Outを歌っている最中だった。最後のサビを歌っているときだ。歌い終わって気がつくと、ミカは起き上がって小さく拍手してくれていた。

 「これ、聞いたことあります」とミカは言った。

 「オアシス知ってる?」と僕は訊く。

 するとミカはかぶりを振って、あんまり知りませんと答えた。

 「でも、映画で聞いたことあるんです」

 「バタフライ・エフェクト?」

 「そう!それ」

 確かにこの曲はバタフライ・エフェクト一作目のエンディングテーマだ。それも映画の締めくくりとして、結構印象的な使われ方をしていた。

 「あの映画面白いですよね」

 「うん。あれはけっこう面白かった。良い映画知ってるね」

 「映画好きなんですよ」

 それから先はロクに歌わずに、ずっと映画の話ばかりしていた。アキラとトラオもすっかり歌い疲れたようで曲は入れなかった。

 ミカは予想以上にいろんな映画や監督の名前を知っていた。クリストファー・ノーランやデヴィッド・フィンチャーはほとんど観ていたし、ウェス・アンダーソンの映画は全部大好きとも言っていた。映画好きの僕ですらムーンライズ・キングダムとグランド・ブダペスト・ホテルしか観たことがない。

 「ファイト・クラブなら五、六回は観たぞ」とアキラが話に乗ってきた。アキラのファイト・クラブの話と北野映画の話ならもう何十回かは聞かされている。トラオはアニメ映画ならけっこうマニアックなところまで知っているが、残念ながらアニメ映画の話が出てくる様子はなく、一人でスマホをいじっていた。


 支払いのときに受付にいたのもさっきと同じお姉さんだった。アキラが率先して全額払い、後から他の皆が代金を手渡した。ミカは計算に少し戸惑っていた。アキラは適当で良いよと言った。実を言えば僕も適当だった。

 前回に比べて、外はまだ明るい方だった。時刻はもうすぐ六時になる辺り。ミカとトラオは揃って自転車帰りだ。

 「わ、駐輪禁止だって」とミカが言った。

 僕は歩み寄って、自転車のハンドルに巻かれた黄色い紙切れをべりっと引きちぎった。

 「これでよし」

 ミカは笑ってキーを回し、スタンドを蹴って自転車を引いた。トラオはもうサドルに跨っていた。

 「帰り大丈夫?」と僕は訊いた。

 「平気。熟睡したから」とミカは言った。目の隈は消えていなかった。

 「今度一緒に映画観に行きましょう」

 「うん」

 兄妹は大きく手を振りながら漕ぎ出していった。僕とアキラは大きく手を振りながら見送った。それから僕らは原付を置いた駐車場まで歩いた。

 「何お前、デートすんの?」とアキラが言った。僕は鼻で笑って否定した。

 「違うよ。二人きりって決まったわけじゃないし」

 「でも、映画の趣味合うのお前らだけじゃん」

 確かにそれもそうだ、と僕は思った。それにどうせ行くなら、流行りの大作よりも良い映画を観に行きたい。ちょうどどこかの古い映画館でリバイバル上映されているような。

 「やっぱ、二人きりかも」

 駐車場でヘルメットを着けながら僕は言った。アキラはもう原付に跨ってエンジンを掛けていた。

 「勝手にしろよ」と言って、アキラは軽く笑った。親父の笑い方にどことなく似ていた。偉そうだけど、嫌味がない。アキラは一足先にスロットルを回して、薄暗い駐車場から走り去っていった。

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