1.ボウリング
「やった!ストライク!私すごい!」
シューズを履き替えながらアキラ達のいるレーンを見てみたら、知らない女の子が一緒にプレーしていた。黒とピンクのウインドブレーカーを上下に着込んだりしてやる気満々な見た目だ。ストライクを取ったのがよっぽど嬉しいのか、胸の前で小さく拍手をしながら飛び跳ねている。10メートル程度は距離があるし周りの音もガヤガヤうるさいのに、ここにいてもしっかりと歓喜の声が耳に届く。けっこうデカい声だ。だけど同世代の女の子達によくある甲高いキンキンとした響きはなくて、芯が通った綺麗な声だった。
アキラはいつになく楽しそうな笑顔で立ち上がってハイタッチに応じている。奥の席に座ってストローでジュースを飲んでいたトラオも慌てて立ち上がり、控えめに両手を差し出した。その手のひらにあの子が全力でハイタッチをかまし、バランスを崩したトラオがケツから椅子にどっかり倒れる。まるで押し相撲みたいだ。彼女は口に手を当ててあらまと驚いた後、あたふたとトラオの肩に手を置いて声を掛けていた。トラオのやつは嬉しそうにニヤニヤしていやがる。
なんだか僕が来るよりも先に、すっかり良い雰囲気が出来上がっているようだ。これじゃあなんとなく行きづらい。というかそもそも、あの子はいったいどこの誰なんだろう。アキラが彼女欲しさについにナンパをしだしたのだろうか。
レーンに歩み寄り、出来るかぎり動揺を隠しながら「おーす」と声を掛ける。どれだけいつもの調子が保てていたのかは自分でも分からない。アキラが何ともなさげに「よう」と返事をして、トラオも太くて頼りなさそうな声で「ウス」と言う。この二人になんて目をくれている暇はない。明らかに異質な存在が目の前にいるのだ。もちろん良い意味で。
女の子的な空気を全身にまとった小柄な女の子が一人、浮かない男どもと一緒にその場にいる。来るべき場所を間違ったみたいに。
髪はふんわりとした栗色のショートボブ。ウインドブレーカーまで心なしかオシャレに見えてしまうから不思議だ。僕は「なんだよ、この子」という意味を含めた視線を男二人に向けて送った。トラオはちょっと気まずそうに目を背けたりしているが、アキラに至っては全く気がつかないようで平然としている。この男は往々にして鈍感なのだ。
彼女は小さく頭を下げながら「ども」と挨拶をして、ミカっていいます、と名乗った。僕も同じくらい小さく頭を下げて「ええと」と少し迷ってから、「レクって呼んでください」と言った。「みんなそう呼んでいるので」
「レク?」と彼女は大きめに首を傾げる。当然の反応だ。これだから僕は自己紹介をするのが嫌いなのだ。この後はどう丁寧にクッションを置いて説明しても、笑われるか気の毒な人間と思われてしまうのがオチだ。まあ、気の毒なのは間違いないんだけど。
「レクイエムって言うんだよ。こいつの名前。鎮めるに、魂に歌って書いてレクイエム。笑えるよな」
僕がなんといったものか迷っている間に、横からアキラがずけずけと説明してきた。僕はその場から目を背けて短くため息をついた。
親父のガラの悪い顔と似合わない金髪が頭に浮かんできた。そう悪い人間じゃないが、こればっかりはあいつのセンスのなさを恨まざるを得ない。おまけに母さんも似たようなものだから、バカな命名を止める人間など誰もいなかったのだ。親父はその後、自分の父からこっぴどく叱られたらしいけど。
「レクイエム?なにそれかっこいい!アメリカ人みたい!」
ミカは手を合わせてそう言った。
僕は驚いて彼女の目を見つめ返した。笑顔がよく馴染んだ目をしていた。
反応に困って「かっこいい名前だね」と答える人は過去にもいくらかいたけど、そういう感じとはまるで違っていた。いかにも本気らしい言い方だ。それは全く今までにない反応だった。こっちが逆に動揺させられるのも初めてだ。
「え?……でも、ほら、めちゃくちゃ縁起悪いしさ。レクイエムって何か知ってる?」と僕が解説しようとしたところで、アキラがマアマアと割って入ってきた。
「なんでも良いだろ。かっこいいんだから」
そう言って軽く流されてしまった。どうやら彼は早くボウリングを再開したいらしい。
生まれて初めての好反応にかなりの衝撃を受けてしまった僕は、呆然と彼女の横顔を見つめ続けていた。彼女はボールを持ってさっそうとレーンに向かっていくアキラを、両手でメガホンを作りながら応援している。
なんだろう、この子は。どうしてこんなところにいるんだろう。
そんな疑問が、さっきまでとはまるで違った質を帯びて再び頭に去来してきた。まるで一人きりの夜道で出会った猫みたいに、どうしてもその横顔から目を離すことができなかった。
急に周りがスローモーションになったように感じた。カメラの焦点を合わせたみたいに彼女の顔だけがくっきりと見えて、他は何もかもがぼやけていた。あれだけ騒々しかった音もなぜか遠のいて、水の中みたいにこもっている。はっきりと聞こえるのは、彼女の芯の通った真っすぐな声だけだ。それはとても不思議な時間だった。
「変わってるでしょ」
いきなり右の耳に湿った吐息が入って背筋が寒くなった。横を向くと、トラオのデカい顔面が目の前にあった。
「ゾッとするような耳打ちはやめろよ」と始めに言っておき、僕は一番気になることをトラオに尋ねた。
「それで、この子どうしたんだ」
するとトラオはさも意外そうに目を見開いて、タラコ唇を丸く尖らせた。
「あれ?レク、知らないっけ?」
その言い方から察するに、けっこう前からの知り合いということになるだろう。それもこの三人の中じゃ僕だけが知らないらしい。
だとすればやはり、アキラの彼女と断定して間違いなさそうだ。現にあの子はあんなにも大きな声でアキラに熱い声援を送っているのだから。
「俺の妹だよ」とトラオが真顔で言った。僕は「え?」と聞き返す。
「え?」
トラオの顔を見返してもう一度言った。途端にトラオは不服そうに表情を曇らせた。
「いや、え?じゃなくて。だって、見れば分かるでしょうよ」
見て分かるわけがない。僕は混乱しつつもミカとトラオの顔を交互に見比べてみたが、どこにも似ている要素が見当たらなかった。
「よく見てよ。眉毛とかそっくりじゃん」
トラオはなぜか焦ったようにそう説明する。言われてみれば、眉毛が太めな点についてはミカもトラオも同じだった。だけどミカの方は綺麗に揃っているのに対してトラオはどちらかというとゲジゲジで、共通点と言うにはいささか抵抗がある。
「他には?」と訊くと、トラオは何か言いたげに口をモゴモゴして言葉に詰まってしまった。他には特に思いつかないらしい。
「……まあとにかく、妹なわけよ。なあミカ」
トラオが変に明るく声を掛けると、ミカが半分だけ振り向いて「え?うん」と言った。にわかには信じ難い現象だ。
「知らなかったんですか?」とミカが問う。
「全然知らなかった」と僕は答えた。
しかしながら納得がいかないのは、さっきシューズを履き替えながら見たあの局面だ。ハイタッチで椅子に押し倒された後、彼女に介抱されながらトラオは確かにニヤけていた。あの反応は一体なんだったというのか。
「いや、別に……それはそれじゃない」とトラオは言う。
「そういうもんなの?」と僕が問う。
「そういうもんでしょ」とトラオは言った。どんどん声が小さくなっていく。
背中でその話を聞いていたミカが突然パッと振り向いた。ずっと声を上げて応援していたはずなのに。地獄耳とかいうやつだろうか。
「なんの話してるの?」と笑顔のミカが言った。
「いや、なんでもないよ」とトラオが手を振りながら慌てている。なぜか僕まで一緒に慌ててしまった。
僕には姉妹どころか兄弟もいないけど、案外そういうものなのかもしれないなと思った。
アキラは一投目で8本のピンを倒し、二投目に格好つけてカーブを効かせた球をガターに沈めて戻って来た。代わってミカがオレンジのボールを手に取り意気揚々とレーンに向かっていく。
投げると思いきや、急にくるりと向きを変えて足早に戻ってきた。それからミカはボールのストックの側にあるエアーで入念に手を乾かし始めた。利き手の右を乾かし、ボールを持ち替えて左を乾かし、もう一度右手を乾かす。
「あれって意味あるのかな」と僕は独り言のように言った。知らん、とアキラが返した。さっきの投球に納得がいかないのか、どこか投げやりだった。トラオはスマホに目を落としてパズドラに熱中している。
「おまじないだよ。おまじない」とミカがこっちを向いて言った。
まさか聞こえているとは思わなくて、僕は小さく椅子にのけぞった。
「あの子はすごく耳がいい」と僕は呟いた。「超能力みたいだな」
「超能力だよ」
レーンの前に立ってボールを構えたミカが首だけ振り向いて笑った。本当に耳が良い。
ミカはレーンから一歩、二歩と退き、ボールに左手を添え、肩で大きく深呼吸した。それから大股で一気に二歩前へ踏み出し、腰を低くして振りかぶった右手のボールを勢いよくリリースする。狙いは真ん中よりも少し右め。最もストライクを狙いやすいスポットだ。
ボールは勢いを落とさずピンとピンの間めがけて直進し、見事に狙い通りの位置にヒットした。それと同時にストライクを確信したミカが両手でガッツポーズを作る。
しかし最後に転がったピンが残りの一つにわずかに届かず、左の最奥に一本残ってしまった。
「あーあー」とアキラが言った。「こりゃダメだな」
アキラの横顔は困ったように笑っていた。手のつけられない子どもを前にしたような表情だ。トラオもスマホから顔を上げて同じような顔をしている。僕は何がダメなのか尋ねた。
「あいつ、残り1本になると絶対に逃すんだよ。変に緊張しちゃって」とアキラは同じ表情のまま言った。歯の矯正器具が口の端で光っている。
「じゃあ、リラックスして投げればいい」
「それはそれで失敗するから、どうしようもないんだよね」とトラオが哀れそうに言う。
ミカががっくり肩を落として次のボールを取りに来た。自然とアヒル口が出来上がっている。
「超能力だよ」と僕が声をかける。ミカは浮かない顔をボールに落としたまま「念力は使えません」と言った。
「ていうか別に、超能力とかないし」
ミカはすっかり不貞腐れていた。見かねたアキラが「よっしゃ」と声を上げて立ち上がり、両手をブラブラさせながらボールに向かった。
「俺が投げよう」とアキラは言う。それじゃあ意味がないんじゃないかと僕は思った。そう言おうともしたけど、ミカは笑顔だった。
「お願いします!」
「任せとけ」
そう言ってアキラは自信満々にレーンの前に立つ。なんだか外しそうだな、と僕は思った。
アキラは半身でボールを胸に構え、一呼吸置いて堂々のストレートを放った。
ボールは勢いを保ったまま真っ直ぐに最後の一ピンへと向かっていったが、あと少しのところで左側に逸れて、あえなくガターに落ちていった。
「あちゃー」とアキラが頭を掻く。「ごめん、ミカちゃん」
「おしい!」とミカは本当に惜しそうな顔で言った。
それから僕らは10ゲーム続けてやった。その中でミカは8回も一ピンを逃した。僕ら三人は交代でミカの為にボールを投げたけど、なぜかミカの代わりで投げたときだけはどうしても上手くいかなかった。
わざとじゃないんだよと僕は弁明した。ミカは笑って、分かってますよと答えた。アキラはミカのスペアを取るためだけに意地になってゲームを続けた。
最後の一回はミカが自分で投げた。自分でやりたいと彼女が言ったのだ。その姿は、他のときにも増して真剣そのものだった。
だけど必要以上に力んでしまったせいか、ボールはレーンの中ほどで早くもガターに落ちてしまった。皆は一様にため息をついた。
振り返ったミカはちょっと笑いながら、やっぱりダメだなあ、と言った。その顔はすごく残念そうに見えた。
「なんか、呪われてるんですかね」とシューズを脱ぎながらミカは言った。
「かもなあ」とアキラが笑う。彼も代わりをことごとく失敗したのが心残りな様子だ。
「だとしたら、幸先悪いなあ」とミカは呟いた。僕はサイズが微妙に小さくてキツかったシューズを棚に仕舞いながら、「何のこと?」と訊いた。
「私、これからバイトするんですよ。ここで」とミカは答えた。
「このボウリング場で?」
「そう」
それを横で聞いていたトラオはびっくりして手に持ったシューズを片方床に落とした。
「そうだったの?」とトラオは丸い目をしている。
「そう。言ってなかったっけ」とミカは平然としていた。兄に対する口調はいつもと違って少しドライだった。僕は思わず笑ってしまった。
外は完全に夜だった。携帯を取り出して時刻を確認すると、もう十時をとっくに過ぎていた。
「こんな時間までやってるんだね」と僕は言った。
「月曜以外は一晩中やってるよ。ボウリング場なんてそんなもんだろ」と遠くの夜空を見ながらアキラが答えた。そんなものかと僕は思った。
「じゃあミカ大変じゃん」と、さっきからずっと動揺し続けているトラオが言った。「夜中までやるの?」
「わかんないけど、まあ大丈夫でしょ」とうるさそうにミカは答えた。
帰りはアキラが黒のボックスワゴンで家まで送ってくれた。
ミカとトラオは揃って先に降ろされた。また一緒に遊んでもいいですか?とミカは言っていた。アキラはもちろん、と答えて手を振り、ウィンドウを閉めて発進した。そして車内は僕とアキラだけになった。
僕は後部座席の左端で頬杖をつきながら、ずっと窓の外の景色を眺めていた。
「……なあ。次集まるなら、カラオケにしようぜ」と赤信号でアキラが言った。慎重にタイミングを見計らったような言い方だった。
「ミカちゃん、すげえ歌上手いんだよ」とアキラは付け加えた。
ボウリングは当分やめておこうということだろう。僕もまったく同じ思いだった。
「うん」と、僕は遠くの山を見ながら答えた。山は夜の闇に溶けて黒くのっぺりとしていた。そろそろ家が近い。
「でも、トラオに妹がいたとは驚いたよ」と僕は言った。「確かアキラの家にもいたよね」
「まあいるっちゃいるけど、あんな良い子じゃねーしな」と笑い交じりにアキラは言った。僕は「ふーん」と鼻を鳴らした。
「そういうもんなの?」と僕は尋ねた。
「そういうもんだろ」とアキラは言った。
それと同時くらいに車が止まった。気がつけばもう家の目の前だった。
「着いたぞ」
アキラは缶コーヒーを口に運んで深く息をもらした。
「それじゃ、また四人で遊ぼう」
そう言って僕はワゴンのドアをスライドした。
「ああ。じゃあな」とアキラが手を挙げる。僕は「じゃあね」と言ってドアを閉めた。
テールランプの光を残して、ボックスワゴンは夜の闇に混ざっていく。僕は無意識にミカの顔を思い浮かべていた。
——やっぱりダメだなあ。
久し振りに楽しんだはずの一日は、ささやかな苦みとともに終わっていった。