プロローグ
スペア
屋上には夜の風が吹いている。冷たくも、熱くもない。涼しくも、温かくもない風。意味のない世界の彼方からやってきて、意味もなく僕の頬を撫ぜて、意味のない世界の果てへと吹いていく、意味のない風。これから僕らがやろうとしていることと一緒だ。
街にはほとんど光がなかった。パチンコ屋やラブホテルの派手な電飾看板と、小さなビルのオフィスの明りがちらほら見えるだけだ。あそこに残った社員達はみんな、体をおかしくしながら忙しく働いているのだろうか。こんな草木も眠る真夜中だって言うのに、全くひどい話である。
人はどうしてこんなにも、一人の手に負えないようなことばかり強いられてしまうんだろう。彼らが一体何をしたって言うんだろう。彼らは一体何を望んで、何のために心や身体を壊していくんだろう。因果関係は?ただ運が悪かったのか?
それはいくら頭を捻って考えてみても仕方がない。なぜなら、その理由はどこにもないからだ。
世の中は不条理に満ちている。いや理不尽か。違いはよく分からないけど、とにかくそのどちらか一方か、もしくはその両方が、この世のありとあらゆる「出来事」とか「運命」とかいったパズルのピースをひょいと指でつまみ上げて、間違った場所に無理やり嵌め込んでいるのだ。何も考えずに、力づくで。
哀れなピース達は互いに近くの相手を押し合い、歪めて、歪んで、使い物にならなくなってしまう。本来あるべきだったはずの場所にも嵌らなくなってしまう。そうなればもう、暗い押し入れの片隅で永遠に忘れ去られたり、埃っぽいソファやベッドの下で外の光も浴びられないまま一生を終えるより他ないのだ。
僕らは今夜、そういう不条理だか理不尽だかを新たに生み出してのうのうと生きている一人のアホに、不条理だか理不尽だかで対抗するためにここまでやって来た。
仲間は僕も含めて三人。一人は同じく屋上にいて、ボストンバッグから小型の溶接機やら溶接用のマスクやらを取り出している最中だ。あとの一人は地上にいる。駐車場の自販機の陰から邪魔が入らないように周りを見張っているらしい。作戦を聞いただけだから詳細なことはよく知らないが、とにかくまあ、そういうことになっている。
「なあ。もうとっくに準備出来てるぞ。レク」
後ろから聞き慣れた低い声が飛んできた。振り向くと、両手に溶接機を持ったアキラが悪戯っぽく笑っている。矯正器具が丸見えのチャーミングな笑顔だ。
「いつまでも黄昏てねえで、早く受け取れ」
僕は目元まで隠れる黒いパーカーのフードをまくって、遠くのリモコンを取るみたいにそれを受け取った。これだけでも肩の辺りが結構キツくて、思わず呻いてしまった。完全に運動不足だ。
溶接機は黄色くて、小さな箱みたいな形をしていた。そっちが本体だ。そこから灰色の管が延びて、先っぽの拳銃みたいな形の器具に繋がっている。
「かっこいいだろ。けっこう」
アキラが自慢げに言う。それについては僕は特に何も言わなかった。それよりも、溶接機を差し出した時に、アキラの耳元で一瞬光った小さな何かの方が僕の注意を引いた。
「なんか着けてる?耳」
「ああ、これ。イヤホン。音楽聴いてる。ミスチル」
「あ、そう」
呑気なもんだ。なんだか余計に脱力感が増してしまった。
僕は死んだ眼差しを再び手元の溶接機に落とした。試しに本体の電源を入れて、トリガーを引いてみる。ジジジといういかにも危険そうな音とともに、銃の先端が眩しく光った。
「うお」
夜目にあまりにも強い光だったので思わず目がくらみ、僕は慌てて手に持ったそれを放り投げてしまった。
「おいおい、気をつけろよ。ちゃんとマスク着けてからやれ」
そう言ってアキラは鉄のマスクを差し出した。顔を丸ごと隠せる大きさだ。目の部分に光を遮断する四角いグラスが嵌っていて、アゴのところに取っ手がついている。
「準備オーケーだね」と僕は言った。アキラは顔の前にマスクを構えて親指を立てた。マスクに阻まれてその表情は読み取れないが、多分ニヤリと笑っているのだろう。
アキラは腰に着けたホルダーからトランシーバーを取り出して、刑事モノのドラマみたいにそれを口元に寄せた。
「あー、こちらアキラ。応答せよ」
スピーカーから漏れる音がザーザーとうるさい。僕は顔をしかめて声を掛けた。
「ねえ」
「なんだ?」
「携帯でよくない?」
アキラは何か答えかけたが、そのそき丁度地上からの通信が入ってしまったので慌ててトランシーバーを構え直した。
「あいあい、こちらアキラ」
『おいすー。えー、見たところ、周りに人はいないんで、今なら大丈夫ですよー』
トラオの太い声がスピーカー越しによく聞こえてくる。ノイズが酷いものの、二メートル以上離れたこの位置からでも十分に会話が聞き取れた。
「本当か?もう一度ちゃんと確認しろ」
『ああ。はいよー』
そしてしばらく通信が途絶えた。その間僕は屋上の端から身を乗り出して駐車場を見下ろしてみたけど、辺りに電灯が少ないせいか、そこはほとんど暗闇に近かった。目を凝らしてみても車の影の形しか見えない。
「どうせなにも見えねえだろ。危ないからやめとけ」
いつになく厳しい声でアキラが言った。僕は諦めて元の位置に戻った。
『あー、アキラ聞こえる?やっぱり誰もいないよ。まあ、もうこんな時間だしね』
アキラがこちらに目配せする。僕は黙ってうなずいた。
「わかったわかった。それじゃあ、これから作戦を開始する。もしも何かあったらすぐに伝えろよ。いいな?以上」
そう言ってアキラはトランシーバーをホルダーに仕舞った。
「ま、こっちの方が気分出るだろ」
さっきの質問にさらりとそう答え、アキラは溶接機のスイッチを入れた。僕も電源を入れて、右手でマスクを構えた。あとは焼き切るだけだ。
「じゃあ、始めるぞ。出来るだけ手早く済ませよ」
マスク越しのくぐもった声。そのテンションはいつもとあまり変わらない。
「うん」
トリガーを引いて、赤黒く錆びた鉄の支柱に先端の光を押し当てる。途端に甲高い悲鳴のような音が鳴り響き、大量の火花が辺りに飛び散った。
始めに言ったように、僕らのやっていることに確かな意味なんてありはしない。「復讐」なんて大それた代物でもないだろう。それは言うなればただの仕返し。もっと砕けた言い方をすれば、ただのタチが悪いイタズラだ。
だけど。
だけど、事ここに至るまでの経緯をあえて誰かに話すとすれば、ある一人の可哀想な仲間の話を欠かすことは出来ない。同時に、彼女がいかに人に傷つけられて、彼女がいかに人を傷つけなかったのかということも。
全てのキッカケはボウリング場だった。だからきっと、その物語もボウリング場から始まる。