三
キョロキョロと辺りを見回した彬は、暫し呆然としてからポリポリと頬を掻いた。
「いやぁ…」
――ここ、どこ?
だいぶ前に聞いた、俊介の墓の場所はこの辺だった筈だ。先祖代々の墓だからどーのこーのと、確かおばさんが言っていた。
「人に訊くにしても『墓場どこ?』って訊いて判るモンなのかなぁ? ケータイも教室に忘れてきたし、どーすりゃいいんだ」
大通りを歩いていた彬は、溜め息をついてガードレールに腰掛けた。大通りの名を看板で確認して「やっぱこの辺だよなぁ」と一人呟く。
「どーすっかなぁ。放課後までには、戻るつもりだったのに」
このままでは間に合いそうにない。
透き通るような蒼い空に、吸い込まれそうな感覚を覚える。目を閉じて小さく笑みを零すと、首を傾げた。
「いや。心配してるなんて、かわいいモンじゃねぇか。きっと怒り狂ってるんだろうなぁ、特にヒデは。あいつ、けっこう心配性だし。んで、相沢は」
――あいつは、どうしてるだろう。
やはり依憑を叶える為に、気を揉んでいるのだろうか。
「だったらあいつのアセッてる表情、ちょっと見てみてぇなぁ」
楽しそうに呟いて、そっと目を開ける。視界に広がる蒼い空は、やさしく自分を包み込んでくれているような気がした。
――『知ってる? あの世へ逝く路っていうのは、この世の道とかわらないんだ』
いつかの、隆哉の台詞を思い出す。あの時は「へぇ」ぐらいにしか思わなかった。だが今なら、少しは現実味を帯びた言葉として耳にも残るだろう。
「でも俺は、出来りゃこんな蒼の中を逝きてぇなぁ。風が吹いて、きっと気持ちいいんだろうな……」
ぼんやりと誰にともなく告げて、彬はクスリと笑った。
「俺が頼んでも、あいつは聞いてくれねぇよなぁ。死んだ奴の依憑しか聞かねぇんだもん。いや、脅されてしてるっつってたから、脅しつけりゃなんとかなるか」
ガードレールから腰を持ち上げ、再度腕時計を確認して歩き出す。
「その為には、死ぬまでにもう一度、あいつに会わねーと」
――楽しかったな、なんて思う。
短い間だったけど、あいつとはたくさんの時間を一緒に過ごした気がする。
足を絡めた事から始まって、俊介を蹴った時には、びっくりする程あいつに怒られた。ヒデの後ろの女の子の時には、彼女の正体を探るのに三人で大騒ぎして、冬樹さんやムカつくバカ刑事とも知り合いになれた。
今までなら知る事のなかった他人の愛情に触れて、これから十字架を背負いながら、子の親になろうとする男の苦しみを知った。
ふいに。
これからも隆哉の隣にいる自分を思い描いて、彬は思わず笑みを零していた。
それこそ、夢物語のようだった。きっと、この後眠りにつく自分が見る夢に違いない。そう思って、笑い続けた。
大通り沿いを歩いていた彬は、「そういや、どっかの脇道に入ってどうとかって言ってなかったか?」と思い出し、目についた角を曲がった。そうして暫く歩いて、ふと立ち止まった。
「――で。ここ、どこ?」
もう何度も呟いた言葉を口にする。
大通りを外れて進んだ先。そこには車線はあるが人通りも車の通りも少ない何処か不自然な道が、只真っ直ぐと伸びていた。キョロキョロと周りを見回しながら、歩く。
「ちょっと外れただけで、なんでこんな場所に出るんだ?」
新しい家々が、閑散と立ち並んでいる。空き地も多い。新興住宅地とでも言うのだろうか。紺色のアスファルトもそこに引かれた白い車線も、やけに真新しく見えた。
ふと見ると、誰もいない道路の向こう側。
イギリスにでもありそうな小洒落た街灯の下に、小さな三毛猫がチョコンと座っている。足を止めた彬に視線を向けると、「ミャー」と子猫特有の甘えた声で鳴いた。
「どーした? こんなトコで何してる?」
問いに答えるように、「ミャー」と鳴く。肩を竦めて歩き出そうとした彬に、子猫はもう一度「ミャー」と鳴いた。
「もしかして。呼んでんのか、俺の事?」
角度を変えた所為で、子猫の瞳が妖しく光る。「ミャーゥゥ」と肯定するように間延びした声で鳴くと、子猫はジッと彬を見つめた。
「なんだよ、なんだよ。俺を呼びつけるなんて、十年早ぇよ。お前に道訊いても、判んねぇだろうしよ」
ガリガリと頭を掻いて、彬は子猫の方へと足を踏み出した。
子猫の瞳が、傾き始めた陽の光を受けてもう一度光る。彬はその瞳に引き込まれるようにして、道路を横切った。
それは、あまりに『唐突』だった。
その瞬間まで、まったく気付かなかった。気付いた時には、車はもう間近へと迫っていた。
――スローモーション。
驚く運転手の顔が、向き直った正面に見える。彼もまた、今の今まで彬の姿が見えていなかったに違いない。
慌ててブレーキを踏んでいるだろうその姿は、不思議とゆっくりな映像として彬の瞳に飛び込んできた。
――キキャキャキャキッ、キキッ!
まるで悲鳴のようなブレーキの音が、辺り一帯に響きわたる。
「彬ッ!」
ブレーキ音に紛れて、鋭い声が耳に届いた。
――この声!
振り返った彬は、そこに予想通りの『親友』の姿を見止め、思わず顔をほころばせていた。
チェッ。もう迎えに来やがった。俺の方から、行ってやろうと思ってたのによ。
笑って、彬は親友へと手を差し伸べた。
「……俊介」
想いを込めて呟いた彬に、必死の形相の俊介が駆け寄って来る。
「あきらァ!」
彬の差し出した手を強い力で引き寄せた俊介は、もう一方の手で彬の頭を抱え込み、地面を蹴った。
――こいつ、こんなに背ぇ高かったっけか?
緊張感なくのんびりと悠長な事を考えた彬は、「まあ、いっか」と瞼を閉じた。
ドンッ!
大きな衝撃音が、辺りに響く。
「えっ……?」
それ相応の衝撃を覚悟していた彬は、驚いて瞼を開けた。ワンテンポ遅れて、別の衝撃が体を襲う。
「いッ…ツ!」
彬の体は車には当たらず、ゴロゴロと俊介と共に脇の歩道を転がっていた。
「えっ、うそッ!」
ガッと手をついて体を起こした彬は、自分の体の下敷きになっている俊介の姿を見下ろし、目を剥いた。
「なん…で、お前がッ!」
彬の声に、ゆっくりと相手の瞼が開けられる。虚ろな瞳で彬を見上げた隆哉は、いつもの低い声で呟いた。
「取り敢えず、重いんだけど」
「つーか……、なん…で?」
力が、抜ける。
ガックリと頭を垂れた彬は、俯いたままゴツンと隆哉の胸に拳を叩き付けた。
「バッカヤロ、相沢。お前って、無茶する……」
――俺、死のうとしてたのに……。
「……バカ、ヤロ」
――どうして。
どうして今更、嬉しく思ったりするんだ。こいつの顔、見ただけで……。
「酷い言われようだね、怪我までしてあんたを庇ったのに」
よいしょ、と彬を脇へと押し遣って手の甲を振ってみせる。涙が零れそうになった彬は、膝を抱え込むように座って顔を埋めた。
「大丈夫なのか?」
「まあ、大した事はないんだけどね」
血の滴る手を舐める隆哉に、彬が膝に顔を乗せて苦笑した。
「俺と、心中でもする気だったのかよ?」
「んー…。――それもいいかなって、思ったのは確かなんだけどねぇ」
膝に肘をついて頬を支えた隆哉は、クイッと顎をしゃくって道路を示した。そこには今しがたぶつかりかけた車の運転手と秀行が、何やら話し込んでいた。
「彼を巻き込むのも、ややこしそうだったから」
隆哉の呟きに、「同感」と笑う。若い運転手から何かを受け取り車を見送った秀行が、こちらに顔を向けて微笑んだ。近付いて来ると、運転手から預かった名刺を彬に差し出す。
「気の毒に……。免許取りたてだよ、あのおにーさん。何かあったら連絡くれってさ」
「気の毒なのは俺じゃなく、運転手なのかよ。俺なんか、轢かれかけたのに」
「当然。自殺願望の奴を轢いた運転手程、気の毒な人はいないからね」
秀行の厭味混じりの台詞に、彬が肩を竦める。
「そーかい。そりゃ気の毒にな」
言った彬の頭に、ゴツンッと何かが当たった。
「いっ…て……!」
頭を抱え込んだ彬は、一瞬何が起こったのか理解出来なかった。隣を見ると、拳を握った隆哉が鋭く自分を睨みつけている。
「なっに、すんだよッ!」
「馬鹿か、お前は。お前が死んでりゃ、『気の毒なおにーさん』どころの話じゃ済まなねぇんだぞ。俺の太腿に一生、見苦しい痣残すつもりか」
「へっ?」
「へっ? じゃねぇ!」
腕を組んだ隆哉が凄い形相で見下ろしてくる。再びあの、『心』とやらが蘇ったらしい。
――どーせなら、楽しい気分になる『心』を蘇らせりゃいいのに。
「……でもよぉ」
首をちぢ込ませた彬は、隆哉を上目遣いに見上げて唇を尖らせた。
「俺だってちゃんと、死ぬ瞬間までにはお前の目の届く所に戻るつもりだったんだよ。そしたら道に迷って、んで、あの子猫が――」
「あの子猫?」
彬の指差した先には、何もない。「あれぇ?」と首を傾げた彬は「ああ、そうか」とポンと手を打った。
「すげぇ音したからなぁ、驚いて逃げちまったんだろなぁ」
ハハハッと笑った彬は肩を竦め、「それに」と小さく呟いた。
「もう、したくなかったからさ。後悔」
「なんだと?」
チロリ、と隆哉の片眉が引き上げられる。
「だから。後悔する事なく、一緒に逝こうと思ったんだよ。俊介と」
「おい。何勝手な事言ってんだよ、高橋。何、お前笑って……! んな簡単に、死ぬとかなんとかって……」
「うん、判ってる。ご免な、ヒデ。でもこれは、俺が望んだ事だから」
「――お前は」
低く声を吐き出した隆哉の唇が、皮肉げに歪む。
「お前は後悔せずにあの世へ逝って、そして、俺はまた後悔するのか。掴むべき手を、掴み損ねて」
「え……?」
隆哉の瞳を真っ直ぐ見上げた彬に、相手は不機嫌に顔を背けた。フゥッと力を抜くように息を吐き出して、その顔はいつもの無表情なものへと変わってしまった。
不意に彬の両肩を掴んだ隆哉が、クルリと彬の向きを道路へと向けた。
「ねぇ見て。あそこ」
肩から手を放し、何もない道路の先を指差して言う。
「何?」
首を傾げる彬に、隆哉は少し身を屈めると彬の顔の横に自分の顔を並べた。
そうして呪文のように、彬へとゆっくりと囁く。
「視えない? あんたを一番助けたかった奴の姿が。視えるよね? しっかりと『目』を開いて。――あんたになら、視えるから。必ず」
傾いた眩しい陽射しに、目を細める。するとそこに、何か黒いモノが視えた気がした。
「え?」
目を見開くと、何もない。彬はもう一度、今度はちゃんとそれを『視よう』と額に神経を集中させて、目を細めた。
「視えた?」
「……う……ん…」
曖昧に頷いた彬が、ゆっくりとそれに近付く。
「まさか……」
振り返り隆哉を見遣った彬は、相手の硝子の瞳に問いかけた。
「ウソ、だろ?」
「何か、勘違いしてるみたいだけど。彼の依憑の内容は『彬を助けてくれ』だよ」
バッと後ろを振り返った彬が俊介を見つめながら後退る。
「なんでだよ! あいつ、あそこから動けない、筈…だ……」
途中で思い当たった考えに、ゆっくりと隆哉に顔を廻らした。
「バカ野郎ッ」
歯を食いしばった彬は隆哉に飛びかかり、両手で制服の胸倉を掴んだ。ググッとその手に力を込めながら、唸るように言葉を吐き出す。
「取り込んだのか! お前、嫌がってたんじゃねぇのかよッ。体に負担が掛かるって、そう言ってただろうがよッ! なん、で……」
「そりゃ。あんたを助けたかったから」
「――『依憑』の、為にかッ?」
「当然」
さらりとしたその答えにクッと笑った彬は両手を放し、代わりにその手に拳を握った。ガンと隆哉の胸に拳をあてて、顔を埋める。
「クソッ。お前はそーいう奴だったよ、相沢。――ありがとう」
震える声で告げた彬は振り返り、一気に俊介へと駆け出した。