一
五時限目の授業が始まってすぐにその事に気付いた秀行は、もう少しで「何考えてんだ、あいつ」と声に出してしまう処だった。しかし「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせ、まずは机の上の教科書類を片付ける。「先生」と立ち上がり、絞り出すような声を吐き出した。
「気分が悪いので、保健室に行っていいですか?」
机についた手が震えているのが自分でも判る。手だけではなく声も震えているし、演技ではなく顔も蒼白だろう。
案の定、秀行の顔色の悪さに気付いた古典の女教師は、躊躇する事なく保健室へ行く事を許可してくれた。ペコリと頭を下げた秀行は、ドアを閉めて廊下を歩き出した。
隣の教室の前を通り過ぎながら、歩調を緩める。廊下との窓が開いた教室内へと視線を向けた秀行は、「相沢」と心の中で隆哉へと呼びかけた。すぐに反応した隆哉が顔を上げ、こちらを見遣る。他の何人かの生徒達も足音に反応した為、秀行はそっと視線を逸らせた。
しかし隆哉には、これで充分だったろう。角を曲がると足を止め、壁に凭れかかる。暫くすると廊下を近寄って来る足音が聞こえて、隆哉が姿を現した。
「何?」
無表情な顔で秀行を見つめ、問いかけてくる。それにチロリと上目遣いな視線を向けた秀行は、腕を組みながら低く呟いた。
「高橋が、いなくなった」
言って、視線を逸らした秀行に隆哉の瞼が揺れる。さすがに息をつめた隆哉が、クルリと向きを変えて廊下を歩き出した。
「どこ、行くんだよ?」
「高橋を捜す」
微かに答えた声に、秀行は「捜すったって」と視線を泳がせた。
「どうして、気付かなかったの? 高橋がいない事に」
責めるような隆哉の台詞に、秀行が目を瞠る。
何故ならその声には、動揺の色が含まれていたから。
「ご免。でも、チャイムが鳴る少し前までは、確かにいたんだ」
「なら、まだ遠くへは行っていないね」
顎に手をあてた隆哉が呟く。彬の靴箱へと行き、その中に上履きしか残っていない事を確認してから、二人も靴を履き替えた。
「どこか、心当りはあるのか?」
「まあね。一箇所だけ。――あんたは?」
「判らない。家、ぐらいかな」
歩きながら話していた二人は、校門を出て視線を交し合った。
「二手に別れよう」
「そうだね」
「家にいなかったら、そっちに向かう。心当りの場所は?」
「桜ヶ丘の公園」
「判った。そこに高橋がいてもいなくても、相沢はその場所を動かないでいてくれ」
「約束は出来ないけど……たぶんね」
少しの間を置き、気のない様子で答える隆哉に手を上げて、「じゃ、あとで」と走り出す。走り出しながら秀行は、今朝の相沢の言葉を思い出していた。
――『死相が、消えない』
先程と同じ、動揺の籠った声。ひどく震えながら吐き出されたその言葉には、秀行も愕然とした。昨日見た、血塗れの彬の横顔が脳裏に蘇る。
自分に憑いた女の子の霊さえなんとかすれは、高橋は助かるのだと思っていた。あの様子からして、相沢もそう思っていたに違いない。なのにその中で一人だけ、高橋だけが薄く笑っていたのだ。
――まるでそれが、当然の事であるように。
自分に取り憑いていた女の子との『友達の証し』を持って登校した秀行は、校門の前に佇む二人に足を止めた。
こちらを振り返った彬が笑顔を浮かべ、手招きする。
「で? 何だったんだ? あの子との『友達の証し』って」
カードを見つけた事を知ってるかのような口振りで、顔を覗き込んでくる。
「どうして」
証しが見つかった事は、彬達にはまだ言っていない。訝しがる秀行に、彬は「勘!」と言ってカカカッと高笑いした。
「うっそ! 判るよ、お前の性格を知ってるからな。もし見つかってなかったら、学校来る訳ねぇもん。学校休んででも、探してくれただろ?」
まるで見透かされてしまっている事に、秀行は多少照れくさ気にフンと鼻に皺を寄せた。
「俺が登校して来なかったら、どうするつもりだったんだよ」
「そりゃもう。押しかけてくに決まってんだろ、お前んちに二人で」
指を二本突き出した彬の隣にいる隆哉は、それに対して不満はないらしい。チラリと視線を、彬へと向けただけだった。
「それで、『証し』は何だったの?」
低く問いかける隆哉に、明け方近くまでかかって探し出したカードを手渡す。
「なんだ? カード? こりゃまた、意外なモンが出てきたな」
手の中を覗き込みながら言った彬を無視して、隆哉はカードと秀行を交互に見遣った。
「…参ったな……」
ポツリと呟く。そうして短く息を吐くと、チロリと腕時計を確認した。
「なんだよ? まさかこれじゃないとか言い出すんじゃねぇだろうな」
「まさか! そんな筈ないよ」
言った秀行に「判ってる」と手を上げて、隆哉は唇に指先をあてた。視線を下げてカードを見つめる。
「確かに、『証し』は合ってる。でも『望み』が違ってた」
「は、あぁ?」
訳が解らず頓狂な声をあげた二人に、隆哉は虚ろな瞳を向けた。
「少し時間がかかりそうだ。――二人共、一時限目はサボる覚悟をしてね」
隆哉について屋上へと上がった二人は、「で、どういう事?」と隆哉に説明を促した。
「その前に。――ねぇこのカード。何かのカードゲームの一枚だよね?」
「ああ。確か外国から入ってきたゲームだったと思うけど」
「なら勿論、何か意味があるんでしょ? 効果とか、能力とか、そーいうモノがカード一枚一枚に」
「あるよ。そのカードの効力は『勇者のダメージを回復出来る』だ」
それを聞いて「やっぱり」と嘆息した隆哉は、上目遣いに秀行を見ながらゆっくりと首を振った。
「まず。昨日言ったように、俺が彼女から受けた依憑は『失った友達の証しを見つけて』だったんだけど。俺はてっきりその『証し』で、彼女はあんたと友達になりたいんだと思ってたんだ」
その台詞に秀行同様、彬も驚きの表情を浮かべる。
「えっ? 違うのか?」
「いや、勿論彼女は大下と友達になりたがってるよ。でも、只の友達じゃない。『特別な友達』になりたがってる」
「どういう…事、だ?」
戸惑いの視線を交わし合った二人が、隆哉を見遣る。
「高橋、昨日彼女の『姿』を視たよね? このカードにそっくりな」
「あ? ああ」
「あれはあんたも言ってた通り、彼女の『望み』の姿だったんだ。つまり、このカードのように大下のダメージを回復出来る存在、『大下を護る存在』に彼女はなりたかった」
「それって」
「そう。巷の表現を使うとしたら、『守護霊』って事になるのかな。でも彼女の精神は幼いからね、そんな単純なものじゃない。もっと非現実的な感覚だよ。つまりカードの『姫』そのもの。さしずめ大下は『勇者』って処かな」
「げッ」
「厄介だな」と顔に書いた彬が、秀行を見つめる。その視線から顔を背けた秀行は、「そんな目で見てやるなよ」と心の中で呟いた。
――彼女を『姫に似てる』と言ったのは、俺なんだから。
「なぁ、それじゃ駄目なのか? ファンタジー感覚であったとしても、俺を護ろうとしてくれてるんだろ? 俺はそれでも充分嬉しく思うよ。それだけじゃ、駄目なのか?」
拳を握った秀行に、彬が目を剥く。少し震える声で、鋭く忠告した。
「お前、解って言ってんのか? それはこれから一生、彼女と『共に生きる覚悟』があって言ってる言葉なのかよ? 途中で『やっぱ嫌だ』じゃ、すまねぇんだぜ」
「えっ?」
「人を守護する霊っていうのはね、その人を『導き諭し護る』霊の事だよ。ある程度の『格』がないとそれは難しい。護る人間から何の見返りも期待しない、という事でもあるから。でも彼女は違う。――解るよね? 彼女の霊を傍に置くという事は、彼女の事もあんたが護ってやらなきゃならないという事だ、勇者のように。都合のいい時だけ『護ってほしい』じゃ駄目だ。ちゃんといつも彼女が傍にいる事を自覚してあげないと。あんたが死ぬその瞬間までね。傍に置くなら、彼女を守護霊としてじゃなく『一緒に成仏する相手』として傍に置いてあげるんだ。それが出来ないなら、無理にでも今すぐ成仏させた方がいい」
淡々とした口調の中に、とてつもない重圧を感じる。先程から身動きもせずにジッと自分を見つめている彬も、息をつめて様子を窺っていた。
この選択が、そんなに難しい事とは思えない。この二人が何故こんなにも慎重になっているのかすら、秀行には理解出来なかった。
「いいか、ヒデ」
彬がフイッと目を逸らせ、低く言葉を吐き出す。その顔は今まで見たどの顔よりも真剣で、少し秀行を不安にさせた。
「お前がいい加減な気持ちであの子と一緒に生きるなら、お前はこれから先、大事な奴等を亡くし続ける事になる。これはマジで一生の選択になるんだぜ。今あの子を選ぶなら、これから先どんなに好きな奴や愛する奴が現れたとしても、あの子を蔑ろにしちゃいけねぇ。大事な『特別な友達』として意識してやるんだ。どんな瞬間にもだぜ? これは『絶対条件』だ。――そんな事を、お前は一生やっていけるのかよ?」
顔を逸らせ硬い表情のまま、彬が問いかける。
ようやく二人が何を言いたいのかを理解した秀行は、キュッと唇を引き結び、瞼を伏せた。
これから先、もし彼女を悲しませたり寂しい思いをさせたりしたら、今回の高橋のように相手の命に関わるって事なのか? 彼女の嫉妬を、煽っただけで。
――でも。
秀行はコクリと唾を飲み込み瞼を上げた。曇りのない瞳で、彬を真っ直ぐに見つめる。
「それでもやっぱり、彼女は俺の友達だ。その証しもそこにある。十年以上も同じ時間を過ごしてきたし、彼女の存在、それはきっと俺にとっては空気のように当然なモノだ。それは、これから先も変わる事はないよ。間違いなく彼女は俺の特別な友達――『親友』だ」
その最後の言葉に、バッと彬が反応する。驚愕の表情で秀行を見つめ、暫くして心底嬉しそうに微笑んだ。
「よっしゃ、ヒデ。よく言った!」
ビッと親指を突き立て隆哉へと視線を投げる。それに無表情で小さく頷いた隆哉は、虚ろな瞳で秀行を見下ろした。
「今から彼女の魂をこのカードに移す。これで彼女は望み通りあんたと共に過ごせる。これから先はこのカードがどんな『御守り』よりも、あんたを強く護ってくれるよ。そして温かく癒してくれる。このカードの、姫のようにね」
そう言って隆哉は秀行の後ろへと回ると秀行の左肩に右手で触れ、その上に左手で持ったカードを重ねた。三回深呼吸をした後、ゆっくりと瞼を閉じる。
「幽世の大神、憐れみ給い恵み給え、幸魂奇魂、守り給い幸い給え」
低い声で唱え、ググッと手に力を入れる。肩から何かを引き抜くように大きく左腕を引いた隆哉は、次の瞬間、バンッとカードごとその手を肩に叩き付けた。
少しの間を置いてフゥと息を吐き出すと、振り返った秀行にカードを差し出した。
「ありがとう」
礼を言って受け取った秀行に小首を傾げ、気のない様子でボソリと答える。
「別に」
そうして彬の方へと向いた隆哉の動きが、不意に止まった。「ウソだろ」と口の中で小さく呟く。
「へ?」
きょとん、と見上げる彬の顔を、瞬きもせずに隆哉がジッと見つめていた。
「死相が、消えない」
呆然とした声が囁くように吐き出される。「なんだって!」と声を荒げた秀行に、彬がクスリと笑みを洩らした。微笑んで隆哉に近付くと、コツンとその胸元へと拳をあてた。
「よし。あの子の『烙印』も、消えたみたいだな」
その手首をパシリと掴み、隆哉が顔を覗き込む。普段よりも一層低い声で、その口が言葉を綴った。
「解ってるのか? 高橋。濃くなっているんだぞ」
低すぎる為に掠れた声が、喘ぐように洩れる。それに「ああ」と小さく答えた彬は、薄く笑って真っ直ぐと隆哉を見上げた。
「何時頃だ?」
「判らない。でも、夕方頃だと思う」
「そっか」
薄く笑ったままの彬が隆哉から手首を剥がし、背中を向ける。歩き出しながら頭の後ろで手を組むと、のんびりとした口調で言った。
「じゃあ、昼飯は食えるって訳だな」
必死に足を進めながら、秀行は腕時計で時間を確認した。
――まだ、大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も唱える。
制服の胸ボケットへと入れたカードに、制服の上から触れる。せっかくあの子を救えたとしても、彬を救えなければなんの解決にもなってはいなかった。
俺は一生、それを引き摺って生きていくんだぞ。
ギリッと歯を食いしばった秀行は、絞り出すような声をその口から吐き出した。
「勝手に死んでたりしたら、死体であろうがブン殴ってやる」