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ちょっと甘めの珈琲はいかが?

作者: 東西南喜多

テーマ小説「甘」他の方の作品は「甘小説」で検索すると見る事が読む事が出来ます。是非、ご覧下さい。

 窓の外を流れる土の香りを乗せた風が、開け放たれた窓から吹き込み、カーテンを揺らしていく。

 少し埃が舞う生徒指導室の中、同じように埃を被っている何かの資料らしきファイルが入った書庫と、壁に立て掛けられたパイプ椅子。他にもあるが俺にはガラクタにしか見えないものばかり。半年ほど前は人の出入りが激しかったこの部屋も、今はその役目を終えた老兵の如く身体を休めて、また活躍の日を夢見て眠る……。

 などと、ぼんやりとした思考の海にいた俺の頬を撫でる風に、はらり、と音をたてて捲れていく教科書。真っ白なノートの半分を埋める黒い文字の横に、綺麗な赤いペンで書かれた文字。少しくせのあるその文字を指でなぞると、自然とため息がもれてきた。それと同時に感じる目頭を刺激する”もの”を軽く拭い、窓の外に視線を向ける。


 春の風……心地よい温もりを届ける風。


 その風に乗って、届けてほしい――俺の張り裂けそうなこの気持ちを。



「どうしたの?」

 俺の意識を急激に覚醒させる声と顔を覗き込む優しげな瞳、艶やかな口紅ルージュに彩られた唇から紡がれる言葉が鼓膜を震わせ、脳内を駆け巡る。

 ふんわり、と揺れている涼やかな風を感じさせる黒髪をかき上げていく仕草に、しばし見惚れていた。

「分からないところでも、ある?」

「え、あ……い、いえっ」

 透き通る小川のような声を耳元で感じながら、俺は心臓が早鐘のように鳴り響くのを止めようと必死だった。

「それじゃ、ぼーっとしたら駄目だぞ」

 こつん、と俺の頭を小突き、笑みを浮かべている先生。その笑みを見ると、心の奥から沸き起こる欲望に身をゆだねそうになってしまう。

「それじゃ、この問題の続きをやってね」

「……はい」

 髪の毛を小指に絡めるようにして動かし、ゆっくりとかき上げていく仕草に、また心が動く。白く透き通った肌が春の陽気で少し熱を帯びたのか、ほのかに桜色に染まっている。そんな綺麗な桜色の頬に吸い付きたいと思う俺はおかしいのだろうか……。でも、本当にそんな事をしたらきっと嫌われるだろうな。

 ――鈴峯智香すずみねともか

 それが先生の名前。俺の大好きな先生の名前。

「先生、この問題なんですけど……」

「ん? どれかな」

 真剣な目を向けて俺の手元を覗く鈴峯先生だが、少し考えるような素振りを見せて、

「これはさっきも教えたでしょ。もう……三田村君、ちゃん聞いてなかったの?」

 少し頬を膨らませて俺を睨む。だが、怖いとは思わない。

 歳は俺よりも六つ上。今年でニ四歳になる女性がするような表情ではなく、むしろ子供のような可愛らしさがある表情である。


 鈴峯先生との出会いは、今から二年前――俺が高校一年の二学期に教育実習で来たのが初めてだった。

 一目見て古い表現かも知れないが、俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。俺の周りにいる女子が、全て子供に見えるほどの美しさの持ち主で一瞬にして恋に落ちてしまった。

 偶然、俺達のクラスが教育実習の場に選ばれたのだが、その事を神に感謝したくなるほどに嬉しかったものだ。実習が終わるまでの二週間は俺にとっては夢のような時間で、毎日が楽しく瞬く間に過ぎていった。しかし、日が進むにつれて俺の中で膨らんでいく気持ちを抑えるのに、毎日狂いそうになる感情を持て余していた。

 そして、教育実習最終日――鈴峯先生が教卓の前で最後の挨拶をしている中、俺はこの気持ちを伝えるべきかを真剣に悩んでいたが、そんな俺の周りは鼻をすする女子生徒達、しんみりとした表情をして俯き加減の男子生徒達。まるで通夜の席にいるような静けさをもった教室内でも気丈に話をしている鈴峯先生。

 そんな先生の目に浮かんでいる涙を見たとき、俺は気持ちを伝えようと決心をした。

 全ての挨拶が終わり、教室から出て行った先生の後を追ったが、所詮は子供。呼び止めたはいいが、先生を前にした俺は言いたい事も言えず、ただ黙っている事しか出来なったが、そんな俺を見て先生が、「三田村君……元気でね」と、優しく微笑んでくれた先生の頬を伝っていく涙を、俺は一生忘れる事は出来ないだろう。そして、俺の名前を覚えていてくれた嬉しさ。そんな事しか考えていない俺とは裏腹に、鈴峯先生は涙を拭いながら「ちゃんと勉強しないと駄目だよ。三田村君は――」なんて、俺の勉強に対するアドバイスをくれた。たった二週間だけだったけど、俺の苦手な部分や得意なものなどをちゃんと把握してくれていた先生。対する俺は、ただ先生と一緒にいたいと思う一心で、何を言おうとしたのだろう。

 十六の”子供”とニ二歳の”大人”という超えられない壁を感じた瞬間だった。



 それから二年、俺が三年に進級して鈴峯先生が正式な教師として赴任してきた。俺はそれだけでも嬉しかったのだが、今度は副担任になったのだ。

「鈴峯智香です。これから一年よろしくお願いします」

 その姿はこの二年で更に女性の色気を増していたが、微笑を浮かべる顔は二年前とは変わっていなかった。


「ほら、またぼーっとしてる」

「いだっ」

 頭に軽い衝撃を受けて見上げると、頬を膨らませた鈴峯先生が俺を睨んで立っていた。

「そんな事じゃ、大学に入れないぞ」

 腰に手を当て”いかにも”な怒り方をしているのが――

「いや、先生……もう、センター試験終わったし」

「あ、そうだっけ」

 恥ずかしそうに頬をかいて苦笑いを浮かべている鈴峯先生は、相変わらずの天然だった。

「そういえば、三田村君は私が行った大学を受けたんだったわね」

「あ、はい。でも、先生は卒業していませんけど」

「そうねえ――私が留年していれば、一緒だったかもね。そしたら一緒に行けたかも知れないのに、ね」

 ころころ、と変わるその表情が、その言葉が俺の心を掻き乱す。

 一緒だったら……。

 それを何度も考えて、そして絶望した。叶うはずもない夢物語にうつつを抜かすほど、もう子供ではないのに。

「ねえ、三田村君」

「な、なんですか? 先生」

 少し甘えたような声色に、俺の胸は激しく暴れていた。

「……珈琲でも、飲もっか?」

「は?」

「ちょっと休憩しよっ」

 ――ふわりと髪をなびかせると、煌く光の粒が辺り一面に舞い踊る。

 そんな形容がぴったりの感じで身体を反転させると、壁際にあるテーブルへと歩いて行く。窓から差し込む光が見事なシルエットを映し出して、先生の女性的なふくよかなラインを、より一層際立たせていた。

 ブラウスに包まれていても分かる、緩やかなカーブを描く肩から伸びるしなやかな腕。そして、繊細で妖しく艶やかな妄想を掻き立てる指先。細く引き締まった腰は抱きしめると折れてしまいそうで、その腰から連なるようにして大きく孤を描く足先までの脚線美は、芸術の域に達している。

 うむ……エロス全開の妄想青年だな、俺は。

 こうして鈴峯先生と一緒にいられるのも今日で最後だと言うのに、俺は何も変わってない。二年前のただ好きだ、という気持ちだけを抱えている馬鹿な俺のままだな。あれから勉強も男を磨く事も頑張ったのに、鈴峯先生の前ではそれらを出す事が出来ず、未だに緊張してうまく喋る事すら出来ない。

 ぼんやりと珈琲を淹れる準備をしている鈴峯先生の後姿を眺めているが、ここには先生と俺の二人だけ。でも、今こうして一緒にいられるのも奇跡だと思う。ここ――生徒指導室にいるのは、受験の為に先生が開いてくれた勉強会で、受験が終わってしまった今は必要をなくしていた。でも、俺は少しでも長く先生と一緒にいたかったので、卒業ギリギリまで勉強を見て欲しい、と無理を承知で頼んで実現したもの。本来なら先生も副担任とは言え、卒業生を担当しているのだからそれどころではないはずなのに、嫌な顔一つしないで受けてくれた。

「三田村君は、どうしてあの大学にしたの?」

「え、あ……いや」

 顔をこちらに向ける事なく、手元を動かしている先生が不意に聞いてくる。突然の事でなんと答えていいのか戸惑っていると、

「三田村、君?」

 心配そうな声と瞳で振り返ってくる鈴峯先生と目があった。

「もしかして、誰か一緒に行くのかな?」

「……え?」

「ほら、好きな女の子を追って行くって、あれかなと思ったんだけど、ね」

 くすり、と笑みを浮かべ、スプーンを振っている先生は楽しそうだった。そんな理由ではない……でも、似たような理由。

 俺の場合は一緒に行くわけではなく、その人が過ごした場所を知りたいだけ。ただ、それだけ。

「三田村君って、女子に人気あったからね。確か、クラスの人気投票で一位になってたでしょ?」

 そんな事を言いながら笑みを浮かべている鈴峯先生は珈琲カップを二つ持ち、俺の前へ一つ置く。

「え、あ……あれは」

 確かにそんな事もあったな。クラスの女子が男子の人気投票をしたとかで、俺が一番に選ばれていた事があったが、別にクラスの女子に選ばれても嬉しくはなかった。俺はただ、好きな人に相応しい男になりたいがために頑張っていたのだから。

「私も三田村君に入れたんだけど、な」

 少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺を見ている鈴峯先生の言葉に不意打ちのような衝撃を受けた。恥ずかしさに顔を赤くなるのを止められなかったが、それでも嬉しい気持ちのがまさっている。鈴峯先生が俺の事を見ていてくれていた――それだけが頭の中を駆け巡り、言いようもない高揚感でいっぱいになっていた。

「で、でも……なんで、先生まで?」

「え? あ、えっと……それは、その……そう! みんなに頼まれたからよ。でも、私がよく知っているのは三田村君だけで――あ、えっと、そうじゃなくて。えっと、あのね……」

 これ以上ないくらいに顔を真っ赤に染めて、鈴峯先生は慌てふたきめ、しどろもどろになっている。

「も、もういいじゃないっ。それよりも、珈琲飲んでよ」

 恥ずかしそうに頬を膨らませている鈴峯先生は俺を睨みつけているが、それが妙に可愛く見えていた。まだ、小声で何かを言っているが俺と目を合わせると、恥ずかしそうに視線を逸らしていく。さすがに俺も気恥ずかしさに顔を逸らして、目の前に置いてある珈琲カップを持ち上げ、その香りを胸一杯に吸い込む。

 次第に落ち着いていく気持ちに、珈琲を一口含み喉を潤す。この二人だけの補習――その中でも最大の楽しみが、鈴峯先生が淹れてくれた珈琲を飲む事。これは俺と鈴峯先生が二人だけになったときに始まった事で、「三田村君は頑張っているから、私からの特別なご褒美ね」そう言って淹れてくれる珈琲は格別美味しかった。

 俺は基本はブラックで、たまに砂糖をいれるくらい。対する鈴峯先生は、角砂糖にミルクをたっぷりの甘めが好き。

「熱いから気をつけてね」

「あ、はい……」

 湯気が立ち上る珈琲カップを手に持ち、湯気を少し退かすように息を吹きかける。そしてカップに口を付け、喉を通る珈琲の香りと苦味を味わっていた。目の前に座っている鈴峯先生も同じように、カップに息を吹きかけて口を付けていく。

「ふう――おいしいね」

「はい。それにしても、先生は甘いのが好きですね?」

「え? こ、子供っぽいかな?」

 珈琲カップを抱えたまま、恥ずかしそうにカップの淵をなぞる仕草を繰り返す。カップに視線を向けているのだが、窺うように俺の顔を見てはまたカップの水面みなもを眺めている。

「そんな事ないですよ。俺は、その……先生はその方が、えっと」

「……え?」

「あ、えっと、気にしないでくださいっ! ――熱っ」

「あ、大丈夫っ?」

 まだ冷め切ってもない珈琲を一気に口に含んだものだから、頭が反応する前に身体が反応した。

「だ、だいじょうぶです、ごほごほっ」

「熱いから、気をつけて飲まないと火傷しちゃうよ」

 眉をひそめている鈴峯先生の顔は心配そうに目を潤ませて、そっとハンカチを俺の口元に当てていた。目の前にあるのは鈴峯先生の顔。ありえないほどに近い距離にある鈴峯先生の唇から紡がれている言葉も俺の耳には入ってこない。代わりにうるさく鳴り響く俺の心臓が、壊れそうな勢いで鼓膜を震わしている。

「染みにはならないと思うけど……明日も着なくちゃいけないんだから、汚したら駄目じゃないの」

 ふわり、と春のような清々しい香りが、鼻を掠めていく。これは……鈴峯先生の香り? 

 俺の口元から離れていく香りが、顎を伝い、襟元、ネクタイ、そして制服と順に下がっていくのを自然と追っていた。この香りは俺の思考を惑わす。頭の中が支離滅裂な言語が勝手に飛び交い、混乱の極みに達してしまい――

「あ、あの――先生っ」

「何? ……うーん、これは落ちないわね」

 俺の声に耳を傾けながらも、制服に付いた珈琲の染みを拭おうとしている鈴峯先生。俺は何を言おうとしてるのだ? こんなときに言うべき事でないはずなのに。

「せ、せんせいは、好きな人いますかっ」

「え?」

 短い驚きを含んだ声と表情を向けている鈴峯先生は、

「あ、あの……えっと」

 ハンカチをきゅっと握りしめ、俺の顔を見つめる先生の瞳は驚きで見開かれている。

「え、えっと、忘れてくださいっ」

 俺は取り返しのつかない事を聞いてしまった。だって、これだけ先生が困っているのだ。俺はきっと触れてはいけない事に触れた――だから雰囲気を一秒でも早く変える為に、俺は急いで頭を下げた。息を飲む音が静かな室内に響く中、ゆっくりと顔を上げる。そんな俺の目に飛び込んで来たのは、

「あ、うん……。ちょっと驚いちゃった」

 頬を朱に染めて、はにかむような笑みを浮かべていた鈴峯先生の顔だった。

 照れ隠し――そんな風にも見えるが、俺はきっと聞いてはいけない事を聞いたのだろう。そんな顔をされるのは、俺としては耐えられるはずもない。

「すいません」

「あ、いいのよ。……でも、ど、どうしてそんな事聞くの?」

 まだほのかにピンク色に染まる頬を俺に向け、いつもは優しげな瞳に少し真剣な色を宿している。

 ……今しかないのか。

 また俺は勝手に暴走しようとしている。たった今、過ちを犯したばかりではないか。なのに、俺はまた……でも、俺の気持ちを伝えるには今を逃すとないのかも知れない。そう思うが早く、考えるよりも早く――。

「お、おれは……鈴峯先生が――」

 だが言葉にしようと思うのだけど、うまく出てこない。喉に張り付く言葉の欠片が何故か抵抗するように口から出て行こうとしない。駄目だと思っているから? 歳が離れているから? 先生と生徒だから――そんな考えばかりが頭を過ぎっていく。

「待って!」

「……え?」

 いつもより力強い声に驚き、その先にいるはずの人物の顔をうかがう。ハンカチを両の手で握りしめ、小さく震える唇をきゅっと噛み締めると、

「それ以上は……言わないで。今はそれ以上――っ!」

 言葉にならない息遣いの後、俺のそばから離れて行く足音が響く。

「せ、せんせいっ」

 反射的に足を止めて、俺の方へと振り返った先生の頬に伝う光の雫は一つ、二つ、と流れては落ちる。それ以上、言葉を持たない俺は何も言えなくて、また駆け出していく先生を止める事が出来なかった。

 部屋の扉は開け放たれ、静かな廊下を遠ざかっていく先生の足音だけが俺の耳に残っていた……。



 卒業式当日。

 何事もなく式は進んでいく。鈴峯先生は卒業式という独特の雰囲気のせいか、その顔に笑みはない。もしかしたら、昨日の一件が関係しているのかも知れないが、俺にはそれを聞く勇気もない。

 壇上では校長のありがたいのか分からない疑問の言葉が先ほどからしているが、俺の耳にはそんなものは入ってこない。気付けば、俺は鈴峯先生を目で追い、そして逸らす――これを繰り返していた。

 ……鈴峯先生。

 心の中で何度もその名を呼んでも、ただ虚しくなるだけ。大好きだと言う気持ちが、こんなにも辛いものだとは思わなかった。溢れそうになる心の叫びを今この場で叫ぶ事が出来れば、どれだけ楽だろう。

『それでは――卒業生退場』

 そんな葛藤をしている間に、卒業式は終わりを告げていた。

 

 あとは教室で先生の話を聞くだけで、俺はこの学校ともさよならか。一組から順に出て行く卒業生を眺めながら、俺の学校生活が終わった事を実感していた。

 やがて俺達のクラスの番になり、担任の先導で体育館より退場していた。だが、体育館の出口を見て俺は驚いた。そこには優しく微笑む鈴峯先生が立っていたからだ。出て行く俺のクラスメイトに笑顔で答えている鈴峯先生は、何度も目元を拭いながらそれでも笑みを絶やさず、必死に笑おうとしていた。

 俺は出席番号で言えば、一番うしろ――必然的に俺が最後になるわけだ。ゆっくりと進んでいく列は俺と鈴峯先生の距離を縮めていく。一人、二人……ゆっくりと出て行くクラスメイトを追って、俺は足早に体育館を出て行こうとした。

 ――合わせる顔をないからだ。

 昨日あれだけ困らせてしまった張本人だが、どんな顔をすればいいのか分からない。俺の前にいるクラスメイトが体育館を抜けていったので、それに次いで出て行こうとした俺の腕を誰かに掴まれた。

「三田村君……ちょっと」

 それは考えるまでもなく鈴峯先生だった。声には元気はなく、今にも倒れてしまいそうな感じに聞こえたが、顔を見る事が出来なかった。

「……ネクタイ、曲がっているわよ。最後くらいしっかりしないと」

 そんな声が聞こえ、俺の胸元に当てられた手は少し震えている。今更、ネクタイがどうこう言われて、卒業式は終わったのだ。関係ないではないか、そう思いながらも払いのける事も出来ず、ただされるがままに俺は立ち尽くしていた。

 ほんの少しの時間――だけど俺には長く辛い時間。俺の気持ちは届かなかったけど、この人を好きになれて……俺は鈴峯先生を好きになってよかった。

 静かに頬を伝う涙をそのままに、俺は教室へと向かっていた。



 担任の話というものは呆気なく、すでに帰るだけになっていた。

 まあ、担任は男なのでそんなに感動的ではなかったが、それでもいつも威勢のいい担任の目に浮かんでいる涙を見たときは、”これで卒業なんだな”と感慨に浸ってしまい、その隣でただ静かに立っている鈴峯先生の目にも、溢れてはこぼれそうになる涙が綺麗に光り輝いていた。

 クラスメイト達は次々と帰っていくが口々に、「じゃあな」「元気でな」と俺に手を振っているので、俺も振り返す。そんな光景を繰り返していたら、いつの間にか俺は教室に一人になっていた。

「はあ……これで最後、か」

 ため息を吐いて机に置かれた卒業証書が入った筒を手に取り、意味もなく振り回してみる。たった一枚の紙切れでここからおさらばって悲しいものだ。それにこれをもらったからには、もう高校生活は終わり。そして、ここにはいられなくなった。

 ……鈴峯先生とも、会えなくなる。

 それが胸の奥でくすぶりながら燃える事はなく、でも消える事もない思い出となって、これから過ごさなくてはいけないのか。

 もう一度ため息を吐いて外を眺め、俺は何気なく制服のポケットに手を入れて携帯を取り出そうとした。それに特別、意味のある行動ではなかったが、そこにまったく予想もしないものが入っていて、俺は心底驚いていた。


 俺は走っていた。ただ、その場所を目指して。

 ――終わったら、いつもの場所に来て。

 たった一言だけ、そう書かれた紙が制服のポケットにしわくちゃになりながら入っていた。いつ、どこで……そんな事を考えても分からなかった。でも、この字は間違いなくあの人の字。少しくせのあるこの字を、俺が見間違えるはずがない。

 そして、全力を出し切って走り、着いた場所はいつもの場所――生徒指導室。

 暴れ狂う心臓の鼓動と全身から噴き出している汗をそのままに、俺はドアノブを掴み開けた。


「……遅いよ、三田村君」

 そこには春の風を受け、静かに舞う桜のような柔かい笑みを浮かべ、俺に近寄って来る鈴峯先生がいた。その幻想的な光景に見惚れていた俺の前に、ゆっくりと立つ鈴峯先生は――

「珈琲、飲む?」

「……え?」

「珈琲だよ。今日もあるから、ね」

 そう言ってきびすを返し、いつものように珈琲を淹れていく鈴峯先生を俺はただ呆然と見ていた。そんな俺に振り返り、優しい微笑みを浮かべ、

「今日は、私の好きな甘めでいいかな?」

 少し赤く染まった頬をそのままに聞いてきた。

「え、あ……は、はい」

「それじゃ、そこに座ってね」

 促されるままに俺はいつものように椅子に座り、鈴峯先生の後姿を眺めていた。いつもの場所、いつもの風景。これがどういう状況なのか分からないが、最後に鈴峯先生と一緒にいる事が出来てよかった。思い出としては最高のものだ……。

「はい……どうぞ。熱いから気をつけてね」

「あ、はい」

 目の前に置かれた珈琲からは美味しそうな湯気と香りが立ち上り、鼻の奥をくすぐる。カップを持ち、少し息を吹きかけて冷まして一口含む。

「……甘い」

 思いのほか甘かった珈琲に俺は顔をしかめてしまったが、鈴峯先生は堪えきれなかったのか笑い出していた。

「なんで笑うんですかっ」

「だ、だって……三田村君、甘いのダメなんだね」

「そういうわけじゃないですけど、これは甘過ぎますよ」

 俺は珈琲カップを指さしながら抗議の視線を向けたが、鈴峯先生はさっきよりも頬を赤く、更に耳まで赤くして俺の顔を覗き込みながら、

「私の気持ち……いっぱい入れたから、甘くなったのかもね」

 恥ずかしそうに俯いて早口にくし立てて珈琲カップに口を付けていく。

「あ、えっと……それって」

「そ、そのままの意味だよ。それが、私の気持ち……」

 恥ずかしそうに鈴峯先生が指さしている先には、俺の持っている珈琲カップがある。これが先生の気持ち? この甘い珈琲が先生の気持ちって、どういう事だろうか。

「昨日は……ごめんなさい。いきなりで驚いてしまったのもあるけど、私はずっと決めていたの」

「……せ、せんせい?」

「先生と生徒……いけないと分かっていても、気付いたら三田村君の事ばかり考えていた。ダメだって分かってたけど、この気持ち抑える事が出来なくて……。だから、三田村君が卒業するまで待とうって決めたの。そうすれば私は先生じゃなくなるって……一人の女になれるって」

 静かに珈琲カップを置き、俺を見つめる瞳は優しくも真剣な色を含み、

「三田村君……こんな私と付き合ってくれませんか?」

 ゆっくりと紡がれる言葉が俺の耳に届き、その意味を理解するまでに時間をかなり必要とした。先生がずっと俺の事を考えていてくれた? それに卒業まで待つって――それは、もう答えは一つしかないわけで。

「え、あ、えっと……は、はいっ。よ、よろこんでお付き合いしますっ」

 混乱する頭で俺は返事をしていたが、優しく微笑む鈴峯先生の顔には薄っすらと流れていく涙があった。

「先生、どうしたのっ」

「ごめんなさいね……なんだか嬉しくなって。それに、もう先生じゃないって言ってるでしょ、三田村君」

 笑みを浮かべ、涙を拭いながらも少しだけ不満そうな表情を浮かべた鈴峯先生は、俺の鼻を指で突付いていく。

「わ、わたしは三田村君の……その、あの」

 恥ずかしさを隠すためか、顔を逸らしていく鈴峯先生――いや、智香さん。でも、そう呼ぶのはまだ恥ずかしい。お互いに視線を外したりしていたが、不意にアホらしく感じて笑いが込み上げてきた。それは鈴峯先生も同じだったらしく――

「……ふふっ」

「ははっ」

 顔を見合わせて笑っていた。

 嬉しくて気持ちが込み上げてくるのを我慢出来ないので、気持ちを落ち着けようとカップに口を付けるが、

「……甘い」

 喉越しがなんとも甘ったるい。もう一口含んだところで――

「いっぱい入れたからね。私の……き、も、ち」

「ふぐっ」

 危うく噴き出しそうになったが、これが鈴峯先生の気持ちならこぼす事なんて出来るはずがない。

 頑張って飲み込んだところで、不意に動く人影にそちらを向くと、

「これからも、いっぱい入れてあげるね……」

 甘えたような声で、頬を染めたまま椅子から立ち上がって近寄って来る鈴峯先生が、ゆっくりと屈んでくる。

 春の風が窓を揺らし、カーテンが舞い上がり、忙しなくはためく音が部屋中に響く。だが、今の俺にはそんなものはどうでもよかった。

 柔かく触れる唇の温もりは、思いの通じた気持ちの温もり。

 もれ聞こえる吐息に、感じる鼓動。ゆっくりと離れて行く唇を名残惜しくて追いそうになったが、首に廻されている腕の温もりに堪らず身体を引き寄せていた。

「もっと、もっと……ください」

「……うん。いっぱい、あげる」

 もう一度触れる唇。頭のてっぺんから足の先まで、とろけそうになる、甘い……甘いキス。

 またもや吹き込んでくる風が窓を揺らすが、今度は優しくカーテンを揺らし、次いで俺達の身体を包んでいく。その春の風に負けないほどの温もりを身体に感じながら触れている唇からは、珈琲と同じ甘くとろける香りがしていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちわ、一途です。 逃げていいですか/笑。あー、私はやっぱり甘いのはムリです。いや、コレは極甘です!たすけてーっ。そんな感じでした。もう何度殴ってやろうと思ったことか/笑。まあ個人的意見…
[一言]  こんにちは、工場長です。  読んでいて幸せな気分になるお話でした。卒業式前日の主人公と先生とのやりとりが、とても表現豊かでそこから一気に引き込まれてしまいました。  卒業式当日になっても、…
[一言] 春ですねぇ。(^^) まさに「甘小説」という感じの甘いお話でした。先生と生徒の危ない関係? がよく描かれていたと思います。主人公の初々しい気持ちもよく伝わってきました。 作品自体はちょっと甘…
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