幻想世界
『あぁ、任された。絶対に戻って来る。約束するよ。』
湊とレビンそして彩の三人は、転移魔法を発動する。
日光の様な強烈な光が周囲に撒き散らされ、風が発動点に吸い込まれていき、少なからずのノイズが発生する。
霧宮、煉獄、パラティヌスそして後から徐々に集まりつつある騎士団の全員が目を見開いた。
それには、幾つかの理由があった。元々、転移魔法の発動には、数秒の時間を必要とする。転移魔法の発動は口では簡単に説明できない程に高度であり、行使中には身動きが取れない。もしも、行使中に無理矢理にでも動こうとすれば、死ぬ可能性が高くなるからだ。また、これは以前に、優から聞いた話だが、対転移魔法用の魔道具があるらしく、発動終了から数瞬の間ならば、空間には転移情報の残骸が残っており、再度空間をこじ開ける事が可能である。
そして、今ここで三人が転移魔法を発動した事に、目の前にいる大多数は、ラッキーだと思っているに違いない。この隙を突いて、攻撃が出来れば、容易に三人を殺す事が出来るからである。
しかし、そんな中……やはり最初に動いたのはパラティヌスであった。
「ーーさせるか!」
パラティヌスは激昂すると、驚くべき速度で三人の元へ跳躍し、湊の首筋を狙って斬りかかる。
銀色の煌めきと漆黒の闇が、縦と横に空間を引き裂き、周囲に撒き散らされる。二つの粒子は、互いの相反する物質と反発を続けた後、両者の背後へと吹き飛ばされる。
「……っ…ぐぅ…」
強烈な剣の重さに圧倒され、危うく押し切られる所だった。パラティヌス、こいつは思っていたよりもヤバイかもしれない………
「いつまでボサッとしている!!」
パラティヌスの激昂で、背後にいた騎士団の面々も、慌てて魔道具を取り出して背後で逃げ出そうとしている三人を狙う。
同時に、パラティヌスは泉の動きを止める為に、再び剣を構えて神速の突きを放つ。
それも一撃だけではない、戻すと突く、たった二つの動作でさえ、泉は捉え切る事が精一杯で、刀で受け止め、受け流す。出来る事なら、奴の剣を弾き返したい所ではあるが、魔力補正によってパラティヌスの剣は通常の約数十倍近い重量を感じる。受け流す事は出来ても、弾き返す事は到底不可能であろう。
そうこうしている内にも、騎士団の面々は泉を追い抜き、三人の元へと駆けていく。
くっ、と顔を歪めながらも、目の前の騎士から背を向ける真似は到底出来ない。もし、奴に背を向けたが最後、間違いなくあの剣で串刺しにされる事だろう。
「うわあぁぁっーー」
背後で連続した悲鳴が上がり、何事かと思っていると、直ぐに状況が理解出来た。
背後から騎士団の一人が高々と吹き飛ばされて来る。
それと同時にーー
「泉、後ろは任せて!!」
理沙の言葉に、泉は実際にはそんな余裕が無いので、失礼だが心の中で、サンキュー、と礼を言って、目前で未だに攻撃を続けるパラティヌスへと全神経を集中させる。
その時、泉には確かなる変化が訪れていた。
先程まで、捉える事だけで困難を極めていた筈のパラティヌス剣捌きが徐々に視える様になって来ているのだ。
それは、間違いなく理沙が背後で泉のバックアップをしてくれているお陰だろう。
ーーここまで快く、最高の敵と闘えるのはいつ振りだろうか。
「ーー穿て!」
パラティヌスの剣先が泉の右肩を狙い、それこそ目にも止まらぬ速さで撃ち抜かれる。銀色の煌めきが瞬き、空気を切り裂いて着実に両者の距離を詰める。
泉は不敵な笑みを浮かべ、刀をパラティヌスの正中線に据える。
先程までの泉ならば、到底避ける事は不可能の剣技ーーそれを、泉は一瞬で見切り、右足を一歩背後に退けて剣の軌道から外れる。
ほんの数センチの距離で剣を避け、泉は刀を地面と水平に横薙ぎに振り抜く。
「…らあぁぁッ!!」
漆黒の粒子が撒き散らされ、通常の攻撃範囲よりも数十センチ程長い距離を横薙ぎに切り裂く。空間に一筋の黒色の線が入り込んだかと、見間違う程の高密度の粒子の集まりだ。
パラティヌスは即座に、泉の斬撃に反応を示し、剣先に溜めた圧縮粒子を解放する事で、前方に粒子を振り撒き、反作用の力を得て、背後への高速移動を果たす。
寸前の所で、刀先は騎士団専用の制服であろう黒コートに付いてある金色ボタンに喰い込み、真横に吹き飛ばす。
「ーー泉、任せたぞ!」
「ああ」
背後から聞こえて来た声と共に、一際強い閃光が周囲を包み込み、甲高い音を立てて、空高くに光の柱を創り上げる。
今の泉には、背後を見遣る余裕はないが、ほぼ99%の確率で、湊達三人が、転移魔法によって戦線から離脱したのであろう。
騎士団側の険しい表情と、すっ、と静かな沈黙の後に理沙が、泉の隣に立った事で、それは確信に変わった。
周囲には、ざっと数えて十人程の騎士団隊員そして忌道真所属である二人ーー霧宮の胸には二十、煉獄の胸には十八の数字が模された金色のバッチが付けられている。
「ーー理沙、いくぞ!!」
泉は、彼等が動き出すよりも先に、背後へと逃走を図る。理沙も少し遅れて走り出す。呆気に取られていた全員は、即座に対応が出来ずに距離がどんどんと開いていく。
「何をボサッ、としておる。お前達一班は、二班と協力してあの三人を追え……儂とそこの二人、あの二人を追うぞ!! ついて来い」
パラティヌスの言葉に、騎士団隊員はハッと敬礼をした後、光の柱を追い掛ける様にして駆け抜けていく。
「マジでこの爺殺す!!」
「静かにしろ……」
パラティヌスが前方を先行して、後に悪態を吐いていた煉獄が、霧宮と共に続いていく。
これから先、余程のチャンスがなければ、転移魔法の発動は叶わないだろう。
背後から三人が追い掛けて来るのが判り、ひしひし、と緊張感が心を締め付ける。
泉と理沙は、校門を抜けて直ぐの公道で、脚に力を集中して地面を蹴る。反作用の力を得て、一時的に身体が重力に逆らい、二階建ての建物の屋上へと足を付ける。此処からは、まだ点々としか映らないが、二キロ程先に前夜祭の夜店が立ち並んでいる。
彼処まで辿り着けば、奴等もそう簡単に手出しは出来なくなる。そして、背後から追い掛けて来る三人を、撒く事が出来るだろう。
その事を、理沙も理解したのか、こくりと頷きを返す。
シュィィーーン
風を切り裂く音が響き渡り、二人の背後から遠距離魔法が、両者の間を駆け抜けーー寸前の所で、泉は刀でエネルギー波を斬り裂き、理沙は又もや盾型の魔道具を創り出し、周囲に散らして受け止める。
理沙の魔法、あれは空間に魔道具を創り出す魔法ではないのだろうか。俺自身も、当初は転移魔法系統の応用かと思っていたが、理沙の魔法発動を見た限りでは、それはどうやら違うらしい。
先程も言った様に、転移魔法の発動には、少なからずの時間を要する。それは、通常状態の次元転移型魔道具でさえ同様で、魔方陣系統を得意とする優は、俺の数倍の速度で発動から構築へと持っていく事が出来る。そんな彼女でさえ、最短でも二秒の時間を必要と以前に言っていた。
しかし、理沙は遠距離魔法に気付いた次の一瞬で、盾型魔道具を具現化してみせたのだ。
どう考えても、転移系統の魔法でない事は一目瞭然だ。
そして、もう一つ。
理沙が盾型魔道具を具現化しようとした時、開いた手を中心として、中心から周囲に広がっていく様に、徐々に盾が構築されていったのだ。
これはまだ、俺の仮説に過ぎないが、もしかすると理沙は、自身の想い通りに魔道具を創り出しいるのではないだろうか。
ただ、俺はそんな魔法を聞いた事も、見た事もないので、ハッキリと断言する事は出来ない。
六日前に、理沙は俺達にある事を告白してくれた。
彼女は特異体質であった事、しかし、彼女の特異体質は忌道真によって奪われてしまい、その魔法が使えなくなっていた筈だ。
けれども、俺達は知っていた筈だ。
何故、俺達が持っている様な魔法の数々が、特異体質と呼ばれるのか。
その答えは簡単だ。
誰にも理解出来ない、世界でその者だけが唯一使える魔法といった意味を込めて付けられた物だ。
もしかすると、理沙に途轍もない程の変化が訪れたのかも知れない。それを乗り越えた彼女に、今以上のチカラを与えた。
当事者ではない俺には、これ以上の考察は無意味だと判断して、隣にいる理沙を不意に見つめた後、二メートル程離れた建物へと跳躍する。
こちらは、ゴーレムとの激闘で精神的にも肉体的にも疲労がピークに達している。そして、泉はパラティヌスより腹部に一撃を喰らい、今は治療薬で一時的に血が止まってはいるが、ここまで激しい動きをしているのだ。いつ、傷口が開くか分からない。
その為、どうしても身体が勝手に制限を掛けてしまい、明らかにパラティヌス達との距離は、縮まる一方で、今や十メートルの距離にまで追い付かれてしまっていた。
「ーー穿て」
煉獄の槍が数歩先に展開された魔方陣を貫き、通常の攻撃範囲では決して届かない十メートルの距離を、不自然に伸びた槍が一瞬で詰める。
即座に、泉は空中で背後に向き直りーーガギギッ!!
金属が互いを削り合うとする音が響き渡る。泉は辛うじて槍の軌道を捉え、刀で弾き返そうと考えていた。
しかし、槍と刀が激突した瞬間、泉は己の失態を痛感した。
槍は刀と激突して、それでも尚、伸びる事を止めずに突き抜け様とする。互いの魔道具に少しのズレが生じ、泉がそれを修正するよりも先に、突き抜けた。
鮮血が夜空に散った。
「……っぅ…」
槍の先は、泉の肩擦れすれを突き抜けてーー肩に強烈な激痛が迸った。
泉は呻き声を上げながらも、痛みに耐える様にと片目を閉じて、歯が軋むかと思う程に喰い縛る。
槍が煉獄の元へと縮んでいき、泉は屋上へと転げ落ちるようにして着地する。
ポタポタ、と血が地面に滴り落ちる。あの魔方陣には、伸縮性能の他に炎の属性でも付加していたのだろう。
肩の周辺のコートが焼け焦げーー幸い、肩に穴が空いたという訳ではなかったが、それでも、肉が抉り取られて、火傷した跡が真っ赤に腫れている。
「泉君!?」
理沙が慌てて駆け付け、肩と上腕に、治療用にと持って来ていた布をきつく巻き付ける。
そうこうしている内に、追い掛けていた三人は泉と理沙の元に辿り着く。
「さあ若造達よ。ここで幕引きにしよう。」
「追い掛けっこは終わりだ」
煉獄は、魔道具を構えてしっかりと薄気味悪い笑みを浮かべる。
「……せめてもの、報い。二人纏めて楽に逝かしてやる…煉獄いくぞ!!」
「ーー命令するな」
二人が同時に、地面を蹴り、一気に距離を詰める。
理沙は咄嗟に、二本の剣型の魔道具を引き摺り出し、二人の攻撃を喰い止める。
「ははっ? まだまだ、甘いな」
霧宮に脚を振り払われて、勢いよく地面に倒される。地面に倒されると同時に、理沙の肺から空気が飛び出す。
「殺られちまえ」
理沙の真上、上空三メートルの地点から槍を真下に構えて突き落とす。
咄嗟に真横に転がり、寸前の所で槍を躱す。
槍はコンクリートに入り込む程に強烈であり、もし今の一撃を貰っていたならば、命はないだろう。
「…若造よ。余所見はいかんぞ!!」
いつの間に現れたのか、真横から白銀の剣が薙ぎ払われる。
ガギギッーー!!
削れる様な金属のぶつかり合い、一歩でも背後に退けば、瞬く間に殺される。
「避けるなぁァァ!!」
煉獄は絶叫しながら槍を構えてーー先程に泉が貰った一撃と同じ動作を行う。
アレはまずい……
このまま受ける訳にはいかない。
煉獄が槍を放つと同時に、槍の先端を囲む様に盾を敷き詰め、甲高い音を響き渡せながらも、槍の身動きを止める。
「ーー死ね」
しかし、相手は三人、どう考えても理沙一人で対処し切れないのは理解していた筈だ。
理沙では、護りながら闘うので精一杯で、攻撃に移る事さえ出来ない。
そして相手も学習するだろう。
人間の感覚では、背後からの攻撃が一番対処が遅れるであろう事も……
真後ろから、霧宮の二刀が迫り来るーー
バコオォォッ!!
「ぐはあぁっ…」
突然、霧宮が真横に吹き飛んだ。
「……っ…」
理沙は全身の力を振り絞り、左手の剣でパラティヌスを薙ぎ払う。
理沙の攻撃は軽々と避けられたが、背後への跳躍の隙に、なにが起きたのかと周囲を見回す。
「……っ!?」
アレは、寸前の所で、泉が駆け込み、霧宮に一撃を見舞ったのだ。しかし、泉は体力を使い果たして、ぐったりと地面に倒れ込んでいた。
脱出を図ってから、彼はずっと一人だけで闘っていたのだ。疲労はとっくにピークを通り越している筈だ。増してや、今は肩に大怪我を負っている。
そんな状況で、まだ動けた事の方が奇跡である。
先程よりも体温が低下しているのが分かる。このままでは、泉君の命が危ない。
もう、誰も助けには来てくれない。私がこいつ等を撃退しなきゃいけないんだ!!
「ふはははあぁぁっ……」
霧宮は頭に手を当てて、彼の思考回路が壊れたかと思う程、高笑いした後、急に目を据えて、背中に提げていた五本の刀を鞘から抜く。
「俺に傷を付けやがったな……殺す!!」
銀色の粒子が周囲に撒き散らされ、周囲を白く染め上げる。
『白刃一刀』
霧宮は五本の内、四本を地面に刺し、残り一本の刀を空に掲げーー
あれは何!?
理沙は立ち上がる事も出来ず、その景色に圧倒されていた。それは、激痛に苦しんでいた泉にも理解出来る程、感覚に直接送り込まれてくるといった情報だろうか。
それこそ、あの超弩級ゴーレムよりももっと怖いくらいの圧力を感じていた。
泉は辛うじて、重たい瞼を持ち上げ、その様子を確かめ様とするーー月光が刀に吸収されていく。
刀が月光を吸収していく度に、剣自身が巨大化していく。それは、留まる事を知らず、夜空の景色を銀色の刀が支配する。
「……なっ…!? 止めろ、若造がぁ!!」
その声を出したのは、泉や理沙ではなかった。それは、彼等を統率していた筈のパラティヌスであったのだ。
「それの魔法を使えば、街に被害が及ぶ、そんな事も分からぬのか、止めろ!!」
「はっ? 街が壊れる? 別に良いだろ。別に壊れたって。皆、殺してやる。今…此処で!!」
「…やも得ぬな、儂にはこの街を護る義務がある。だからこそ、止めてやる。若造の過ちを正すのが、儂の役目だ! それがたとえこの身を滅ぼす事になったとしてもな!!」
霧宮は、全長数十メートルにも及ぶ巨大な刀を、両手でしっかりと掴むと、全身の筋肉を限界まで酷使して振り落とす。
稲妻の如き速度で振り落とされた剣は、粒子を吹き散らしながら大地へと近づきーー
同時に、パラティヌスも自身の剣に限界まで魔力を奔らせ、霧宮には及ばないが、全長五メートル程の大剣を目にも止まらない速さで振り上げるが……
ゴオオオォォォォーーン!!
大地を破壊し、抉り、巻き上げる。
轟音が鳴り響き、暴風だけで建物の基盤が崩れ、それは止まる事なく、周辺の建物を倒壊し、吹き飛ばされる。
それは、超接近距離にいた泉達も呑み込みーー
霧宮の大剣は、数十メートル程度の長さしかなかった筈だ。しかし、それは攻撃範囲の目安ではない。
大剣が大地を抉った瞬間、閃光が駆け抜けていき、一直線上に大量の圧縮粒子を吹き飛ばす。
まるで、超弩級大型砲撃と同等か、いやそれ以上のエネルギー波を放ち、五百メートル近い射程距離を誇る。
建物を跡形もなく破壊し、削り取り、穿つ。
土煙が巻き上がり、視界を白く染め上げる。
「煙てぇ…霧宮、テメェやり過ぎだ!」
煉獄の言葉を聞き流しながら、霧宮は奴等が吹き飛んだ跡を何でもない様に眺める。
「今日は前夜祭だ。この辺りの家も、無人だろう……向こうを追うぞ!」
そのまま霧宮は自身が破壊し尽くした残骸を一瞥する事もなく、背を向けてーー
「煉獄、何の真似だ!」
明らかに殺意を持った応答に、霧宮の背中に槍を構えた煉獄は、苛立った様に答える。
「あんな魔法程度で調子に乗ってんじゃねぇぞ。魔道結晶の力なんて借りやがる弱者には興味ない。だから失態をやらかすんだな。」
何だと!? と、霧宮は地面に差してある刀に手を掛け様と伸ばす。
ガギギッーー突き出された槍に刀は吹き飛ばされ、数メートルの距離を移動する。
「霧宮、テメェが殺したと思っている奴等は、まだ生きている。爺が邪魔したお陰で、あの女が、『二重結界魔法』を発動する隙が出来ていたんだよ。到底、無傷じゃ済んではいないだろうがな……」
煉獄は槍を背中に背負い直し、残骸を眺めて一歩を踏み出す。
「ただ言って置いてやるーー俺が女だからと言って、甘く見てると……殺るぞ!」
泉は何時の間にか、白と黒のが交互に入れ替わっていく長い廊下を歩いていた。廊下は直線的に何処までも永遠に続いている様な錯覚を覚える程に遠く、出口は見えない。
「あれ……痛みがない…?」
煉獄に燃やされた肩と、パラティヌスに貫かれた脇腹、の部分に穴が空いていた筈のコートが、埃一つの汚れさえない程に綺麗になり、肩や脇腹を覆っていた。
もしかすると、コートが新しくなっただけで、傷口だけは治っていないのかも知れない。
例えば、傷口がないと思っている間に痛みは奔らないが、傷を見つけた途端に全身を痛みが駆け抜ける。といった体験をした事はないだろうか。
また、ある一定以上の怪我を負うと、ショック死を避ける為に本能的に痛みを感じなくなるといった事も考えられる。
泉は恐る恐る、傷口に触れーーそこからは、さっきまで感じていた焼ける様な痛みは伝わって来ず、ただ手が触れている、といった感覚しか分からない。
「…ここは…一体……?」
改めて、周囲を見回して素朴な疑問を誰にぶつけるでもなく声に出す。
いまさっきまでは、泉は理沙と共に、パラティヌス、煉獄、霧宮から逃走を図っていた筈だ。それなのに、気が付けば不思議な世界に迷い込んでいるではないか。
「………まさか、死後の世界…とか…じゃないよな……」
いつも自分らしくない発言に、不安気になりながら、それを吹き飛ばす為に、いつもの癖で刀の柄に手を掛けーー空を切った。
「…えっ……えぇっ!?」
その緊急事態に驚愕して、慌てながらもいつも腰に刀を提げてある場所を確かめて………深い、ため息を吐き出す。
「……どういうことだ…?」
今さっきまでは決して無かった場所に、白でも黒でもない、灰色の扉が顕れていた。
「…開けろ…って事なのか…」
恐る恐る輪っか状の取っ手を掴み、一呼吸置いた後に、決心して一気に開け放つ。
部屋は真っ暗で、廊下から刺す光でさえ、ほんの数メートルの距離までしか映し出さない。
また、この部屋は、どれだけの広さがあるのか、その奥に何があるのか、此処で立ち尽くす限り、一生分からないであろう。
「…奥に進めって事か……」
闇が巣食う部屋の奥へと、慎重になりながらも進んでいく。
あれからどれだけの距離を進んだのだろうか………
出入り口の光はとうに消えて見えなくなり、距離感が掴めないまま闇雲に進んでいく。徐々に視界は、暗闇に慣れて来たお陰で薄っすらと見える様になって来るが、それでも暗闇が強い為、泉から半径一メートル弱の距離しか掴めない。
感覚的には、一キロ程歩いただろうか。しかし、出口どころか、部屋の端さえ見えて来ないのはどういう事だろう。
もし、この部屋が本当に想像上の大きさならば、俺はコレを造った奴に、どれだけデカイ物、造ってんだ!! と言ってやりたい。
進んでも、進んでも、その実績、結果が見えないのは、精神的にもかなりの苦痛である。
シュゥゥーー
何かが床を駆け抜ける音が響く。
それと同時に、疾風が泉に吹き付け、影が追い越していく。
「ーー誰だ!?」
泉は目を凝らしながら、自身の感覚に頼って影を決して見失わない様に必死に追い掛ける。
『…誰か……そぅ…今のお前は……を知らないのか…』
前方より微かに、掠れた声が聞こえて来た声は、泉を十分に驚かせた。
もしここに、泉や影とも違う第三者が居たならば、その精度は明らかになるだろう。
そして、泉本人でさえ自分自身の声と、聞き間違う程にその声は似通っていた。
当然、泉は影を追い掛けるのに必至で、喋っている暇などない。その声はどう考えても十中八、九の確率で影の物であろう。
「っ!? …えっ……うわぁっ!」
突然に闇が切り裂かれ、強烈な白光が泉を照らす。闇に慣れていた瞳には、急激な光は毒であり、慌てて腕を翳して光を遮る。
泉は瞳が闇から光へと慣れていくのを待った後、翳していた腕を退ける。
両目は未だに霞がかっているが、至近距離程度なら認識できる。
そして、そこにあったのは、泉が予想だにしなかった存在であった。
「……俺……なのか…」