「甘えてくる女のほうが可愛い」と言われましたので、私も上手におねだりします ~でも甘える相手が兄だと、婚約者は面白くないそうです~
「甘えてくる女のほうが可愛い。君も少しは見習ったらどうだ?」
給仕がこぼした水を拭きながら、私が袖を引っかけたのだと笑った。
卓の向こうで、青い目が呆れたように細まる。若い給仕は顔を伏せ、私の手から布を受け取れずにいる。いいのです、と目で伝え、濡れた卓布の端をそっと折り込む。
その手元を見つめる視線が、もう一つある。ロベルト様の向こう隣に、黙って座っている人のものだ。
「今夜は、私と踊ってください」
膝の上で指を組み、返事を待つ。
返事は、いつも同じ。
「彼女が先だ」
ロベルト様のお母様が招いた幼馴染、マルレーネ様は、食前に最初の曲を頼んでいたのだそうだ。淡い金の髪を編んだその人が、隣の席からためらいなく身を寄せる。
「出だしが不安なの。合図してね」
「俺がついている」
私は二十一歳のユリアーネ。リヒテンベルク伯爵家の娘だ。ここは婚約者ロベルト様のお屋敷、ローゼンハイム家の小夜会。
笑顔が頬に張りつく。願いを言葉にすれば聞いてもらえるのだと、どこかで期待していた。胸の奥が冷え、その期待だけが静かにしぼんでいく。
「このままの結婚は嫌だと、申し上げます」
食卓のお父様が身を起こし、ロベルト様を見る。私の声は、震えていない。膝の上の指だけが、固く組まれたままだ。
「後の曲はどうする? 婚後も娘に待てと言うのか?」
「幼馴染が満足するまで待つくらいいいのでは? 妻には準備と理解を求める」
ロベルト様の目が私へ戻る。さっきの言葉を取り消す気配はない。彼が杯を置く音に、背筋が固くなる。
「それなら、君との婚約は解消だ」
お父様は私の頷きを確かめてから、望まぬ結婚では縁も保てない、と口にする。
「ユリアーネ、あなたはそれでいいのね?」
お母様が卓の下で私の手を握ってくれる。その温かさに、指の力が少しずつ抜けていく。
「はい。残念ですが……」
「娘の意思を尊重し、解消を正式に依頼します」
「当家も同意する。これで婚約は解消とする」
先方の伯爵の宣言に、母たちも頷く。燭台の火が揺れている。もう返事を待たなくていいのだと思うと、吐いた息だけが少し震える。
「お話は、これまでですわ。皆様、小広間へどうぞいらして」
両家の前で婚約を解消したあと、最初に手を差し出したのは、彼の兄だった。
ベルトルト様。濡れた布を持つ私の手を、黙って見ていた人だ。
「俺に頼めばいい。今日は、何をしたかった?」
顔を上げる。琥珀の目は、答えを急かさない。言葉を探している間も、その手は私の前にある。
「まだ、踊りたいです」
「そうか……俺も、踊りたくなった」
隣の小広間で、幼馴染たちが最初の一曲を踊る。マルレーネ様は出だしで足を止め、ロベルト様の合図に笑顔を見せる。終わると礼を言い、付き人と帰っていく。
次の一曲。ベルトルト様の手が、私の背に回る。布越しに伝わる温かさで、自分がまだ肩を固くしていることに気づく。
「足を、俺に預けてくれるか?」
「お願いいたします。今夜は、預けます」
踏み出す先を、私が決めなくていい。支える手に任せるだけで、足も息もこんなに軽い。思わず笑い声がこぼれ、慌てて口元を押さえる。
「いい笑顔だ」
「はい。もう、押さえません」
曲の余韻がまだ耳に残るうちに、ロベルト様が寄ってくる。
「俺と踊るより、楽しそうじゃないか?」
「待っていた曲ですから」
「俺が断ったのは、彼女が先だったからだ。順番の話なのに」
「もう、順番を気にしなくてよくなりましたわ」
ベルトルト様へ向き直る。頼もうと決めてから声にするまで、いつもなら長い間がある。迷って、相手の顔色をうかがって、そのうちに口をつぐむ。今夜は、その間が短い。
「明日の朝、迎えに来てください」
手袋の指先を直す。続きを言うために、息を整える。
「私は露店の通りへ行きたかったのです」
「いいね。何時に伺えばいいかな?」
「九時に。門の前で、お待ちしています」
「門の前だな。楽しみにしていよう」
両親にも知らせると、ロベルト様の口が開きかける。その言葉を待たず、私のほうから言う。
「お願いする相手は、私が選びますわ」
◇
翌朝、九時。私服のベルトルト様が馬車を降りる。門の前まで出ていた私を見て、少しだけ目を見開く。顔を見ただけで頬が緩み、挨拶より先に声が出てしまう。
「本当に、ご自分で迎えに来てくださったのですね」
「君に頼まれたからな。六日の休暇を取ってある」
「お勤めを抜けて、来てくださったのではありませんか?」
「休暇だ。君が気にする前に、言っておく」
二十六歳の王家の騎士。長男だが家督は辞し、二十三歳の弟が継ぐ。彼の暮らしの基盤は両親も承知している。家同士の親交は続けるが、相手選びは私に任せるという。
「どの店から見たい?」
「あの、布を広げているお店が気になります」
通りは朝の匂いがする。焼き菓子の甘さに、湿った石畳と布の染料の匂いが混じる。広げられた布の色が、朝の光によく映える。
彼がスッと早足で露店に駆け寄ると、日除けの重い支柱をさりげなく支えた。
「これは申し訳ない、助かった」
その姿には、力む様子もない。稽古で並ぶ者なしと、父から聞く腕だ。
「お手伝いを頼まれたのですか?」
「頼まれてはいない。倒れそうだったから、支えた」
「私も、よくそうしてしまいます」
「知っている」
帰路、歩調が緩む。彼の歩幅が、私に合わせて小さくなっている。追いつこうと急がなくていいと気づくと、まだ話していたくなる。
「お菓子は、どこから召し上がりますか?」
「角だ。焼き菓子の焦げたところだけは譲れない」
得意げに言うものだから、また笑ってしまう。彼は私の笑いが収まるのを待ち、続きを促すようにこちらを見る。
「普段使いの髪飾りを、一緒に選んでください」
「色の希望は?」
「青が好きです」
指先を畳む。ここまでお願いしたのだから、あとは相手の負担を軽くしなければ。せっかく言えた願いに、いつもの癖が追いついてくる。
「ご都合が悪ければ、自分で」
口を押さえる。差し出した願いを、自分で引っ込めてしまうところだった。
「今のは取り消し。楽しみにしています」
「弟に勝つのは簡単だが、君の遠慮に勝つのは難しい」
笑いの息がこぼれる。遠慮のことまで見抜かれているのに、責められた気はしない。
「では、明日も俺が迎えに来よう」
戻ると、門の前でロベルト様が、使いの馬車を指さしていた。
「昨夜、聞いたぞ。俺の言うとおり、ようやく甘える気になったんだろう?」
「はい。お願いする相手を、決めましたので」
「助言したのは俺だ。馬車まで用意してやったのに、なぜ待たない?」
「お願いした方が、迎えに来てくださいました」
「兄上は、暇なだけだ」
指さす腕は、まだ下りない。私の返事を聞いても、馬車を見せ続けている。
「休暇だそうです。私のために取られたのではなくても、約束どおり来てくださいました」
御者はいつもの十時に来て、私たちの出発を知り、報告したという。ロベルト様は馬車を指さしたまま、しばらく腕を下ろさない。
◇
翌朝も本人が迎えに来てくれ、髪飾りの店へ向かう。棚には、色とりどりの布を結んだ留め具が並ぶ。布の柔らかな重なりへ、自然と目が吸い寄せられる。
「昨日聞いた色だ。留め具は、こちらの品と比べるか?」
「はい。髪に当ててから、選びたいです」
「こちらは留めが固い。毎日使うなら、こっちだな」
「毎日使うと、私、申しました?」
「普段使い、と昨日言った」
青い布を栗色の髪に当てる。色だけでなく、何のために欲しいのかまで覚えていてくれた。そのことが嬉しくて、鏡の中の頬が緩む。
「留めるところまで、見ていてくださいますか?」
「もちろん。君が選び終わるまで」
布を結んだ品を一つ選ぶ。彼が代金を払い、私は髪を挟んで留める。鏡から目が離れない。好きな色が、自分の髪にある。それを選び終わるまで、見ていてくれる人がいる。
明日もこの青を留めたいと思うと、髪飾りが急に自分のものになった気がする。
「以前から、誰かをかばったあとで笑う君が気になっていた」
「笑っていれば、誰も困らずに済むと思っていました」
鏡越しに目が合う。彼はそれ以上を言わず、私もそれ以上を聞かない。笑顔を作らずに見つめ返していても、今は怖くない。
帰宅すると、お母様の視線が私の髪で止まる。
「気に入ったのね。どんなところが嬉しいの?」
「私の好みを、ちゃんと覚えていてくださったのです」
「あなたのほうから、頼んだの?」
「はい。一緒に選んでくださいと」
彼が玄関へ向かうと、箱を両腕で抱えたロベルト様が応接間へ入ってくる。お母様に買物と帰宅時刻を聞いたそうだ。
「肩まで覆う宝石の首飾りだ。兄上の贈り物とは値段が違う」
ロベルト様は、私の目を引くように箱へ手を掛ける。
「開けてみろ。見れば値段が分かる」
「今日は、こちらの髪飾りを選んでまいりましたので」
「首飾りよりも、それがいいのか?」
「髪を留めて、毎日使えるものですから」
箱が卓へ置かれ、重い音が響く。蓋に掛かった手は、そこで止まる。
大きな箱は、蓋を閉じたままだった。
「兄上は、俺の相手を世話しているだけだ」
両親の前でそう言うロベルト様を置き、玄関のベルトルト様を呼び止める。世話役と言われたと伝えるうちに、自分が何を聞きたいのか、はっきりしてくる。
「家族の食事会で、私への気持ちを言葉にしてください」
視線が足元へ落ちる。頼んだそばから、条件を付け足したくなる。困らせたらどうしよう。嫌な顔をされたら、どうしよう。
「もし……」
手をゆっくり開く。付け足したい言葉も、その手のひらから落としてしまう。今度は、返事を待とう。
「何でもないです。楽しみにしています」
「みんなの前で、俺の口からきちんと話そう」
今度は顔を上げる。目を合わせると、ほっとした気持ちまで伝わってしまいそうだ。
「食事会が決まったら、明日の朝はお菓子も選びたいです」
「いつもの時刻に迎えよう」
夕方、在宅の両家に打診すると、すぐに承諾が揃う。明日は朝も夜も会える。返事の紙を胸に当てると、文字を読んだときより嬉しさがこみ上げる。
部屋の窓を開ける。夕方の風が頬を撫で、留めたままの髪飾りの布を揺らす。
◇
朝も彼の迎えで、食事会の菓子を選びに露店へ向かう。甘い匂いが近づくと、焦げた角を譲れないと言った顔が浮かび、口元が緩む。
「この前の店か?」
「はい。お好きな角のあるものを、選びましょう」
「先を越されたな。今日は俺の好みを選んでもらう番だな」
「では、いちばん焦げたものを」
「いやいや、焦げすぎると苦い。そこは俺が見る」
帰宅を挟み、夜も彼の迎えで食事会へ。ローゼンハイム家の食卓に、両家が並ぶ。同じ食卓でも、今夜は胸の奥が温かい。これから聞く言葉を思うと、落ち着かないほどに。
私は選んだ菓子の皿を、ベルトルト様の前に置く。彼のお父様が問う。
「ロベルトの言う世話とは、どういうつもりだ? 昨日、私にはそう説明していたが」
いきなり切り出されたお話に私は思わず固まった。
しかし、ベルトルト様はそんな私にやさしく微笑みかけ――――お父様を真っすぐ見つめた。
「彼女を好きだ。世話で通っているんじゃない。俺が会いたくて会っている」
食卓が静かになる。耳まで熱い。嬉しさが喉元までせり上がり、黙っているのがもどかしい。頼まれたわけではないのに自然と言葉がこぼれた――――。
「私も好きです」
「あらあら、まあまあ。では今夜は、そのお話ですわね」
「ちょっと待て! 甘えろと言ったのは俺だ」
ロベルト様が身を乗り出すが、胸に残る嬉しさを、今度は引っ込める気になれない。
「『甘えてくる女のほうが可愛い』と言いましたよね。だから甘えるようになりました。でも、相手まで指定される覚えはありません」
「相手は、俺の兄だぞ」
「そうですよ? 私が選びました」
「くっ! 勝手にしろ!」
ロベルト様は席を離れる。私たちが辞去するとき、玄関で見送るのは彼のお母様だけだ。外套を受け取りながら、ベルトルト様に頼む。
「普段のお住まいも、見せていただけますか?」
「明日、案内しよう」
「侍女を、連れてまいります」
「そうしてくれ。それなら母上も安心する」
扉が開き、外の空気が頬を撫でる。熱の残る肌に、その涼しさが心地いい。
「またいらして。明日のことは、わたくしが聞いておきますわ」
「はい。今日はありがとうございました」
帰宅しても、好きだと言ったときの彼の顔が浮かぶ。部屋が静かになるほど、その声もはっきり思い出せる。私もあの人と暮らしたい。頼んで叶えてもらうだけでは、足りない。明日、自分から結婚をお願いしよう。
◇
翌朝、彼の迎えで侍女と彼の家へ。普段の暮らしを見せてもらえるのだと思うと、訪れるだけで胸が弾む。
「どこを見たい?」
「ベルトルト様が、普段くつろぐところを見たいです」
「応接室だ。書き物も昼寝も、ここでする」
「昼寝も、ですか?」
「騎士だって昼寝くらいする」
応接室で隣に座ってみる。長椅子は、二人で座ると少し狭い。肩の近さを意識するだけで、何でもない時間の続きを想像してしまう。彼が書き物をする間も、こんなふうに隣にいられたら。
来客の知らせに玄関へ出ると、ロベルト様がいる。
「母上から、今日は兄上の家へ行くと聞いた」
「はい。私からお願いしました」
「君が誰かに頼むなんて、聞いたことがない」
「安心して頼める相手が、いませんでしたので」
ベルトルト様に話があるそうだが、その目は私を捉えたまま離れない。
「昨日の返事も、兄上に言わされているんだろう?」
「……え?」
いきなりの邪推に私は言葉を失ってしまう。
私はベルトルト様を見つめた。昨夜から決めていたお願いを、今、聞いてほしい。この長椅子で、これからも隣に座りたい。
声にするより先に、手が彼を求め、彼の方に伸びていた。
「ベルトルト様。今日はお伝えしたいことがあってまいりました」
「え?」
「一生私の隣にいてください」
「そ、それは……」
彼が息をのむ。軽口を返してくれる口が、言葉を探すように閉じる。差し出した手の先が、急に心細い。
「驚いた。どうしてだろう、今はうまい返しが出てこない」
「お返事が聞きたいです」
「うん。俺も同じ気持ちだ。君と結婚したい」
差し出した私の手を、彼が両手で包んだ。
「これからも欲しいものを教えておくれ」
温かい。指の強張りが、彼の手の中でゆっくりほどけていく。頷くと、もう次のお願いが浮かぶ。この温かさを覚えたまま、明日も会いたい。手は、包まれたまま。
「明日のお迎えでは、お茶を飲んでいってください」
「分かった。君の家で、ゆっくりしよう」
「ちょっと待て! 本当に、兄上が言わせたわけじゃないのか?」
「私が、自分で言いました」
ロベルト様は、それきり口を開けたまま玄関の脇に立っている。私が自分から望んだところを、いちばん近くで見ていた人だ。
帰宅して両親に報告する。彼も親へ知らせるという。夕方、母が首飾りの箱の回収を頼み、ロベルト様から翌朝来ると返事が届く。
◇
翌朝、迎えに来てくれた彼と応接間へ入る。母が取り次いだロベルト様が首飾りの箱を叩き、乾いた音を立てる。
「その髪飾りを、今日も着けているのか?」
「普段使いに選んだものですから」
「首飾りも、一度は着けてみろよ」
「肩まで覆うものは、お菓子を食べるときに邪魔になります」
髪の青に触れると、ロベルト様は蓋を開けずに箱を抱える。去り際にも、私の髪をもう一度見ていた。
私は杯へ伸ばしかけた手を止め、隣へ向き直る。自分で注ぐほうが早い。誰の手も止めずに済むから、いつもそうしてきたが――わずかに息を整える。今日は、頼む。
「あなたに、お茶を注いでほしいです」
「喜んで……え」
ベルトルト様が茶を注ぐ。湯気が柔らかく立ち、茶の香りが鼻先まで届く。その向こうで、彼が少し照れた顔をする。
「その菓子を分けてくれるか? 君と一緒に食べたい」
母の用意した焼き菓子を一つ、半分ずつに分ける。焼けた表面が指先でさくりと割れる。角の焦げは、片方に多い。
「では、角はお好きなほうをどうぞ」
「君も選んでくれ。俺ばかり得をする」
彼が皿を、私のほうへ押す。目の前に戻ってきた菓子を見て、胸の奥がくすぐったい。私も、好きなほうを選んでいい。
「では、こちらを」
「こっちのほうが、よく焦げている」
「お願いして、いただいたものですから」
「降参だ」
私も角を選び、彼と一緒に口へ運ぶ。香ばしいほろ苦さのあとから、甘みが広がる。頼んで、頼まれて、同じ菓子を食べている。この人にも、こんなふうに嬉しくなってほしい。
「今度のお願いは、私のほうから。あなたにも、私を頼ってほしいのです」
「あぁ、そうだな。それが夫婦と言うものだろう」
「ふふっ、お願いしますわ」
「あぁ」




