1章5話 記憶の残滓
宿舎の扉を押し開けると、
中は外観よりもずっと整っていた。
木の床は磨かれ、
壁には乾いた薬草が吊るされている。
血と鉄の匂いが染みついた戦場とは違い、
ここには“生活の匂い”があった。
案内役の兵士は、男を部屋の前まで連れていくと、
ぎこちない動きで扉を開けた。
「……ここを使え。空き部屋だ」
男は丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。助かるよ」
その礼儀正しさに、兵士は少しだけ肩の力を抜いた。
男は部屋に一歩入り、
寝台と机を見渡したあと、ふと兵士の方へ振り返った。
「ねえ、ひとつ頼んでもいい?」
兵士は反射的に身構えた。
「……なんだ」
男は柔らかく微笑んだ。
「水と、手ぬぐいをお願いしたい。
戦場から戻ったら、まず身体を拭くのが癖でね。
血の匂いが残ってると、どうにも落ち着かないんだ」
その言い方は、まるで普通の兵士のようだった。
兵士は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「……ああ。分かった。すぐ持ってくる」
「ありがとう」
男の声は穏やかで、
その柔らかさが逆に兵士を戸惑わせた。
兵士が去り、扉が閉まる。
男は部屋の中をゆっくりと見渡した。
粗末だが清潔な寝台。
窓から差し込む夕暮れの光。
遠くから聞こえる鍛冶場の金属音。
煮込みの匂い。
子どもたちの笑い声。
「……いいね。こういう場所、久しぶりだ」
その声はどこか懐かしさを含んでいた。
まるで、
“兵士だった頃の身体の記憶”が
静かに蘇っているかのように。




