毒殺されたわたくしは、来世で幸せになりますわ
──それは、長く続いた病の果てに訪れた最期だった。
侯爵家に嫁いだエリセは、幼い頃から体が弱かった。
けれど、それは生まれつきの虚弱体質というだけで、若くして命を落とすほどではなかった。
それでも、結婚してからというもの、彼女の身体は日ごとに衰えていった。
食欲は失われ、肌は青ざめ、髪からは艶が消えていく。
医師は「体質の問題でしょう」と首をかしげ、侍女たちは「奥様はご病気なのだ」と囁いた。
エリセ自身も、そう信じていた。
自分はただ病に侵され、静かに命を散らすのだと。
高熱にうなされ、息をするたび胸が締めつけられる。
それでも枕元には、優しい手があった。
政略結婚の夫──ルドルフ。
体調が悪いと聞けば、遠方からでも駆けつけ、彼女の手を握ってくれたという。
意識が朦朧としていたエリセは、その姿を自分の目で確かめたことはなかった。
けれど、執事のノアが「旦那様はお傍を離れませんでした」と伝えてくれた言葉を信じていた。
霞む意識の中でも、その温もりだけは確かだった。
痩せ細った自分の手を、壊れ物のように包み込む掌。
(……この温もりに、救われますわ)
そう思いながら、エリセは静かに息を吐いた。
夜が更け、長い苦痛がようやく終わる。
最後に感じたのは──彼の手の温かさ。
そのぬくもりを胸に刻み、エリセの人生は静かに幕を閉じた。
……はずだった。
◇
──目を覚ましたとき、エリセは自分がどこにいるのかわからなかった。
痛みも苦しみもない。けれど、手を伸ばしても誰にも触れられず、声をあげても届かない。
(……わたくし、死んだのですわね)
穏やかな諦めとともに、そう理解した。
安らかに逝ったはずなのに、何故か天へは昇れず、屋敷の廊下を彷徨っていた。
──そして、聞いてしまった。
「……本当に恐ろしいことをなさいましたね、旦那様」
声の主は、侍女マルディだった。
「何のことだ」
問う夫の声。
その瞬間、彼女の霊は凍りついた。
「……奥様のお食事に毒を仕込めと命じられたことです。震えが止まりませんでしたが……大金をいただきましたから」
ぞわり、と背筋に冷気が走る。
(毒──? では、あれは病ではなく……?)
マルディはうつむいたまま続けた。
「旦那様にとって、このご結婚は、お父上のご命令によるものでした。逆らうことなど、許されない。離縁などすれば“親命に背いた”と非難され、世間からの評判を損なう。だからこそ──本当にお慕いしているあの方と結ばれるためには、奥様に……消えていただくしかない、と」
「黙れ」
低く押し殺したルドルフの声。
その一言が、確信へと変わる。
(……わたくしは、殺されたのですか)
あの手の温もりも、優しい微笑も──すべては嘘。
唇を震わせ、彼女は呟いた。
『……許しませんわ』
その瞬間、屋敷の空気が微かに揺らいだ。
◇
夜更け。
侯爵邸の奥、マルディの部屋に──冷たい風が吹き抜けた。
窓は固く閉ざされている。それでも蝋燭の炎がゆらりと揺れ、影が歪む。
水差しが震え、机の上の書類が宙を舞う。椅子が勝手に引かれ、インク壺が床に落ちて、黒い涙のような染みを広げた。
そして──他に誰もいないはずの部屋で、声がした。
『……マルディ』
女の声。
やさしく囁くようでいて、その奥に氷の刃を潜ませた響き。
「ひ、ひぃっ……! だ、誰……!?」
マルディは慌てて蝋燭を手に取るが、炎は一息で掻き消された。
暗闇の中、耳元を撫でるような吐息が囁く。
『どうして……わたくしを、殺したの?』
マルディの足元から、冷気が這い上がる。床板が軋み、壁の鏡が、ぱきり──と音を立ててひび割れた。
その鏡の中に、彼女は見た。
透きとおる白いドレス。虚ろな瞳。そして、微笑むエリセの顔を。
「お、奥さまっ!? ち、違うんですっ……わ、私は……! 命じられただけで──!」
『命じられただけ? ……でも、毒を混ぜたのは、誰?』
「ひぃ…っ!」
冷気がマルディの足を絡め取る。
『わたくし……とても苦しかったのよ。あなたが“味見”をしてくれたら──どんなに良かったことでしょうね』
「や、やめて……! 奥さま……っ、許してぇぇ!!」
次の瞬間、部屋の中の器という器が一斉に割れ、破片の雨が降り注ぐ。
マルディは悲鳴を上げ、髪を振り乱して這いずった。足は凍りついたように動かない。
『……あなたの手が震えていたこと、覚えていますわ。いつも“病人食にしては味が濃い”と申しましたのに──笑っていましたわね』
「ひぃっ……やめ、やめて……! 私は、悪く……!」
『いいえ。あなたが──悪いのですわ』
エリセの微笑みとともに、宙に毒の小瓶が現れた。銀色の蓋が、カチリと音を立てて開く。
『今度は、あなたの番ですの』
小瓶が静かに傾き、どろりとした液体がマルディの唇へ近づいていく。
「や、やめて……! 私は悪くない……! 奥さま、お願い、やめて……! わだじは……やめで──ッ!!」
絶叫が響いた。
次の瞬間、マルディの瞳から光が消える。
唇は微かに動き続けていたが、そこからこぼれるのは意味を失った音だけだった。
──翌朝。
侍女のマルディは廊下の隅で膝を抱え、壁を見つめていた。
髪は真っ白に変わり、唇は血の気を失い、ただ空ろな笑みを浮かべていた。
誰も理由を知らなかった。
ただ一人、執事のノアを除いて──。
◇
悪霊が出る──そんな噂が広まり、ついに侯爵は一人の老いた呪術士を呼び寄せた。霊現象を鎮めるためである。
重苦しい空気の中、執事のノアは静かに呪術士の男へ歩み寄った。
「……この現象の原因、私には心当たりがあります」
「ほう?」
呪術士は細い目をわずかに細め、興味深げに顎を撫でる。
「これは……亡くなられたエリセ様の霊の仕業です」
「証拠はあるのか?」
「ありません。しかし、私にはエリセ様のお姿が見えるのです」
ノアは淡々と告げた。
「奥様は、この世に深い未練を残しておられる。ですから……無理やり鎮めるのではなく、私に──いえ、“私たち”に協力していただけませんか?」
呪術士は、ノアの瞳をじっと見つめた。しばしの沈黙ののち、低く問う。
「……だが、霊が鎮まらねば、わしへの報酬は取り消しになるやもしれん」
「その点は、私に考えがあります。エリセ様には、時がくるまで何もせぬように、お伝えします。そうすれば、霊現象が収まり、皆が“あなたのおかげだ”と勘違いするでしょう。どうか……お力を貸してください」
長い沈黙ののち、呪術士はふっと息を吐いた。
「……分かった。お主に協力しよう。ただし、霊を無理にこの世に留めれば、お主も無事では済まぬ。この件が終われば、わしが呪いをかけることになるだろう」
ノアは一瞬も迷わず、静かに頷いた。
「はい。覚悟はできています」
その言葉を聞き、呪術士はわずかに口の端を上げた。
「──よかろう。ならば、真実を語らせてやるとしよう」
◇
──数か月後。
侯爵邸の大広間は、華やかな祝宴のざわめきに満ちていた。
ルドルフは新たな婚約者イヴリナを隣に立たせ、貴族たちに微笑みを向ける。
「この日を迎えられたこと、感謝いたします。──亡き妻エリセも、きっと我らの幸福を祝福してくれているでしょう」
拍手が鳴り響いた。
だが、ノアと呪術士だけは沈黙していた。老人は懐から護符を取り出し、低く呪を唱える。
──燭台の炎が揺らめいた。
イヴリナの身体がびくりと震え、瞳が白く濁る。
次に開かれた唇から漏れたのは、別人の声だった。
『……ルドルフ様』
空気が凍りつく。
それは紛れもなく、亡きエリセの声だった。
「イヴリナ……? 何を──」
『どうして、わたくしを殺したのですか……?』
ざわめきが止み、大広間が静寂に包まれる。
病死したはずの侯爵夫人の声が、婚約者の口から響いていた。
「馬鹿な! 誰か、止めろ──!」
ルドルフが叫ぶが、呪術士は静かに杖を突いた。
「聞け。これは呪いではない。真実を語る声だ」
イヴリナの頬を涙が伝う。
その涙は、もはや彼女自身のものではなかった。
『ルドルフ様……あなたを信じていました。けれど、あなたが……わたくしを殺していたのですね』
「やめろッ!! 俺じゃない……あれはマルディが勝手にやったんだ!」
イヴリナの唇が再びゆっくりと動いた。
『……“マルディが勝手にやった”?』
声が低く響く。見守る貴族たちの顔が次々と蒼白に染まる。
『あなたが命じたのです。──“病死に見せかけろ”と。“毒を仕込め”と。わたくしは確かに聞きました』
「違うッ! 俺はイヴリナと結婚するために……そ、そんなつもりじゃなかったんだ!」
ルドルフは喚き、机を叩いた。声は裏返り、額には冷や汗がにじむ。
『“そんなつもりじゃなかった”……?』
イヴリナの体が震え、白い手が拳を握る。
その瞬間、空気を裂くような叫びが響いた。
『ふざけるのも大概になさいッ!!』
雷鳴のような声が大広間に轟き、燭台の炎が吹き飛ぶ。
窓ガラスが次々と割れ、冷たい風が渦を巻いた。
貴族たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。
『わたくしを殺しておいて、“そんなつもりじゃなかった”? ──あなたには、もはや生きる資格すらございませんわね』
ルドルフの足元で、銀の杯が転がった。毒の小瓶が宙に浮かび、見えない手に導かれるようにして杯へと注がれる。淡い青の液体が、ゆらりと光を揺らめかせた。
「や、やめろ……やめてくれ……っ!」
『さあ──あなたも、わたくしと同じ苦しみを味わいなさい』
毒の杯が唇に迫った瞬間、ルドルフは恐怖に耐えきれず、その場にへたり込んだ。
「ひぃぃぃ……!」
情けない声を上げた瞬間、意識は遠のき、口から白い泡を吐く。
そして──気がつくと、彼のズボンは濡れ、恥ずかしさと恐怖が入り混じった惨めな痕跡を残していた。
やがて、静寂。
イヴリナの身体から白い光がふわりと抜け出し、女の姿を形づくる。
──エリセ。
彼女は倒れたルドルフを見下ろし、しばし黙っていた。
『……もういいわ。これ以上、見たくありませんもの』
その顔には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、長く閉ざされていた悲しみと、解放の安らぎだけが宿っていた。
ゆっくりと顔を上げたとき──視線の先に、ひとりの男が立っていた。
ノア。
『……あなた、だったのですね。わたくしの手を……握ってくださっていたのは』
エリセは微笑み、ノアの手に透きとおる掌を重ねた。
『ありがとう、ノア。──もう、大丈夫ですわ』
光が彼女を包み、白い花びらのような光粒が舞い上がる。
エリセの姿は静かに天へと昇り、やがて消えていった。
残されたノアは、ひとり膝をつき、深く頭を垂れる。
「……安らかに、お休みくださいませ、エリセ様」
その瞬間、屋敷を覆っていた冷気がゆるやかに溶け、春の陽だまりのような穏やかな温もりが広がっていった。
◇
およそ二百年の時が流れ、侯爵家の屋敷は石造りの図書館へと姿を変えていた。
その静かな書架のあいだで、青年が埃を払っている。穏やかな瞳をした司書だ。
「あの本、取ってくださいます?」
声をかけたのは、偶然この図書館を訪れた女性。
彼女が微笑むと、青年は思わず息を呑んだ。どこか懐かしいような、その笑顔に胸が熱くなる。
「……会ったこと、ありましたっけ?」
「さあ……でも、初めてな気はしませんね」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
その瞬間、窓から柔らかな春風が吹き込み、積もっていた埃が光の粒となって舞い上がる。
──まるで、二百年前の誰かが祝福しているかのように。
青年は無意識のまま、彼女の手を取った。
触れた瞬間、胸の奥の空白が静かに埋まっていく。
理由はわからない。けれど、確かに感じた。
──この人を、ずっと探していた。
呪術士の残した“呪い”──それは、二人の魂を永遠に結びつける呪いだった。
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