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異世界恋愛短編

毒殺されたわたくしは、来世で幸せになりますわ

作者: 喜田 花恋

 ──それは、長く続いた病の果てに訪れた最期だった。


 侯爵家に嫁いだエリセは、幼い頃から体が弱かった。


 けれど、それは生まれつきの虚弱体質というだけで、若くして命を落とすほどではなかった。


 それでも、結婚してからというもの、彼女の身体は日ごとに衰えていった。


 食欲は失われ、肌は青ざめ、髪からは艶が消えていく。


 医師は「体質の問題でしょう」と首をかしげ、侍女たちは「奥様はご病気なのだ」と囁いた。


 エリセ自身も、そう信じていた。


 自分はただ病に侵され、静かに命を散らすのだと。


 高熱にうなされ、息をするたび胸が締めつけられる。


 それでも枕元には、優しい手があった。


 政略結婚の夫──ルドルフ。


 体調が悪いと聞けば、遠方からでも駆けつけ、彼女の手を握ってくれたという。


 意識が朦朧としていたエリセは、その姿を自分の目で確かめたことはなかった。


 けれど、執事のノアが「旦那様はお傍を離れませんでした」と伝えてくれた言葉を信じていた。


 霞む意識の中でも、その温もりだけは確かだった。


 痩せ細った自分の手を、壊れ物のように包み込む掌。


 (……この温もりに、救われますわ)


 そう思いながら、エリセは静かに息を吐いた。


 夜が更け、長い苦痛がようやく終わる。


 最後に感じたのは──彼の手の温かさ。


 そのぬくもりを胸に刻み、エリセの人生は静かに幕を閉じた。


 ……はずだった。



 ──目を覚ましたとき、エリセは自分がどこにいるのかわからなかった。


 痛みも苦しみもない。けれど、手を伸ばしても誰にも触れられず、声をあげても届かない。


 (……わたくし、死んだのですわね)


 穏やかな諦めとともに、そう理解した。


 安らかに逝ったはずなのに、何故か天へは昇れず、屋敷の廊下を彷徨っていた。


 ──そして、聞いてしまった。


「……本当に恐ろしいことをなさいましたね、旦那様」


 声の主は、侍女マルディだった。


「何のことだ」


 問う夫の声。

 

 その瞬間、彼女の霊は凍りついた。


「……奥様のお食事に毒を仕込めと命じられたことです。震えが止まりませんでしたが……大金をいただきましたから」


 ぞわり、と背筋に冷気が走る。


 (毒──? では、あれは病ではなく……?)


 マルディはうつむいたまま続けた。


「旦那様にとって、このご結婚は、お父上のご命令によるものでした。逆らうことなど、許されない。離縁などすれば“親命に背いた”と非難され、世間からの評判を損なう。だからこそ──本当にお慕いしているあの方と結ばれるためには、奥様に……消えていただくしかない、と」


「黙れ」


 低く押し殺したルドルフの声。


 その一言が、確信へと変わる。


(……わたくしは、殺されたのですか)


 あの手の温もりも、優しい微笑も──すべては嘘。


 唇を震わせ、彼女は呟いた。


『……許しませんわ』


 その瞬間、屋敷の空気が微かに揺らいだ。



 夜更け。


 侯爵邸の奥、マルディの部屋に──冷たい風が吹き抜けた。


 窓は固く閉ざされている。それでも蝋燭の炎がゆらりと揺れ、影が歪む。


 水差しが震え、机の上の書類が宙を舞う。椅子が勝手に引かれ、インク壺が床に落ちて、黒い涙のような染みを広げた。


 そして──他に誰もいないはずの部屋で、声がした。


『……マルディ』


 女の声。


 やさしく囁くようでいて、その奥に氷の刃を潜ませた響き。


「ひ、ひぃっ……! だ、誰……!?」


 マルディは慌てて蝋燭を手に取るが、炎は一息で掻き消された。


 暗闇の中、耳元を撫でるような吐息が囁く。


『どうして……わたくしを、殺したの?』


 マルディの足元から、冷気が這い上がる。床板が軋み、壁の鏡が、ぱきり──と音を立ててひび割れた。


 その鏡の中に、彼女は見た。


 透きとおる白いドレス。虚ろな瞳。そして、微笑むエリセの顔を。


「お、奥さまっ!? ち、違うんですっ……わ、私は……! 命じられただけで──!」


『命じられただけ? ……でも、毒を混ぜたのは、誰?』


「ひぃ…っ!」


 冷気がマルディの足を絡め取る。


『わたくし……とても苦しかったのよ。あなたが“味見”をしてくれたら──どんなに良かったことでしょうね』


「や、やめて……! 奥さま……っ、許してぇぇ!!」


 次の瞬間、部屋の中の器という器が一斉に割れ、破片の雨が降り注ぐ。


 マルディは悲鳴を上げ、髪を振り乱して這いずった。足は凍りついたように動かない。


『……あなたの手が震えていたこと、覚えていますわ。いつも“病人食にしては味が濃い”と申しましたのに──笑っていましたわね』


「ひぃっ……やめ、やめて……! 私は、悪く……!」


『いいえ。あなたが──悪いのですわ』


 エリセの微笑みとともに、宙に毒の小瓶が現れた。銀色の蓋が、カチリと音を立てて開く。


『今度は、あなたの番ですの』


 小瓶が静かに傾き、どろりとした液体がマルディの唇へ近づいていく。


「や、やめて……! 私は悪くない……! 奥さま、お願い、やめて……! わだじは……やめで──ッ!!」


 絶叫が響いた。


 次の瞬間、マルディの瞳から光が消える。


 唇は微かに動き続けていたが、そこからこぼれるのは意味を失った音だけだった。


 ──翌朝。


 侍女のマルディは廊下の隅で膝を抱え、壁を見つめていた。


 髪は真っ白に変わり、唇は血の気を失い、ただ空ろな笑みを浮かべていた。


 誰も理由を知らなかった。

 

 ただ一人、執事のノアを除いて──。



 悪霊が出る──そんな噂が広まり、ついに侯爵は一人の老いた呪術士を呼び寄せた。霊現象を鎮めるためである。


 重苦しい空気の中、執事のノアは静かに呪術士の男へ歩み寄った。


「……この現象の原因、私には心当たりがあります」


「ほう?」


 呪術士は細い目をわずかに細め、興味深げに顎を撫でる。


「これは……亡くなられたエリセ様の霊の仕業です」


「証拠はあるのか?」


「ありません。しかし、私にはエリセ様のお姿が見えるのです」


 ノアは淡々と告げた。


「奥様は、この世に深い未練を残しておられる。ですから……無理やり鎮めるのではなく、私に──いえ、“私たち”に協力していただけませんか?」


 呪術士は、ノアの瞳をじっと見つめた。しばしの沈黙ののち、低く問う。


「……だが、霊が鎮まらねば、わしへの報酬は取り消しになるやもしれん」


「その点は、私に考えがあります。エリセ様には、時がくるまで何もせぬように、お伝えします。そうすれば、霊現象が収まり、皆が“あなたのおかげだ”と勘違いするでしょう。どうか……お力を貸してください」


 長い沈黙ののち、呪術士はふっと息を吐いた。


「……分かった。お主に協力しよう。ただし、霊を無理にこの世に留めれば、お主も無事では済まぬ。この件が終われば、わしが呪いをかけることになるだろう」


 ノアは一瞬も迷わず、静かに頷いた。


「はい。覚悟はできています」


 その言葉を聞き、呪術士はわずかに口の端を上げた。


「──よかろう。ならば、真実を語らせてやるとしよう」



 ──数か月後。


 侯爵邸の大広間は、華やかな祝宴のざわめきに満ちていた。


 ルドルフは新たな婚約者イヴリナを隣に立たせ、貴族たちに微笑みを向ける。


「この日を迎えられたこと、感謝いたします。──亡き妻エリセも、きっと我らの幸福を祝福してくれているでしょう」


 拍手が鳴り響いた。


 だが、ノアと呪術士だけは沈黙していた。老人は懐から護符を取り出し、低く呪を唱える。


 ──燭台の炎が揺らめいた。


 イヴリナの身体がびくりと震え、瞳が白く濁る。


 次に開かれた唇から漏れたのは、別人の声だった。


『……ルドルフ様』


 空気が凍りつく。

 

 それは紛れもなく、亡きエリセの声だった。


「イヴリナ……? 何を──」


『どうして、わたくしを殺したのですか……?』


 ざわめきが止み、大広間が静寂に包まれる。


 病死したはずの侯爵夫人の声が、婚約者の口から響いていた。


「馬鹿な! 誰か、止めろ──!」


 ルドルフが叫ぶが、呪術士は静かに杖を突いた。


「聞け。これは呪いではない。真実を語る声だ」


 イヴリナの頬を涙が伝う。


 その涙は、もはや彼女自身のものではなかった。


『ルドルフ様……あなたを信じていました。けれど、あなたが……わたくしを殺していたのですね』


「やめろッ!! 俺じゃない……あれはマルディが勝手にやったんだ!」


 イヴリナの唇が再びゆっくりと動いた。


『……“マルディが勝手にやった”?』


 声が低く響く。見守る貴族たちの顔が次々と蒼白に染まる。


『あなたが命じたのです。──“病死に見せかけろ”と。“毒を仕込め”と。わたくしは確かに聞きました』


「違うッ! 俺はイヴリナと結婚するために……そ、そんなつもりじゃなかったんだ!」


 ルドルフは喚き、机を叩いた。声は裏返り、額には冷や汗がにじむ。


『“そんなつもりじゃなかった”……?』


 イヴリナの体が震え、白い手が拳を握る。

 その瞬間、空気を裂くような叫びが響いた。


『ふざけるのも大概になさいッ!!』


 雷鳴のような声が大広間に轟き、燭台の炎が吹き飛ぶ。


 窓ガラスが次々と割れ、冷たい風が渦を巻いた。


 貴族たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。


『わたくしを殺しておいて、“そんなつもりじゃなかった”? ──あなたには、もはや生きる資格すらございませんわね』


 ルドルフの足元で、銀の杯が転がった。毒の小瓶が宙に浮かび、見えない手に導かれるようにして杯へと注がれる。淡い青の液体が、ゆらりと光を揺らめかせた。


「や、やめろ……やめてくれ……っ!」


『さあ──あなたも、わたくしと同じ苦しみを味わいなさい』


 毒の杯が唇に迫った瞬間、ルドルフは恐怖に耐えきれず、その場にへたり込んだ。


「ひぃぃぃ……!」


 情けない声を上げた瞬間、意識は遠のき、口から白い泡を吐く。


 そして──気がつくと、彼のズボンは濡れ、恥ずかしさと恐怖が入り混じった惨めな痕跡を残していた。


 やがて、静寂。


 イヴリナの身体から白い光がふわりと抜け出し、女の姿を形づくる。

 

 ──エリセ。


 彼女は倒れたルドルフを見下ろし、しばし黙っていた。


『……もういいわ。これ以上、見たくありませんもの』


 その顔には、怒りも憎しみもなかった。


 ただ、長く閉ざされていた悲しみと、解放の安らぎだけが宿っていた。


 ゆっくりと顔を上げたとき──視線の先に、ひとりの男が立っていた。


 ノア。


『……あなた、だったのですね。わたくしの手を……握ってくださっていたのは』


 エリセは微笑み、ノアの手に透きとおる掌を重ねた。


『ありがとう、ノア。──もう、大丈夫ですわ』


 光が彼女を包み、白い花びらのような光粒が舞い上がる。


 エリセの姿は静かに天へと昇り、やがて消えていった。


 残されたノアは、ひとり膝をつき、深く頭を垂れる。


「……安らかに、お休みくださいませ、エリセ様」


 その瞬間、屋敷を覆っていた冷気がゆるやかに溶け、春の陽だまりのような穏やかな温もりが広がっていった。



 およそ二百年の時が流れ、侯爵家の屋敷は石造りの図書館へと姿を変えていた。


 その静かな書架のあいだで、青年が埃を払っている。穏やかな瞳をした司書だ。


「あの本、取ってくださいます?」


 声をかけたのは、偶然この図書館を訪れた女性。


 彼女が微笑むと、青年は思わず息を呑んだ。どこか懐かしいような、その笑顔に胸が熱くなる。


「……会ったこと、ありましたっけ?」


「さあ……でも、初めてな気はしませんね」


 二人は顔を見合わせ、静かに笑った。


 その瞬間、窓から柔らかな春風が吹き込み、積もっていた埃が光の粒となって舞い上がる。


 ──まるで、二百年前の誰かが祝福しているかのように。


 青年は無意識のまま、彼女の手を取った。


 触れた瞬間、胸の奥の空白が静かに埋まっていく。


 理由はわからない。けれど、確かに感じた。


 ──この人を、ずっと探していた。


 呪術士の残した“呪い”──それは、二人の魂を永遠に結びつける呪いだった。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
喜田さまの巧みな書きぶりに、他の作品とは異なる感覚に新鮮味を感じております。 悲しみ、執念のような闇が渦まく雰囲気にそっと読み進めていきました。 そこには黒い気持ちだけではない、伝えたかったのに伝わら…
恐い……凄く恐い作品ですね。 特に前半亡霊の妻が毒殺されたと知った瞬間。 昔みた映画「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンを思い出しました。 そのくらい心理描写と情景描写が見事でした。 執事のノアだけ…
よき。 ただ、侍女の説明パートは、全部セリフで一気に語らせず、内容はこうだった―― みたいな形にした方が個人的にはよかったかなと。ワンターンで一気に事件の背景全部語りすぎやんとなりました(私もやりが…
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