96.遠い日③ -モニスス・トゥーデクテ-
読了目安 5~8分
村の外周で、たわわに麦穂を揺らす段々畑。
魔法の才に抜きん出ていたとある先祖が、妖獣を内側に入れないために作ったという結界式を守る祠。
その結界がかけられた石積みの高い砦。
「おや、おひいさまじゃないか」「あら、フィーゼィリタスさまどちらへ」
その脇を駆け抜けるたび、すれ違う者たちに耳と敬意を、向けられる。普段は笑顔で返すそんな声たちさえ置き去りにして、フィーは砦にかかる跳ね橋を抜ける。
番所に積めた耳長族の若者が驚くのをよそに、彼の頭上を青毛に飛び越えさせた。
村砦の外にでれば分かれ道。上に登る坂の先には、広い修練場と墓所があるが、無意識に目を背け、フィーは下の湖へと連なる道を選んだ。
そのあたりからはなりふり構わず、フィーは雪分ケの背に揺られながら大声で泣きはじめた。
どうして私ではいけないのだろう。
そう思うのと同時に、十人のために一人を殺す決断を、と話す父の言葉が、フィーの頭から離れてくれない。
(父さんの言うこと、は、いつも正しいことばっかり……)
そこからだいぶ、緩やかな山道を道なりに下った。
けれど、最後の涙が森の風に乾いてしまう頃になって、フィーはようやく、自分が着せてもらった晴れ着のまま飛び出して来たことに気付く。
ずっと走っている内に、袖の中を抜けていく昼下がりの風が寒くなってきた。長袖を着ずに雪分ケで長く走ると、風は夏でも体温を奪うのだ。
「ん、さむい……」
身震いしながら一度、森の道半ばで青毛を立ち止まらせる。仲良く鳴き交わす鳥の囀りに、フィーは孤独を強める。
ぶふふん! と息巻く青毛の細長い首をぽんぽんと撫でてやりながらも……それでもやはり今は、家には帰りたくなかった。
「どうしよう、青毛」
問いかけに反り耳がこちらを向くが、言葉が返ってくることも勿論ない。フィーは僅かに考えて、それからすぐに、頼れる宛が一人だけあることを思い出していた。
◆
そこから四半時も立たない。しかし時刻はすでに空が茜に染まり出す、少し手前になっていた。
フィーは敷地の前に雪分ケを繋ぎ、綺麗な花の咲く庭の中を、小さな脚で真っ直ぐ横切っていく。
すぐ目の前の玄関には、古ぼけた観音開きの鎧戸。ふんっ! と背伸びをするとどうにか、来訪を知らせるための小さい鐘を鳴らす紐に手が届いた。
りりりりりん!
「おやおや、どちらさまかな? 受け付けるのならば、今日はもう薬の処方だけだよ……」
すぐに、ドアの向こうから優しげで、しかし一本芯の通ったような声が響いた。
「私だよ」
するとドアの内側で、声は少し驚いたような色を見せる。
「おやおや、フィーゼィ? おかしいな、今日はそちらに行く用事はなかったと思ったのだけれどね……?」
ガチャンと開く扉。
「――――吾がうっかり忘れていたのかな?」
「お師匠さまぁーっ!」
開かれた扉の隙間。明瞭になる声も、それ以上の挨拶も無視して、フィーはその声の主の懐に、思い切り抱きつきに行く。冷涼な洞窟の中で嗅ぐ水のような匂いと、少しの薬臭さがフィーの顔を埋める。
「んんんん? フィーゼィ……?」
抱きつかれた方も、驚いたにちがいない。額から生える、天に向かい捻れた長い二本角をかしげ、陶磁のような白い肌に埋まる切れ長の瞳を丸くする。
美しい灰色の長髪と、髪の一部だけで編まれた長い三つ編みが、彼女の俯くのに合わせて肩からはらりとこぼれ落ちた。
首から提げられた組みひもの先、そこそこ大きな胸の間には、大きな六角柱の水色の石が煌めく。魔法使いが自らの魔力で魔法を使う時に触媒とする魔石を、首に提げられる形に装飾した〈提げ石〉である。
一方のフィーはそこで、もう一度堰を切ったように泣きはじめていた。別の緊張と不安の糸が、そこで全部ほどけてしまったのだ。
「あ、うう、お、お師匠さまぁぁ……!」
うわーん! と玄関先に響き出す嗚咽を全部受け止めながらも、エナタルの地に住まう魔女、モニスス・トゥーデクテは、
「ええ……?」
わずかに困惑した様子で、フィーの頭を撫ではじめるのだった。
◆
「――ふむ、纏めるならば、あの生真面目バカが……、ああ、ぬしの父のタリケラスがひどい、ということだね?」
それからまた取り留めもなく涙目で話した言葉を、モニススは全部受け止めてくれた。
書斎の低い卓の前で、ずびりと鼻を鳴らしながら静かに一つ頷き返す。布張りの椅子の座り心地は良く、話を聞いてもらえて、少し落ち着く。ただ、部屋の中は紙や本が散らかり、雑然としていて汚かった。
フィーは、今はすこし、むすっとした顔で唇を尖らせている。
「そうなの。父さまひどい……」
「まったくだねえ。あの子は、実直なのはいいが駆け引きが下手すぎだね。まあ、それは小さい頃からなのだけれどね……良くぬしの母君とも添えたものだと感心するよ……」
と、そこでそこそこ幅のある机越しに、体の比率に対してやけに長い腕が伸びてくる。
「しかしねフィーゼィ、あれがぬしを愛しているのは吾の目にも明らかだよ……?」
言いながら、彼女は前向きに倒れているフィーの耳の間を撫でる。モニススは手指も長く、指の間には小さい水掻きがある。ゆったりした長袖の下から覗く手首は、獣人種のように毛皮に覆われていた。
その顔を見上げる。やっぱり顔だけは(頭から角が生えている以外は)人族か魔法族のようだ。
彼女は立てば身長も二メートルくらいはあるし、裸足の脚は雪分ケのようで、足先は二つに割れた黒い蹄だ。なのにその表面は薄緑の鱗で覆われている。
モニススは、世界中のどの種族にも当てはまらない見た目をしているという。長い時を生きているという。けれど魔女としても武人としても強すぎるために異物として排除されることもなく、そうやって彼女は昔から、この土地に馴染んで暮らしてきたのだと、長老さまが話しているのをフィーも聞いた。
それにモニススは、フィーが小さい頃からの彼女の先生でもある。アビ士族の士族長に連なる血筋は、代々彼女から教育を受ける。
フィーも、文字と算学とこの土地の歴史は彼女から教わった。
「……ぬしも、もう十になるのならば道理もわかるだろう? 『満月の愛し子』などという名、よほど君の幸せを願わなければつけないよ。とても意味のある名前だね」
頭の毛並みの隙間を分けて、地肌を撫でてくる指の感触はひんやりと冷たい。
耳長族の中で、満ちた月は幸福の象徴だ。欠けた所もなく輝く円に、みな幸せと安寧を見る。
だからフィーはモニススの言葉を、確かにそうなのかもしれないとどこかで思う。でもまだ悲しいし、受け入れきれない。
けれど深く考えてしまったらまた泣きそうになるので、ごまかすようにモニススに問うた。
「……お師匠さまって、何歳なの……?」
「ぴっちぴちの十八万歳だよ」
「ええ……」
見た目の顔立ちだけならば三十路前後だろうか。そこから返ってくる、ちょっと怪しげな笑顔。
さすがに嘘だとフィーも思った。
と、そのときである。ドン引きして麻呂眉を下げるフィーの足元で、可愛く鳴く声がした。
《ニャア……》
見れば胴体には艶やかな輪っか模様、首回りに豊かな鬣をもつ、体格の割には野性味溢れる顔つきの猫がいた。モニススの膝にぴょんと飛び乗っていく。
「ん! ……お師匠さまー、この子どうしたの? 〈刷毛尾猫〉だね?」
「ああ、ぬしが吾の家に来たことは余り無かったねえ。見たこともなかったかい?」
こくりと頷き返すと、フィーが生まれたのと同じ年に、森の奥で仔猫のこの子が独りでさ迷っているのを見つけ、気まぐれに連れて帰ってきたのだと教えてくれた。
フィーは生き物には詳しいから知っている。〈刷毛尾猫〉は警戒心が強いけれど、一生同じ番で暮らすために、仔猫のうちから育てると主人に良く懐く。
「じゃあ、私と同じ歳ってこと? 名前はなんていうのー?」
「ああ、はけおねこだよ」
《ニャーン》
自分に甘え出す〈刷毛尾猫〉の背を撫でながら、モニススはフィーに微笑む。
一拍、沈黙が開いた。
「んう? お師匠さま、この子が〈刷毛尾猫〉なのはわかってるのよ、この子の、名前ってなーに?」
「だから、はけおねこだよ」
ようやく意味を理解したフィーの唇の隙間からは、再び「ええ……」と声が漏れる。
「ええ……。なんでその子、ハケオネコちゃんって名前なの? 私にみみながちゃんってつけるくらい変……」
「嗚呼、それは、」
スッと下がる、少しつり目で切れ長の、ぱっちり開いた美しい瞳。夕暮れとの境にある淡い夜を溶かしたような、濃い青色が"はけおねこ"を捉える。
「これは別に、吾には意味のないものなのだよ……。名前を知る、名前を与える、呼ぶ。すべて吾には意味があることさ。……ただ、これは人よりもっと、それこそまばたきするような間の命だからね」
「まばたき?」
「あっという間ということだよ」
よくわからなかった。けれどそれは昔からでもあった。モニススはフィーが、母の身体の陰から初めて姿を見上げた時からずっとこうだ。
だから試しに聞いてみる。
「……お師匠さま、私、は?」
するとモニススはさも当たり前といった口調で長い腕を伸ばし、フィーの頭をすっぽり覆う。
「フィーゼィ、何をいっているのかな? ぬしは善良で、皆に愛されているし、そんな立派な名前もあるだろうに。何も心配することはないよ。
ぬしはちゃんと、吾にとっても意味のあるものだからね、リタスちゃん?」
もちろん、きみの両親にとってもね。
そう付け加えて、またフィーを撫でる。
モニススはフィーに、時々難しいことをいう。でも、確かにこの"はけおねこ"はフィーより生きない。
だから、師である彼女が言うのなら、そういうものなのかもしれない。と、フィーは思う。
ひんやりした手指の感触に頭を預けながら、フィーは安心してえへへ、と目を細めた。




