95.遠い日② -父の言葉-
読了目安 4~7分
※この『遠い日』が初登場の人物たちの名前……覚えなくても大丈夫です( ◜ᴗ◝)
解体小屋は厩の向こうだ。
近道しようと向こうまで抜ける厩舎の通路を通ると、干し草と色濃い獣臭がフィーを包む。
途中で、フィーの可愛がっている《雪分ケ》が彼女を見留めて、房から首を伸ばしてきた。鞍を掛けて貰えると勘違いしたのか、ブフン! と嬉しそうに鼻を鳴らす。四本の脚以外の全身を覆う長い毛並みを揺らし、二つに割れた蹄で寝藁を蹴る。
「――ごめんね、今は用はないの……! またね青毛」
細くて長い首の脇と、三日月のかたちに反り返る耳の後ろを掻いて、フィーはそのまま愛獣の脇を通り過ぎる。
そうして厩舎を抜けると、流れてきた弱い風に、腐りかけの魚の血なまぐささを薄めたような臭気が混ざりだす。けれどそれはフィーには嗅ぎ慣れた、妖獣の蒼血の臭いだった。
解体小屋は、良く磨かれた石を組んで建てられた、文字通り妖獣や家畜を解体するのに使われる小屋だった。この場所はこの屋敷専用だが、村の中にも共用のものがいくつかある。
すぐ脇には深く掘られた溝があり、小屋の細い排水溝からは今も、血の色に青く染まった水が流れ出ていた。
中からは、父と叔父の話す声もする。
本当は厩舎の中にいる時からずっと聞こえていたけれど、小屋の壁への反響とこの水の音に混じって、会話の内容までは聴き取れていなかった。
ぐるりと回り込むと、まず開け放たれた大きな観音開きの扉。小屋の入口には鋼でできた大きな吊り棚があって、山狼くらいの大きさをした立派な〈四ツ足ノ禽〉が逆さに吊られていた。
目は四つ、足も四本、長くて黒い蜥蜴のような尾に、汚い斑模様の黒と灰色の羽毛。背中の翼も退化してなくなっているので、これは成獣だ。
けれど、わぁ、と見とれるよりも先に、その獲物を一人で見上げる、真っ黒な毛並みの彼を見つけてフィーの心臓は勝手に早鐘を打ちはじめた。
二頭目の脚にかけた綱を引き、小屋の中へと続く吊り棚の横棒を伝って、獲物を屋根の下に引き込む作業をしている。
フィーとは八つほど年の離れた、従兄のモクスケラスである。一昨年には成人した、立派な戦士である。強くてカッコいい。なのにちゃんと優しい。歳も離れているのに、フィーやメーナィがせがめば女の子の遊びにも付き合ってくれる。
……本当に淡い、フィーの初恋だった。
バシャン! と、フィーからは見えない壁の内側から、桶で水を撒き散らす音が聞こえた。そのすぐあとには、わはは! と親しげに笑い合う父と叔父の気配。
耳長族はやっぱりおしゃべりだ。下の村に住む人族の男たちと比べたら本当に賑やかに語らうし、何なら井戸端で話に花を咲かせている人族の女たちくらいには喋る。
フィーは着ている服の裾をつまんで、一度見下ろした。まだ頬っぺたは熱を持っている。でも、出来うる限り恋する女の子の顔は引っ込めて、フィーは得意気に三人の前に出ていこうとする。
けれどその時、今年生まれたばかりなフィーの弟たちの名を出していた叔父が、
「……そういえば兄さんは、フィーゼィとメーナィ、どちらを跡目に据える気でいるんだ?」
そう問いだすのを聞いて、フィーの足ははたりと止まった。同時に、二人より先にフィーの姿に気付いたモクスケラスと目が合い、彼はハッとした顔でフィーの父、タリケラスを振り向く。
「あ、長さま……」
「ああ。やる気はフィーゼィの方が高いのだが、あの子では駄目だな。優しすぎる。人の上に立つのには向かない」
瞬間、翡翠色をした半月の双眸はうつむき、悲壮さと共に見開かれた。彼女の視界の外で、従兄が気まずそうにフィーに横目を流す。
けれどフィーとて、ここで引き下がって裏で傷付くような子ではなかった――いいや、どちらかというと、ただただ衝動的に飛び出していた。
「父さま、なんで……そんなこと、言うの……」
しかし言いながらも、その目には涙が滲む。
ギョッとしたのは、父と叔父であろう。耳長族は確かに耳は良いが、『聞こえること』と『永続的に注意を払える』かは別の話である。揃って目の前の作業と会話に集中していたのか、二人は慌てた様子で手にした手斧と小刀を作業台の上に置いた。
「フィーゼィさま」「フィフィー……!?」
駆け寄ってくる。あまりに驚いたのか、父の口からは家族のいる場でしか呼ばれない愛称が溢れる。
しかし、その一番近しい呼び方すら、今のフィーの胸にはどこか裏切りのように刺さる。
父の毛並みは、フィーの杏色より少し赤みの強い色をしていた。彼は焦ったように赤毛の耳を倒して、それから咳払いをしながらフィーの顔を覗き込む。
「フィーゼィ、いたのか」
フィーは黙って父を上目遣いに見つめ返した。話しかけても変わらない彼女の表情に、父はいよいよ母に悪事がバレたときの、フィーの三番目の弟みたいな顔をしだす。
「嗚呼、その、フィーゼィ……?」
「――フィーゼィさま?」
そこに、しどろもどろな兄を見かねたのか、叔父の声が割り込んできた。父、タリケラスに似ない顔と焦げ茶の毛並みをしているが、叔父と父もまた双子だった。
「タリケラス様が、フィーゼィさまのことを大事に思っているのは、フィーゼィさま自身も良く知っているはず。これは、なにもフィーゼィさま自身がいけないのではなくて、アビ士族を率いるものとしての資質の――」
「――待て弟よ、そこまでで良い。これは己れの仕事だ……」
ただそれ以上は、どこか覚悟を決めたような父、タリケラス・アビの声に制される。父はフィーの前にかがむと、いつもの優しくも毅然とした態度で彼女の瞳を覗き込んだ。
「――フィーゼィ、ひどいことを言ってすまなかった。お前の夢は、良く理解している。しかし、聞きなさい」
そこからのタリケラスは(この先のフィーが幾度、思い返しても)、十にもならない少女相手にとても残酷で……そして真摯で誠実だった。
「聞きなさい。フィーゼィは、敵の本質をよく知ろうと心がける。ゆえに妖獣との戦い方にも、その性質を理解していて、とても光るものがある、と、父は思っている」
タリケラスは、そうやってまずフィーを誉めた。
「しかし、お前は如何せん、他人に対して優しすぎる。献身的ゆえに優柔不断である――――」
タリケラスは言うのだ。
フィーの優しさは確かに素晴らしい。けれど、妖獣と命をやりあう場で、長は時に、百人を助けるために十人を殺さなければならない決断を、一瞬で決めなければならないときがある。
フィーはきっとそれを背負いきれない。その豪気さは、お前とは体の柄が違うメーナィの方が良く持っている。彼女の方が長には向いてると、タリケラスは思っている。
おそらくそんなことを言っていたと思う。しかし途中からその声は、割れた大地に流れ込む水がすべてその亀裂に吸い込まれてしまうかのようで、対岸に立つフィーの心には何一つ届かなかった。
聞けば聞く程、もうこんな場所になど立って居たくはなくて、しまいには、
「――もう……もういいっ!!」
唇を引き絞り奥歯を噛み、目の前の大人二人を、涙をぼろぼろ流しながら睨み上げていた。
「なんで、ひどいよ!! ……きらい! だいきらい!」
きっと心にもなかった言葉が、口のなかから飛び出て父に投げつけられていく。
「そんなに言うのなら、私なんておんなじ色のお姉ちゃんと一緒に、マァマのお腹の中で死んでしまえば良かったの!!」
「あっ、フィフィッ待ちなさい!」
気付けば踵を返して駆け出していた。
耳長族は多産だ。平均で一度に二人は生む。フィーとメーナィには、本当は同じ毛色をした姉妹が一人ずついて、そしてそのどちらも死産だった。
生きられなかった姉妹の墓所を、フィーは母と一緒に良く訪ねにいく。
「父さんなんか、だいきらい!!」
喜ぶ〈雪分ケ〉の青毛に手綱と鞍をかけ、房から引き出し、飛び乗った。
追っ手がなかったのは、きっと優しさだったのかもしれない。フィーはそのまま家を飛び出す。
長屋敷の前にある避難壕の丘に出ると、駆け回る弟妹たちとすれ違った。後ろから「あねちゃま!」と呼ぶ声もしたが、フィーは振り返らなかった。
つづら折りの長い坂を、ひたすらに嗚咽をこらえ、青毛と共に駆け抜けていった。




