92.ママとパパは斯く語りき③ -ママとパパなら-
読了目安 3~6分
「ん、と……」
花登は、焦った。
(……イチ兄は何をすればよかった?)
人生の中で自分より大人に頼られることがあるなんて、花登は思ってもいなかった。ましてやそれが、こんな鋭くて恐い顔をする、屈強そうな長身の男であるなんてことが。
『仲良くすればいいんだよ』
だから花登は、さっきとは別の意味で落ち着かない気持ちになる。それでも彼の役には立ちたいのは確かで、こんなことでもなければきっと役には立てないと思って、書いては消して、消しては書いて、花登は思い付くままにつらつらと言葉を並べはじめた。
『イチ兄とふぃーぜの仲が、良いほうが私は嬉しい』
『ふぃーぜ、確かになんか変だけど、でも昼間のふぃーぜはあたしにもすごく優しいよ。でもイチヘイにはもっと優しいよ』
『あたしが熱だして倒れる前ね、あたしとイチ兄が一緒のタイミングで別のことで困ってたら、ふぃーぜはイチ兄をとったよ。気付いてる?』
あたふたと書いて、イチヘイに見せた。イチヘイはずっと、「そうか」とか、「知らなかった」とか、響いてるのか響いてないのか、気持ちの読めない返事を繰り返す。……いや、しかし途中からは慌てている花登を見て、表情にはどこか面白がるような笑みが混ざり出すのを彼女は感じ取る。
(……あたし、なんか変なこと言ってる? 聞いといて笑うのは、意地悪だと思うんだけど……?)
花登はちょっとだけムッとした。ならもう知らない、と思いながらも
――『あたしのママとパパはね、嬉しいときも悲しいときも一緒にいるから夫婦で、家族なんだって、それが普通なんだって言ってたよ!』
そう書ききった最後の一文には、しかしそれまでとは違う反応が戻る。
「……あ゛?」
イチヘイは途端に、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしはじめる。
「いや、待て、何でここで夫婦の話がでてくる……?」
「ぬ、う?」
その問いには、今度は花登が眉を跳ねる。
『え、だって、イチ兄、とってもフィーゼと仲良しだよね? 付き合ってるんだよね? フィーゼのこと好きだよね……?』
「い、や……?」
返ってくるその声の、芯も無いようなふわついた調子……。
花登は思わず、伏せていた瞳を筆記板から上げた。
すると、そこには不快そうに思うわけでも、照れているわけでもなくて、本当に戸惑ったように眉を下げる深紅の瞳があった。
「ぬ、ぇ……?」
(ええ、うそでしょ……)
それは売り買いされる商品に自身がなっていることを理解してしまったあの瞬間の、次くらいには衝撃的な出来事だった。
花登の目には、それはすごく変に映る。
この二人……イチヘイとフィーは、昼間、用事のない時は大体いつも一緒にいる。フィーが話しかけると、イチヘイは穏やかな目をしてうんうんと聞いている。
二人は花登にも優しいけれど、お互いを見る目と、花登を見る目はちょっと違う。
あんなに仲良しなのにそれが嘘じゃないと言うなら、それで声をかけれないと、困っていると言うのなら、花登的にはちょっとあり得なかった。
花登にだって、クラスに気になる男の子の一人や二人くらい居たのだ。
『イチ兄はふぃーぜのこと好きじゃないの? ほんとに?』
問いかける、板面の文字。
しかし返ってきたのはしばしの無言だった。
イチヘイの手が、耳の上の髪に伸びる。数日一緒にいて、これがイチヘイが困っている時にする仕草なことを、花登もなんとなく分かりだしていた。
それから彼は、傾けた頭で頬杖を突き始めた。伏せた深紅の双眸は、もう一度、花登の筆跡をじっとなぞっているように滑る。
やがて、やはりどこか揺らぐようにゆっくりと言葉が返ってきた。
「フィーのことは、大事だ。ずっと一緒にいた。かけがえはないと思う。
だが、正直よくわからねえ。……いや、そうだな、『普通』の感覚で行くなら、多分そう思われるんだろう」
「イチ兄……」
花登は正直その瞬間、コイバナの延長のように調子にのって彼に訊ねたことを、少し後悔していた。
だってそう語る彼の顔は、声は、『自分は人殺しだ』と淡々と語ってきた瞬間と全く同じトーンをしていたのだ。
花登を護ってくれる庇護者は、確かに何かが欠けている。子供の彼女ですらそう確信せざるをえない灰色の膜が、そこにはあった。
(困らせちゃった……のかな……)
これで嫌われてしまったらどうしよう。
けれどイチヘイは上げた顔で、まだ花登の方を見てくれた。
「……だがその……、『普通』って、家族ってそうなのか?」
会話の糸は、切れていなかった。まだ頼ってもらえることに花登は安堵する。思わず「そう、だよ!」と掠れ声を上げながら、こくこくと頷いていた。
そうしてもう一度、板面に指で書こうと触れたときだ。
筆記板が、勝手に淡く青く光った。次いで書こうとしていた文字が、ずらっと盤面を埋めはじめる。
『大事なら、ほっといてちゃ、家ぞくじゃないよ。イチ兄、ふぃーぜのこと心配なのも、ふつうだよ。変じゃないよ。泣いてたら、そばにいてあげて。あたしのママとパパも、きっとそう言うと思うの。昼間のふぃーぜ、イチ兄のこと大好きなんだから、夜も変わんないよ、きっと』
「お……?」「ぬ!」
「……習得、早いなお前」
彼がポツリと呟くので、思わず顔を見合わせた。
『ほんとだ、びっくりした』
と次いで言いたいことが板面に上がると、せっかく記せた前の長文は一瞬で消える。
「あっ……」
「……なあ花登。茶のおかわり、要るか? また巣蜜入れてやるが」
「ぬ? のむ……」「よし」
そうして立ち上がり背を向けて、イチヘイは魔石具のコンロで湯を沸かし直しはじめる。続いていた話題はそこから沈黙の中に途切れ、二度と戻ってくることはなかった。
夜はまだ続く。まだ時々、フィーの泣き声が微かに響いてくる。
けれどそのとき彼がふと、
「……そうか、『変じゃない』か……」
震え出すやかんの騒がしさに混じってそっと呟くのを、花登は確かに耳にする。
(読めて、たんだ……)
ならば確かに、花登はこの欠けた庇護者の役に立てたらしい。次のお茶を待ちながら、彼女はそっとその余韻を噛み締めてしまう。
「イチ兄」
花登は、新しい茶を淹れてくれたイチヘイに向かい、筆記板で尋ねてみた。
『ねえ、ふぃーぜとはどうやって会ったの? どこで会ったの?』
ちょっと前にも、花登は父母にナレソメなるものを聞いたことがある。この二人は、どんな風に出会ったのだろうと思ったが、
「……覚えてない」
返ってきた言葉はそっけなかった。
「てれ、てる?」
「いやいやそういうんじゃない。本当に覚えてない。こっちに来てからの記憶が、しばらく曖昧なんだよ俺は……」
しかめっ面をしながら、大体、半年分くらいの記憶がすっぱりないのだとイチヘイは続ける。
「気づいたらこっちの世界にいて、数日森の中をさ迷ってたが、途中から記憶がない。で、次に意識が繋がったときにはもうフィーと、俺のお師匠と一緒にいた。この家で三人で暮らしてて、片言でこっちの言葉も喋ってたんだ。
……そのあともニ、三年くらいは何かの後遺症なのか、記憶がたまに抜けてたな。だから覚えてるのはそれだけだ」
本当だろうか。花登にはわからない。ただ、黙ってしまった彼がぎゅっと細めた瞳の鋭さには、確かに失くした昔を探すような気配もある。
「ふーん……」
花登は受け取ったお茶を啜る。やっぱり甘くて、蜜の香りが濃くて、少し渋い。
まだ聞きたいことは、いっぱいある。今なら全部答えてくれるだろうか。
花登はそんなことを思って食卓に身を乗り出した。
夜は刻々と、更けていく。




