90.ママとパパは斯く語りき① -破裂-
読了目安 4~6分
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慟哭と悲鳴が、突如として湿った夜を裂いた。
それは二つの月が屋根を越え、花登の部屋に微かな月明かりを届け始めるころだった。
ふと浅くなった眠りの隙をこじ開けるように飛び込んできたその叫びに、花登は叩き起される。
「っ、っあ?!」
――――ひきゃあああーーーーっ!!!
薄がけの寝具にくるまったまま寝ぼけまなこを丸くし、周囲を見回す。小さな部屋には誰もいない。
それから数瞬あって、その声がどうやら隣室……フィーの部屋から響いていると気付いたとき、花登は本能的に心臓を掻き乱されていた。それほどには逼迫した声だった。
(なに! フィーゼのこえ? なにがおきてるの……!?)
ベッドを飛び出る。この部屋で寝るのも三回目だった。
二人から与えられるもの一つ一つが花登に居場所を作り、彼女としてはようやく、この部屋も自分のものなのだと実感が湧いてきたところだった。
けれど、こんな引き裂くように泣き叫ぶフィーの声を、花登は一度も聞いたことはない。
――――助けて! ゆるして! ごめんなさい! ごめんなさい!
薄い木の壁越しに、まだ聞こえてくる。誰かと喋っているのだろうか? 思わず耳を塞ぎたくなる。
でも確かに今日のフィーは、昼間から少し様子がおかしかった。『イチ兄と喧嘩でもしたのかな?』と花登は思って、当の彼にもどうしたのか聞いた。けれど結局、渋るような顔をしてイチヘイは深紅の目を逸らすばかりだった。
そこに最初に出会った時のような壁を感じて、花登も静々と夕食をとったばかりだったのである。
ごめんなさい、ごめんなさいと、断続的に泣き叫ばれる謝罪の言葉。
花登は昨日、フィーの抱き枕にされた時に、彼女が寝言でめそめそと泣いていたのをはたと思い出す。あれと何か関係があるのだろうか?
ドタンバタンと転げ落ちるような音がした。
――――それとも、まさかイチヘイに虐められているのだろうか。
良くない考えまでもが頭を巡り、本当に忍び足で、彼女は部屋の扉に静かに隙間を作った。おそるおそる廊下を覗く。廊下の壁際には一つだけ魔石具のランタンがぶら下がり、落とした照度が、ぼんやりと物に輪郭を与えている。
隣室のドアは、どうやら閉ざされていた。またどすんばたんと隣から音がする。
フィーの部屋に入る? どうしよう? 昼間渡された新しい贈り物を胸に抱き、考えながら固まってしまう。
(でも、アタシが割って入って、イチ兄は止まってくれる……?)
逸らされた目の暗さを思い出す。
この筆記板を貰えて、花登は嬉しかったのだ。だから調子に乗ってしまったのかもしれない。何も答えてくれない沈黙に、自分はやはりまだよそ者だったのかもしれないと、あの瞬間に少し、思ってしまったのだ。
だがそこで、フィーの部屋の真向かいの扉が静かに開く。イチヘイだった。フィーの部屋にいたわけではなかった。
(良かった、やっぱり二人は仲良しで、フィーは虐められてなんてなかった……)
けれどランタンの下に顕になる彼の顔つきに、花登はまた一抹の不安を覚える。
――そこに立つ彼は、花登が今まで『イチ兄』として認識してきた男の、どの表情もしていなかった。それはとにかく沈鬱で――まるで今、この家を覆う闇夜を全部背負ったかのような――花登の知らない顔をしていた。彼は思い悩むように一度目を伏せ、それから静かに声を上げる。
「……フィー? なあ、大丈夫……」
「――あっちに行って!! 話したくない!!」
途端、打ち据えるような叫びが扉の向こうから響いた。その声もまた、やっぱり花登の知らないフィーなのだった。
驚いて、知らずヒッと喉を鳴らしてしまう。信じて縋ったものの端っこが、少し崩れた気がした。
その瞬間、声に気づいたイチヘイと目が合う。
ぎょっとされた。けれどすぐに、彼は何か諦めたようなあるいは決意したように目を細める。
すると次の一瞬で、そこにはもう花登の知っている彼がいた。無意識に僅かな安堵が胸を撫でる間に、イチヘイは『動くな』次いで、『静かに』と花登に言う。
ただ、声を発することはない。口の動きと手振りだけの指示だ。彼女は何が何だか分からないまま、扉の隙間から半分出した顔でこくこくと頷いた。
イチヘイはなぜか戦闘時のごとき俊敏さで自室に半身を引っ込め、すぐに戻って来たかと思うと、
『近くに来い』
手振りで呼んでくる。
また首を傾げながらも雰囲気に飲まれ、音を立てずに近寄る。すると唐突にひょいと抱えられ、びっくりしている間に連れられた先は階下の食卓だった。
すぐに軽やかに下ろされて、テーブルの上には、彼が二階の廊下から持ってきた魔石の明かり。
それから目前には、真ん中のくびれた黒いガラス棒のようなものを一本、差し出してくる。
「? ?」
これはさっき一瞬だけ部屋に入って戻ってきた時から、彼の手に収まっていたものだった。目と手で、反対の端を持て、と示してくる。
やはりなにも分からなかったけれど言われた通りに握ると、そこに上から手を添えられて、パキンと棒が折れる音がした。
その瞬間、黒かった棒は乾いた骨のように白く艶を失う。折れ目から抜け出る粒子は水に薄まるインクのように薄青い天幕となり、花登とイチヘイの周囲を包んだ。
「……これでいい。もうお前も話していいぞ」
そこでやっと息を吐きながら話しだす低い声に、花登もつられるように、少し安心してしまうのだった。
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音消し。
花登が来てからというもの、彼は夕にフィーの部屋でこれを折り、彼女にフィーの慟哭を聞かせまいとしてきた。
この道具は、折った場所を中心に半径ニメートル程度の範囲で鳴る音を外部に漏らさないために使われる。
ただし、音消しを折った者だけは範囲を出ると音消しの効果外となる。つまり彼にだけは、ずっとフィーの叫びは聞こえていた。
ただ、イチヘイとしてはそれでよかった。こんなこと、部外者に説明は面倒だったし、フィーの叫びを耳にするのも自分だけでよかったのだ。
けれどいくらクズ石の加工品とはいえ、魔石具自体、総じて高い。これだって本来はそこそこ高価なものだ。
ゆえにこんなこと、本当なら非合理極まりない。端から、いつまでも続けられることではないのは分かっていた筈だった。
そうでなくても、縞に目をかける行為へ口出しを躊躇う程度に彼女を尊重してしまうのであれば、いつかは話さなければならないものだったのだろう。
……それが、たまたま今日だっただけ。
魔法で下ろした静寂の帷。その内側で花登には音消しの説明をしつつ、イチヘイは、自らにはそんなことを言い聞かせている。
「アイツ、耳長族だから耳が良いんだよな。小声で話してても普通に聞かれるから、使わせてもらう」
「ぬ……」
それから、自分を頼りきる榛の瞳にイチヘイは少し肩肘を張って言った。虚勢、と言われれば、それまでだったかもしれない。
『ふぃーぜ、何であんなに、ないてる?』
しかしそのまっすぐすぎる質問と、見上げてくる不安そうな表情には、そんな薄らいハッタリも意味を持たないようなものの気もしてくる。
ほんのわずか黙したあとイチヘイはため息をついて、今度こそ腹を決めた。




