89.あってはならない人③ -奴隷-
読了目安 4~7分
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――このカナイナとかいう娘は、距離感がおかしい。
眇目は、馴れ合いを望まない。あの家でこの腕を治療された時から、仲間への態度も眇目への接し方も、この女は全部おかしい。彼はその全部が気に入らない。
どう見ても平和ボケして暮らしている、本当に何も知らない市民身分のお嬢サマだ。綺麗な顔立ちに潜む柔和さにさえ腹立たしさを覚える。
だから怖がらせば遠ざかると思ったし、そうでないなら優しめに甚振って玩具にしてやろうとも思った。いい『訓戒』にしてやるのだ。
しかしそこへ現れた新しい顔に、彼は僅かに嫌なものを覚える。昔からほんの少しだけ予感のようなものが鋭い眇目は、その老齢の女を警戒した。
そうでなくても、眇目は種族問わず年長の人間が苦手、かつ好きではない。
眇目は、"群れ"で飼われている。
"群れ"が何の組織であるかは、この土地での暮らしが長い者なら知ることもある。けれど貿易都市は人の出入りが激しく、ここにいる余所者の多くはおそらく一生知ることもない。本当に、その程度の知識だ。
それでも年長者であればあるほど、その事を知っている確率は高い。故に彼らと対峙する時、
『常に人目につく場所に提げていろ』
と、世話役から厳命されるこの"群れ"の象徴が――――鷹と鴎の紋章を刻んだ"首輪"の意味が、常よりもずっと眇目の"かたち"を色濃くする。
そして今日も、その予感は当たっていた。
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「カナイナさん、狗と知り合いなのかい?」
「あ、えっと、こんにちは……? 先日はお世話に……」
突然の声かけに、ニカナグは一瞬救いを見る。しかしその顔を判別して、彼女はまた別の意味で戸惑うのだ。
都市ニムドゥーラにつながる街道沿いにあったそこそこ大きな村で、雑貨屋を営んでいるという老婆、ノナウ。
先日、輓獣車に乗せてこの街まで送ってもらったときも、この老婆は根掘り葉掘りニカナグに質問を投げ掛けてきた。家族は誰か。どんな人か。誰のところに行くのか。どうして旅をしているのか。
素性を隠したいのに壊滅的に嘘が苦手なニカナグとは、死ぬほど相性が悪い。故にぐいぐい話しかけてくるこの老婆が、ニカナグは苦手だ。
今だって酒の入った顔でニカナグとの再会を喜んでいるのか、興奮した様子でしつこく質問を重ねてくる。悪気はないのは分かっていても、眇目とは別の意味で天敵と言えるかもしれなかった。
「……で、この狗と知り合いなのかい!?」
(ん? また、『いぬ』……?)
口に出さねど、ニカナグは思わず目を瞬かせる。その呼び名、さっきも店の店主から飛び出ていた。
ただの変わったあだ名だと思っていたニカナグである。しかしさすがにその、好奇と忌避が混じり合うような婆さんの声には、何か別の意味を含んでいるような雰囲気を感じとる。
「なんだい、知らないのかい」
するとノナウ婆さんは彼女の表情だけを読んだのか、途端、得意気に切り出し始めた。
(え、まだ別に、まだ尋ねてもいないのだけど――!)
「カナイナさん、この狗の首に提がってるのはね、この辺りじゃ有名な兆嘴商会の、奴隷私兵の標さ。……そら、見てみな、その鷹と鴎の徽章をさ!」
「……え?」
しかしその、口から矢立のように滑り出してくる内容には、さすがのニカナグも心臓がひとつ跳ねる。
思わずチラリと振り返ってしまった。しかして微かに合い、すぐに逸れたその切っ先のような眼差しに、確かにニカナグは膿んで爛れきったような、闇色の鬱屈を見る。
見てはならないものを見たような気持ちが胸を掠める。
そのそばで、一方のノナウ婆さんはまだ話す。その口振りには、全く悪意を感じられない無邪気さだけがあった。
「最近代替わりしたソルスガさまもそうだが、前の商会……あの方のお祖父さまも寛大なお方でね。飼ってる奴隷にも、標を提げる代わりに街中ではそこそこの自由をお与えになってるんだよ。普通じゃ考えられんことさ。
――なぁ、そうだろ、そこの耳長。おまえ、身体に奴隷印があるんだろう? にしてもこのノナウ婆さんも、"群れ"の連中にあうなんて珍しい目に遇うもんだね。名前はなんて言うんだい」
……差別とは、それが差別と思わない故に差別であるのだ。
皮肉にもここしばらくシーナバーナの姿で生活してきたニカナグには、それが良くわかってしまう。
「ずいぶん親密そうに見えたけれど、このお嬢さんとは知り合いかい? なんなら一杯、施してやるから、このお嬢ちゃんと一緒に面白い噂でも聞かせてくれんもんかね!」
(え、あ、これ、ノナウさんとも食事する流れ――??)
助かるけれど、それはそれで勘弁してほしいかもしれない。また根掘り葉掘り聞かれて、壊滅的に嘘が下手な自分は、何を話してしまうかわからなかった。えも言れぬ感情が汗のように滴りだす。と、その瞬間だった。
「……申し訳ないのですが、職務の最中でしてー」
「ふぇ、い?」
変な声を上げてしまったのは、背後から伸びてきた硬い感触に手首を捕まれたからだ。眇目の手だった。
「なんだね。ノナウ婆さんの酒を断るとは、どう言うつもりだい」
「僕は今、こちらのお嬢さんの警護を任されているんてすよー。今からこの人を連れて行かなければならない場所があるので、これで失礼します」
「えっ、……えっ?」
「警護? その腕でかい?」
しかし、どうしよう、と思ったときには既に腕を引かれている。握り込まれた力は跡が残りそうなほど強く、振りほどける気が全然しない。本当に訳の分からないまま恐怖に突き転がされると、声も出なくなるのだと知った。
後ろにポツンと残され、徐々に遠くなる灰髪の老婆を一度 だけ振り返る。
ニカナグはそのまま、眇目が出てきた路地裏に連れ込まれていく。幾度か入り組んだ角を曲がらされ、木戸のついた袋小路の前でやっと手が離れる。
夕まぐれ、紫と橙に染まる空は四角く切り取られ、何とか顔立ちが判別出来るくらいの明るさしかない黄昏の路地。
飲み屋通りの遠いざわめきは聞こえるが、当然のように周囲に人気は、ない。
さっきの下劣な台詞が過り、ニカナグは一気に身を硬くする。
「……まぁ、ね、そういうことなんでー」
しかし振り向いた眇目の顔に、先刻までのような毒はなかった。
「……じゃ、帰っていいよ」
「えっ」
そういうことがどう言うことなのか。彼が奴隷私兵だと話したノナウ婆さんのお喋りがよぎる。
皆までは話さない彼の言葉の余白に、また知ってはならない何かを見たような気がして、彼女はまたまた要らぬ問いを投げてしまっていた。
「……そ、それだけ?」
途端、切りつけるように目があった。低く掠れた声がする。
「『それだけ』???」
一度は離れた隻眼が近付き、ニカナグを壁際に追い詰める。ドン! と後ろの壁に突かれる腕。嚇すような表情が、ニカナグの目前を覆う。
「はは? これ以上、僕に何か望むの……? ホントに何かされたいのかなー?」
「ひっ!」
「はは。キミ、ホントに腹立たしいわ。……ぶち犯したいぐらい」
浴びせられる謗りとは裏腹に、あっけないほどすぐに顔は離れる。思わず呆然とする彼女に、眇目は今度は乾いた笑いを向けた。けれど笑っているのは声だけだった。
「僕たち今ねー、はしゃぎ過ぎてご主人サマに目ぇつけられてるの。
コレがどう言うことか分からないほど、僕も愚かじゃない。痛かったよー、色々と。
だからしばらくは『良い子』でいないとなんだよね。……でないと今度こそ殺されるかな」
笑みの代わりに、口の端に浮かぶ卑屈さ。その虚ろさ。ニカナグは言葉が出なかった。
その沈黙に何を思ったのか、眇目は再びニカナグに向かい色の見えない真顔を向けた。黄昏の最後の陽が、彼の首もとの鎖に鈍く照る。
「じゃ、今度こそそういうことだからー。……それと、あの店ね、僕の行きつけなの。二度と近寄らないで貰えないかな、キミの存在、ホントに不愉快だから」
◆
薄暗い袋小路だった。
気付けば、ニカナグはその冷たい石畳にひとりでへたり込んでいた。
本当に何かされると思った、のだ。
酒と串の包みを下げ、薄茶の両耳が見えなくなった瞬間、身体中から力が抜けて腰砕けになってしまっていた。
ただそれでも、知ってしまった事実は今さら拭いされはしない。
『狗』と呼ばれる彼が、自らが救おうとしている少女と同じ立場の人間であったこと――――憐れむ気持ちなど湧かない。
ただ、それでもこれ以上ないほど、ニカナグはその事実に深く戸惑っていた。




