88.あってはならない人② -会いたくなかった-
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「ご来館、ありがとうございました」
蔵書の持ち出しは許されていない。出口前で、女性の人族がニカナグに荷物の改めと服の上から身体を触る確認を取ってくる。
それを終えると、入り口前に詰めていた司書数名に見送られた。外に出れば、橙色の夕日がエナタルの山脈の向こうに沈みかけている。
図書館は、ニムドゥーラの街にそびえる大鐘楼の裏手にある。目の前の道は人通りも少なく静かだ。
けれどそのまま鐘楼前の大広場まで足を進めると、彼女の眼前には一気に、行き交う人々の熱気と活気が満ちた。
ここは街の中心部。夕方になっても変わらず人の途切れる気配はない。荷車も多く往来する。
その人波の中に飛び込んで行く。
目前を過ぎていく大きな荷車には、硬そうな外皮に包まれた異国の果実が山積みにされていたり、家畜の綿毛角が揺られながら、《ベーーーー!》と啼き叫んでいたりした。
思わず見とれていると、おいそこの白いヤツ、どいたどいた! と騎手の叫ぶ声が聞こえる。
ふりむけば、すぐ背後にはもじゃもじゃした赤茶色の毛を生やし、小さい尖り耳と中途半端な鼻の長さをもつずんぐりした巨獣がいた。〈荒レ地ナラシ〉だ。
下顎の中央から一本だけ生えるヘラのような牙が地面すれすれに湾曲わんきょくし、目前の障害物に向かって振り回されている。
慌てて避けた。
「ネーチャンぼーっとすんなよ!」
通り過ぎる〈荒レ地ナラシ〉の蹄の音と客車を見送る。けれどそこでも人にぶつかって、オイ気をつけな! とどやされた。
「す、すまない!」
思わず肩掛け鞄の紐を握り直す。
司書にもすぐ顔を覚えられてしまったように、この街でも狛晶族は珍しい。ただ、ニムドゥーラが交易都市でもあるせいか、みんなそこまで他人に深い興味を持たないようだ。通りすぎざまの人々の視線が刺さる。
(そういえば一昨日、ニムドゥーラ湖の畔の村を通過したときは、子供たちに後ろを着いて回られたんだった……)
そんなことを回想しながら歩く。この街まで送ってくれたお喋りな老婆は、よくこの辺りに顔を出すと言っていた。
結局、今日も収穫はなかった。落ち込みかけるも、しかし数少ない理解者である大伯母が昨日言っていた言葉を思い出す。
「――――『お腹が空いてるときにする考え事ほど、ろくなものはない』、んだ……」
確かに、そうかもしれない。夢中になりすぎて昼食を摂るのも忘れていた。帰ればきっと夕食はあるが、軽く何か腹に収めたい気分になる。ふと大伯父がが美味しいと言っていた軽食屋が広場の一本隣の通りにあるのを思い出して、足を向けてみることにした。
しかし踏み込んでみると、その通りは飲み屋通りである。レンガと土壁の建物に店ごとの厨房が収まり、道路の両端には露台と卓が並ぶ。仕事帰りの人々が集まりはじめた夕まぐれのざわめきに、強い酒と料理の香りが入り交じっていた。
「うわあ……」
店々が灯し始めた橙色や黄の明かりが、通りを煌々と照らす。
あまり踏み込んだことのない類の場所と雰囲気に飲まれ、ニカナグは思わず声を上げる。目印が特徴的であったため来たかった店はすぐ見つけられたが、流石に食いしん坊かつ飲兵衛の大伯父が言うだけあって、混んでいる。
「というかちょっと……混みすぎかもしれないな」
思わず気後れしてしまう。席は全部埋まっているし、店の給仕もちゃきちゃきと動き回っている。忙しそうである。卓の上に品書きのようなものも見当たらないし、どう注文を入れるのかも分からない。
戸惑っていると、すぐ脇の路地から耳長族の男が一人現れた。店奥にこじんまりとあるカウンター向こうに、注文を入れるのが聞こえる。
「すいません、綿毛角の串焼き1本と、マタ酒をくれませんか! 器はコレで!」
「あん……? ああ、アンタか、あいよ!」
「えっ……」
その客の、滑るように動く所作。そしてその外見。男の左目には、黒い布が巻かれている。
それは『あそこから頼むのか』という発見と納得を優に上回り、嫌な驚きを帯びてニカナグの心臓を貫いていった。
「え、眇……目……?」
何より負傷した片腕を、ニカナグがあげた添え木と緑の布の切れ端で吊っているのだ、間違えようがなかった。
一瞬たじろぐ。
本当なら見た瞬間に去るべきだったのだろう。しかし向こうも武人の端くれであるせいか、思わず立ち竦みじっと見つめるニカナグの眼差しを、機敏に感じ取ってしまったようだった。
眇目は、驚くほど的確に彼女の立つ場所に首を回してくる。その瞬間、彼は面白いおもちゃでも見つけたように、にこりと目を細めた。
たとえ店の人間に対して慇懃に接していても、その目尻の端に潜む切っ先のような異様さは、何も変わることはなかった。
「ああー、確かカナイナ? さんだっけ? 先日はどうも ー? ずいぶんと世話になったよねえー」
言い方が不穏だ。それにその態度には、獲物を小突き回して楽しもうとする獣のような陰険さがある。
「ふぁっ、ど、どうも?!」
しかし同時にニカナグも、足がすくんだ鼠のように動けなくなっていた。しかし、本当に何かしてくるには、この場所は人目が多すぎるだろう。それに腕だって、今はまともには使えない筈だった。
正直、怖い。
けれどこんな状況にいても、ニカナグは貫くと決めてしまった自分の信条を捨てることができないでいた。
誰にでも関心を持つこと。できうる限りは優しくすること。
それが、この場に於いてただただ間抜けな行いになるのだとしても、――――いや、そもそも一度関わってしまった相手から、彼女はもう目を逸らせないのだった。
それはある意味では、もはや呪いのような何かだったのかもしれない。
「あ、う、その……腕の調子は……どう、かな? すがめさん……」
「――は?」
おどおどと上目遣いに見上げる薄紫の瞳は、結局この男にはどう映ったのだろうか。その瞬間から、表情と態度に潜んでいた薄らい棘が消えた……薄茶の耳の捻りが含んだ、当惑混じりの嘲笑と引替えに。
傾ぐ首。珍獣を見るような目で覗き込まれる。
「ねえお嬢さん、きみ正気かな??」
「しょう、き……?」
知能など忘れたかのように反復する。今日してきたこと。しようとしていること。自分の立場。決まらない覚悟。そんなものが一瞬だけ思考を走り、
「――――ワタシが正気に見える、かい……?」
気付けば乾いた笑みと一緒に、また場違いな言葉を漏らしていた。当然と言うべきか、眇目の眉は理解出来ないものを目の当たりにしたかの如くハの字になる。
しかしそこに、店の奥から罵声のような声がひびいた。
「おい! 注文のモンできたぞ、突っ立ってねえで持ってきな? 狗!」
(いぬ……?)
「はいはーい!」
明朗な返事と共に、眇目はカウンターへと踵を返す。受け取った肉。手提げ付の酒器に満たされた酒。軒先に吊るされたランタンの光。
眇目が首に下げた鎖の先で、先日も見た、鷹と鴎の紋章が鈍色に反射している。
「あっち行って食えよ!?」「分かってますって」
良くわからないまま、小さく聞こえる会話をじっと眺める。ニカナグはそっと魔法族の眼を解放する。
彼女にはこの場を離れがたい理由が、もうひとつあった。
この眇目という片目の耳長族には、一応は魔法使いになれるだけの魔力が満ちている。けれどその魂は、魔法よりも人を呪うのに特化した形に歪んでいた。そこら辺の魔力持ちが習得した呪いより、段違いに強いものをかけられる筈だ。
……確証は、ない。しかし状況からすれば、
(あの子に声封じの呪いをかけたのは、やはりこの人……かもしれない……)
「……え、まだ居たの?」
と、そこで振り向きざまに彼と目が合った。今度は壁に貼りつく害虫に気づいた時のような視線を送られる。
「あ……その……」
ままならない思いがまた心を過ぎた。自分の対人能力で、この男をどうにかできるとは到底思えない。しかし、どうにもならない場所に自分が置かれているという焦りが、ニカナグの口を勝手に回す。
彼女自身、問うたところで空虚に回るだけの雑談で終わると、思った。
「眇目さんは、なんでここにいるん……だい?」
だがそう口にした途端、眇目の瞳にはまた刃のような不敵な笑みが浮かぶ。
「えっ、えー? 何? カナイナちゃんは、僕に興味あるのかなー?」「えっ、えっ」
片手に酒瓶、片手に串の包みを持ちながら、まるで友人か、恋人のような距離感まで首を伸ばして近付いてくる。
その態度は、面白い獲物を抱き込んで離すまいとする蛇のとぐろのような雰囲気もあったし、あるいは苛立ちながら、あっちに行けと威嚇しているようにも見えた。
そうして思わず後退りした耳許に、
「僕さー、今夜だけ自由なんだよね? でもこの腕だからさ……カナイナちゃんが上になってくれると|嬉しいな?」
囁かれた言葉には、作り物の毛皮もさすがに総毛だった。ついで至近距離で覗き込んで来る、柔らかくも切っ先のような鋭さを潜めた笑顔。
(あっ、やっぱり関わっちゃいけない人かもこの人?)
そう思ったときだった。
「あらま! そこにいるのは、もしかしてカナイナさんかいっ? 一昨日ぶりだねえ!」
重ねた年を感じる、闊達な話し方。振り返るとそこには、酒を注いだ器片手に、顔を赤らめたノナウ婆さんが立っていた。
「あ、えっ……!」
この辺に良く来るとは言っていたが、まさか本当にまた遭うとは思わない。……しかしこれで救われたとは、ニカナグにはどうしても思えないのだった。




