87.あってはならない人① ‐さざなみ‐
読了目安 5~8分
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夕暮れ。日差しは金色に染まり、家の外では夏の虫が細い鳴き声をささめかせている。
あのあと、相棒の後を追いかけだしたイチヘイが一言でも発しようものなら、
『話しかけないで!! こっちにこないで!!』
と激昂し、フィーは二階の自室に引き籠ってしまった。それなのに、階段を上がる間にはクスクスへらへら笑っていたし、贈った箱も、投げ捨てることもなくずっと大事そうに抱えていた。
それからずっと、怖いほどに静かだ。
夕食は茶会の残りである。
丸焼きの余った部分から肉を外し、炒め野菜と一緒にパンに挟む。骨は煮込んで野菜とスープにすると良い出汁が出た。フィーは青頭巾のスープが好きだ。
「――はァ、晩メシも出ンのかニャァ……?」
と床の皿に謎のぼやきをあげている縞に「待て」をかけながら、一度は
「フィー? 夕飯できたぞ」
二階に声をかけた。しかしやはり返事すらない。結局食卓は、花登と二人で囲むこととなった。
「ふぃぜ、どうし、た?」
花登は心配そうに首をかしげていたが、イチヘイは上手く答えることができない。それから彼はまんじりともせず風呂に浸かり、静かにあがってくる。
居間の定位置の席で身体に籠る熱を冷ましている間に、イチヘイははたと廊下の階段の下に、箱罠が置いてあることに気付いた。いつからあったのか、師匠の部屋に用があるか、玄関から入って来るのでもなければ死角になって気付けない位置にある。
近づいてみると、罠の機構は外されていた。入り口を覗き込もうとして、中からクッションと古布がはみ出していることに気付く。
もう廊下は暗いが、イチヘイはこちらに来てから夜目が利くようになったのでよく見えた。
これは先日から花登の部屋になった物置き部屋に仕舞われていたものだった。……その中に埋もれて、"喋る小さいふわふわ猫チャン"が仰向けになって寝っこけている。
おそらくすべて、花登がやったのだろう。昼間、この馬鹿を茶会の場から引っ張りだした時に作ったのかもしれない。
まるでこの茶色い箱ごと、この家の景色に馴染みだしているかのようだ。しかしたとえ幼い同胞が許したにしても、彼自身はこの馬鹿のふてぶてしさには鼻白んでいる。
その上よく見ると、壁と箱の隙間には男物の小汚い衣服までもが雑に畳まれて置いてあった。この獣人男が猫にされた後に、書斎前の床に放置されていたものだ。
雑巾にでも使えるかと取っておいたものを、古布と一緒に引っ張り出してきたらしい。そしてその服の上には交差する鷹と鴎の頭の紋章……あの眇目が首に提げていたモノと同じ兆嘴商会の徽章が、鎖でできたとぐろの中心で鈍く光っていた。
それはこのクズ猫が確かに、彼らと対立した"群れ"の一員であることの証だった。
そのクセ、――夢でも見ているのか――視線を突き刺す間に持ち主の後脚はピクピクと痙攣する。来て初日で警戒心が皆無なのも腹立たしい。
見なかったことにして、ため息を吐く。
ひとまず自室に上がることにした。階段を上がり、自分の部屋に通じる扉を開く。しかしそれは、開いた扉ごしに窓辺に目をやったときだった。
「――!!」
イチヘイは窓の外、黒く染まった森の梢の上から、白と青――二つの満月が並んで上りだしていることに気付いた。深紅の瞳が、ハッと見開かれる。
自室の入口脇、上着を掛けている壁鈎には、同じく腰に回すポーチがひっかけられている。イチヘイはそこに手を伸ばした。中を開けば案の定、そこには昼間 雑貨屋で買った音消しが紐でまとめられたままになっている。
「しまっ、たな……」
イチヘイは思わず横髪に指を埋めた。この音消しは、花登にフィーのを聴かせないようにするために買ったのだ。
自室の出入口向かいに目をやれば、そこには固く閉ざされて、おそらく明日まで開くことはない相棒の部屋の戸がある。その両の目には、彼には似合わぬ薄らい怖れが滲んでいる。
これまでは、夜毎 月が一つで、花登自身の存在がきっと救いになっていたのだろう。いつもよりずっと静かな方だった。
しかしトルタンダから帰ってきて以降――――月の巡りが重なって、こんな風に月が二つ昇る晩は、フィーの慟哭は決まって深く激しくなる。それは今夜も、きっと変わらない。
(もう誤魔化せない……のか……?)
イチヘイはじっとその扉を見つめ、それから溜め息の代わりにそっと目を閉ざした。
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時刻は、その日の昼間にさかのぼる。
図書館の中は静謐そのものであった。
昇りきった日が、縦長のガラス窓から室内を照らしている。その日差しを格子状に切り取り、あたかも聖堂のごとく吹き抜けの館内には、長い光の帯が幾筋も差し込んでいた。
種族は入り交じるものの、館内で書架を見上げ、あるいは席で読書をしているのは、どれも学者風情や貴族か金持ちのように身なりの良い者ばかり。
その中の一角、図書館の奥まった角隅には、本棚に囲われ、半個室のようになった円机がある。そこに山と積まれた本の中に、行儀も悪く溶けたように突っ伏している黒い三角耳があった。白い毛皮の手が、ペラペラとページを捲っている。
ニカナグである。老齢の婦人がひとり、そのだらしない姿に眉を潜めながら通り過ぎる。
「どうしてだ……むーりー……」
パタンと表紙を閉じ、ニカナグは片腕の中に白くて長い鼻筋を埋めた。
ここ数日、大叔母の家からずっとここに通いつめている。
さすが交易都市で潤う街の、領主が私設した図書館と言うべきか、蔵書量は多かった。
ニカナグは一度読めば本の内容は一言一句余さず覚えてしまうゆえ、知らない本の新しい知識を、たくさん吸収できたのは収穫と言える。
しかし一方では、真に欲しい知識は一向に見つからない。調べれば調べるほど、ドツボにハマっていくようだった。
すぐ脇の窓からさす陽を浴びながら、ニカナグは呟く。
「おばさまからいただいてる入館料もバカにならないんだけどなー……」
何せ本とは高価なものだ。紙も同様に高価であり、書物も基本はすべて手写しか、魔法使いが個人で出版している、魔法を用いた小規模な複写本が主だ。
更に文字を読めるものも基本は学を持つ余裕がある身分の者しかいないため、こうした図書館では基本、維持費のために高い入場料をとる。誰でも入れるような場所ではない。
そもそもこれだけ大きな図書館が存在することすら、本来なら稀だった。
……その代わり、ここは魔法に関する蔵書が多いのが特色なようだった。
今、ニカナグの周囲に山積みにされている大小さまざまな本も、すべてそれにあたる。
しかし、呪いのかけ方の本はあっても、解き方の専門書は予想外に皆無だった。また、どのように解呪するか、稀にかけ方の本に記述があることはあっても、すべて同じ答えを返してくる。
それは即ち、『かけた者が責任を持って解け』『かけた人間にしか解けない』などだ。呪いは、魔法と違って系統立っていない。
術者によって呪いのかけ方が千差万別なため、解除の方法が基本、呪いをかけた側の人間に解かせるしかもらう道がないというのだ。
では、ニカナグのように〈魔法族の眼〉を持つ者視点からの仕掛け方なら何か出来ることはないだろうかと、捜してもみた。
ただ、この〈天賜〉自体も珍しいためか、特化した専門書自体も早々ない。
昨日、ようやく一冊だけ見つけた本を余すところなく読んでみたが、結局のところ呪いについては、
『視えているからと言って、何でも出来ると思い上がる使い手のなんと多いことか。呪いなど、一発で解呪できるものではない』
『呪いは織り目。呪いは糸。視える者でも、その糸を引くように、あるいは薄皮を剥ぐように、被呪者に対しては数年、場合によっては十数年。少しづつ時をかけて、解呪していくしかない』
という記述しか、今のところ有用な手がかりを掴めないでいる。
つまり、本当に完治まで付き合うなら、あの子とはそれだけの間、関わりを持ち続けなければならなくなる…………のかもしれない。
「うー……できる、のか? ワタシに……」
ニカナグは、罪人である。この図書館に入るのに使っているこの顔も、所在の分からぬ友人のもの。身分に至っては存在しない人間を騙っている。カナイナ・ヒドリーなどという人間は、この世界には存在しない。
それに別にこの地に根付くつもりもなかった。数ヶ月滞在してお金が貯まったら、手配書の及ばない、母国とは国交のない隣国へ飛ぶ予定でいた。
けれど、もうイチヘイ達に対しては、『この子の喉を治させてくれないか』と頼み込んでしまったのだ。
「逃げ……るのか……? また……」
一度は閉じた本のページを、また無造作にペラペラと捲りながら呟く。
パタン。
硬い表紙が閉じた。けれど書架に反響するその音は、ニカナグにまだ少しの勇気をくれる。
「いや……けれどまだここの本全部、読んだわけではないし……」
ハナトという子の人生にそこまでして関わるだけの覚悟は、正直ニカナグにはまだない。しかし、もう乗り掛かってしまった船なのである。約束の期日まで、あと五日。とにかくは、やるしかなかった。
◆
「白いお嬢さん、閉館時間でございますよ」
ギリギリまで粘ったが、閉館前の、最後の見回りにきた髭面の人族に見つかり席を立つことになった。
「最近良く……通いつめてらっしゃいますね」
と意味深に掛けてくる声に、「えっ?! ええ、はい……」と曖昧に返しながら出口に向かう。
なるべく隅で目立たないようにしていたが、やはりこの狛晶族の姿では、顔を覚えられるのもすぐなようだ。人付き合いは苦手なニカナグは少し焦るが、しかしはたと気付いて、声を上げた。
「あ、そういえば、あの……」
「何でございましょうか?」
「モニスス・トゥーデクテ名義の本って……、置いてありませんか」
「ああ、お大師さまの」
「そうです!」
淀みなく返ってきた言葉に一瞬、黒い立ち耳がピンと跳ねる。けれど、
「あの方の蔵書は、永く勤めてきましたが聞いたことがありませんね? なかなかの実力をお持ちであるとか、人でない姿をしているとか、ご長命なために名前や噂だけは知れてますがね……ただ、本を書くような方ではないようで」
そうしてニカナグを見ないまま、司書の首がゆるゆると振られる。
『とにかく少なくとも、ここの蔵書には存在しないですね」
その返し方は明るく澄んでいた。
ニカナグはその淀みの無さに、望みの糸をひとつ、ぶつりと断ち切られたような気がする。
あわよくばイチヘイとフィーの間の『呪い』だけではなく、ハナトの問題に関しても解決の糸口となる、とどこかで期待していたのかもしれない。
「そう、ですか……」
ニカナグの耳は意図せず下がるのだった。




