8.狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい⑦ ~幼女の出自~
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――《ギャァアッ?!》
と、直後に上がった悲鳴。咄嗟に疾らせた剣の切っ先が、イチヘイの背後へ回り込んできたソイツの左首を薄く裂いたのだ。その瞬間、切っ先に何かカリッと引っ掛かる硬い感触。
イチヘイは機敏に反応した。
「っ?! ――フィー! 首だ! 今斬ったとこ、核がある」
「んええ?! そんなとこに??」
この得体の知れぬ幼女にも、確かに注意は削がれている。思わずその黒髪の頭を凝視してしまうが、しかし今はこちらに集中するべきだった。
核はガラス質の、濁って丸い結晶体だ。今薄く毛皮と肉を裂いた場所に、骨とはまた確かに感触の違う何かがあった。
むしろ胴より狙いやすくて助かる、とにかく首に一撃決められればコイツは死ぬ。
「切り替えて首いくぞ」「あいあい!」
そこからの動きは、まるで流れるようだった。
綿密な打ち合わせなどなにも必要ない。この人族の青年と耳長族の娘の息の合い方には、すでに美しいとすら言えるまでの磨きがかかっていた。
変わらずイチヘイが前衛に立ち、瞬発力と素早さで僅かに彼を上回るフィーが、隙を突いて弱点を狙いに行く。
時間にすれば五分もなかったであろう。幾擊とやりあい、決定打はなかなか打ち込めずにいたが、それでもその僅かの経過で〈虚棲ミ〉は既にぼろぼろになっていた。
《ギャッギ! ギャッギ!》
「……残念だな? 仲間は来ねえみたいだ」
確信した勝利に、イチヘイがニヤリと笑う。
一撃必殺には至らなくとも、やはり最初に臓腑を貫いた槍が刺しっぱなしであることは、じわじわと敵の体力を削っている。
既にその動きも初めの精彩は欠き、いま正にイチヘイの放った斬擊も、この〈虚棲ミ〉の左目を鮮やかに潰していた。滴る蒼血。
そこに長い耳から赤い房飾りと銀のピアスをなびかせ、風のようにやってくるもう一太刀がある。
彼が最初につけた左首の傷が、相棒にとっても何よりの目印となろう。
「――うやあぁーーー!!」
と気合い一声。
ぱきん!! とガラス質のものに罅が入る音と共に、フィーに貸した彼の愛刀が、〈虚棲ミ〉の巨躯を刺し貫く。
《ギ――――》
そして〈虚棲ミ〉は断末魔を上げ切ることもなく、濃い霧が風に流されるように消えてなくなっていく。
そのさまを、六つの瞳がそれぞれに見おくる。一瞬の静寂。
「……んん! やったーー!」
それから、止めを刺せたのがよほど嬉しかったのか、パッと彼を振り向いたフィーの翠の瞳は輝いている。それからその両目は、後ろに立ち尽くしていた幼女へぐるりと移る。
「どれいちゃん! 見てた?! やったようボクー!」
刺さる先を失くし『からり』と倒れた愛槍をついでに拾い上げ、喜色満面に近づいていくフィー。
しかし子供は《ひっ!》とひきつったような悲鳴と怯えた顔をしてその場に立ちすくんだ。
なにせこの狂人のもう片手には、イチヘイの短刀が握られている。どちらの得物も戦闘に使われ、殺傷能力が十分であることは彼女にもわかっているだろう。妖獣は消滅しても、身体から離れて流した血はその場に残る。
そんな鈍色に光る武器を両手にひっさげ、言葉の通じない獣人うさぎが楽しそうに近づいてくるのだ。
足下の下生えを揺らし、少女はじりじりと後ずさりをはじめていた。
別にイチヘイは子供のことなどどうでも良かったが、その昔、同じことをしてこのうさぎに怒られた記憶があったイチヘイは、それをお前がやるなという気持ちでその背を追う。
「っと、フィーまてまてまて」
そうしてとっさに伸ばした手で掴んだのは、フィーのふかふかのうなじであった。
今もまだ喜びに逆立っているが、こうなるとかなりの嵩に広がるぶん、この部位の毛足はしなやかに長い。
(あ゛……しかもこの首の皮えらい掴めるし伸びるな……?)
新たな(しかし知ったところでどうにもならない)知識を手に入れてしまったと思いつつ、イチヘイはぐいっとフィーを引き寄せた。
相棒の喉からは「ぐえっ!?」と、彼もあまり聞いたことのない潰れた声が漏れる。
「んええ、何するのよう……」
斜め上に振り向けた首で、フィーが長身のイチヘイの顔を恨めしげに睨んでくる。しかしすぐに何か思い出したような表情をしたあと、今度は彼に正面切って向き直った。また無邪気に明るい笑顔で、イチヘイに絡みだす。
「ねえねえイチ、ボクすごかったでしょー? ほめてー!」
「……んあ゛? 嗚呼……」
乞われるがままもふもふと頭頂の毛並みを撫ではじめると、フィーはまた「えへへ、えへへぇ……」と子供っぽい無邪気さで幸せそうに微笑みだす。
やはり少し戻ってしまう相棒に対して複雑な思いを認めながら、それでもイチヘイは改めて四、五メートル離れた場所に立ちすくむ子供をじっと眺めていた。
そうしてさっきの、この奴隷の発言を思い返す。
あれは、イチヘイの耳には「ひっ、嫌!」と聞き取れていた。だがやはり余りに突拍子が無さすぎて、いまになってみればいっそ気のせいだったのではとすら思えてしまう。
それにフィーはああ言うが、子供の出自はともかくとしてイチヘイ自身は『これ』とはもう絶対に会話しない、関わりたくないと決めてし思っていた。
ゆえにその素性を、わざわざ確かめるほどではない。
なにせこれはひ弱なこども。守られないと何もできない、イチヘイが嫌いなこどもだ。
イチヘイは弱くて何もできないこの生き物のことが昔から嫌いだった。自分が子供の頃からずっと許せないでいた。その感情がどこから来るのかは、彼自身にも判然としない。ただその小さな姿を見かけるたびに、胸の奥にはイチヘイにも説明のつけられない不快感が湧き上がる。
それに、そもそもこれが本当に奴隷であるならば、それ以上に『もっと大きな問題』がある。
だから気持ち的にも現実的にも、まさかこれの身柄を引き受る覚悟などイチヘイが持つわけもなかった。
結論。これ以上は無理だ。
ただ、一方の少女はイチヘイと目が会うと、おそらくはその目付きの怖さにたじろいだ様子にはなる。しかしそれでもなお辛気臭い、不安そうな顔をして、汚れた素足で森の下生えを踏み、二人の方へ近づいて来ようとしていた。
「おい、こっち来んな……」
イチヘイはおもわず、その鬱陶しさからさらに彼女を睨み付けている。重たくピリつく空気の中、立ち止まった少女は勇気を振り絞るように『ぐっ』と一度、唇を引き結ぶ。ついで長身のこの男を下から覗き込むように見上げると、やっと一言、こう話しかけてくる。
《────あ…………あい、ぁ、と》
それは、まるで風邪で喉をやられた時にしか聞かないような、ひどく聞き取りづらく、途切れ途切れのかすれ声だった。さらには腰からペコリと、頭を下げるような仕草をする。
「っ?! ……は……?!」
そして彼女のその行動に、イチヘイはやはりさっきの声は聞き違いでなかったのだと知る。それは彼にとっては、関わらないとした決心を一瞬だけでも翻してしまう程――――、それ程には衝撃的な言葉だった。
イチヘイも思わず、口を開いて独りよがりに尋ねてしまう。
《やっぱり、そうなのか……?》
瞬間、子供の表情が目覚ましく変わった。
それは切り替えた彼の言葉が、この少女にもわかる言語であったからに違いない。
さらには倒れていたフィーの耳も、イチヘイの発言を拾ってくるりと彼の方を向く。彼と幼女を交互に見比べだした。
「んえ! そうかだからボク、知らないのに知ってて? ……てことはこのこ、イチヘイとおんなじ国の……」
《お前、なんでこんなところに、居るんだ……?》
イチヘイも更に話を続けようとする。しかしそれは、この瞬間には叶うことはなかった。
なんとなればこの時、イチヘイに撫でられたことが嬉しかったフィーは、周りに注意を払うことを完全にやめていた。いくら耳長族といえど、意識の外に音を追いやってしまえばそれは聞こえていないのと同じとなる。
そして思いもよらぬその巡り合いに戸惑うイチヘイは、逆に目の前のこのちいさい子供にすべての注意を払っていた。
ゆえに遮蔽物も多い森の中、明らかにこの幼女一人を狙い、三人の横から音もなく飛びかかってきた『仲間』の〈虚棲ミ〉の接近を、二人は許してしまったのである。
――――二人と一人の、その間。開いていた三メートルほどの距離は、この場においては致命的であった。
いち早く気づいたのは、幼女を凝視していたイチヘイの方である。
しかし滑る風のように二頭目の大きな錆色斑が現れても、彼女にそれほどの執着を持たないイチヘイはわずか一瞬、それを自分事として受け止めなかった。