86.身体のあるお化けの解⑤ -贈りもの(下)-
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それを聞いた縞も、自分が言い返せない立場であることをようやく思い出したらしい。「ウギギギ……!」と歯噛みしている。
そこで、イチヘイもハッと我に返った。
「あ、オイ、花登?」
席を立つのは別に構わない。ただ、問題なのはこの口の悪い同行者の方である。遅れて背中に声をかけると、
『しまに何かされたら、イチ兄をよぶ。お仕置きしてもらうから、だいじょうぶです』
さっそく指先が、与えたものに文字をしたためて見せてきた。……思いの外、強かである。
ついでに彼女から、箱罠をひとつ使っていいかと訊かれた。何に使うんだとは思いつつ、使う相手はおそらくこの馬鹿しかいないため許諾する。
「ありが、と」
そう言い残し、家の中に消える小柄な背中を見送っていると、同じく隣で呆気にとられていたフィーが声を上げる。
「んええ。ハナトちゃんは、猛獣使いだったのよう……?」
思わずハハッと軽く笑った。
「猛獣というより、あれは珍獣じゃないか?」
――それからイチヘイははたと気付く。数日ぶりに、二人、だった。
ずっと二人でいた。ゆえに以前と何も変わらぬのに、今はなぜか少し落ち着かない。その隙間を埋めるように、イチヘイは名前を呼ぶ。
「フィー」
「んえ? なーにイチぃ?」
フィーはきょとんとして、不思議そうに両耳をイチヘイに向けている。ずっと共に過ごして来た。しかし思うと、用もないのに呼ぶなんて――、初めてのことだった。
開いた沈黙と翡翠色の視線にまた落ち付かなさを覚え、はたと思い付いた言葉を語る。
「……サマロ、食うか?」
「んっ、たべていいの?」
聞けば花登が行ってしまったゆえ、我慢していたらしかった。「別に残しとけば良いだろ」と言うと、彼女は大胆に皿ごと抱えだす。一口食べた瞬間からフィーの耳は幸せそうに斜めに垂れた。
「んへへぇ……サマロ、すき~……。んね、イチにもあげるぅー」
「おう」
ひとつだけ渡された。本当にひとつだけだった。でも別に構わない。
てろんと溶けている、耳と顔。手も口も、もくもくと食べ進めている。頬を緩めて、とても嬉しそうだった。
「よかったな……?」
「うん!」
一晩おいたサマロは水分と甘さが馴染み、食感も、甘さも香りも、作りたてとは変化して段違いに濃密になる。
イチヘイはその甘さを茶で飲み込む。鋭い目付きに似合わぬ穏やかな顔で、つづいて二つ目を頬張り出す彼女の顔を見る。当初は縞を吊る餌の意味合いの方が強かったが、作った甲斐はあったと思った。
そうしてまた、ざらりと胸を舐めだす何か。触れようと胸に手を当てたとき、彼は指先にある硬いものに気づく。
――ああ、そうだった。
思い出して、もう一度名を呼んだ。
「んう?」と首をかしげる彼女に向け、取り出したのは四角い箱。厚みは四~五センチ、小さい正方形のかたちは十五センチ程度、片手にどうにか収まる程度の大きさだ。上着の懐から取り出して渡す。
「お前にも、これやるよ……。結局押し売りババアには勝てなかった……」
それは簡易な紙包みと麻紐で、無造作に包まれている。
「え、え、なーに? ノナウばーちゃんがどうしたの?」 と受け取るフィーは、突然の贈りものに困惑と期待でぱたばたと、しっぽをラグの上に跳ねさせている。
フィーの指先が紙を開くと、そこには精緻な細工箱。緩く歪むガラス板の奥には、青い蝶が一頭。羽根を広げ胸を針で留められ、飾られている。
(あのばばあ、最後までゴネて面倒だったな……)
そんなことを思いながら、彼女の顔を覗き込む。こんなものをフィーに贈るのも、多分初めてだった。
「一番小さい箱だけどな。……蝶。好きだったよな」
するときょとんと目を丸くした一瞬の間のあと、フィーは
「磔の、ちょうちょ……」
と呟き、黙った。
「……フィー?」
そして更に数秒の沈黙のあと。
「へへ、えへへへへぇ……?」
イチヘイは、崩れるように変化していく相棒の声音と表情に、一瞬で顔を曇らせていた。
――――フィーが、壊れたように笑いだしていたからだ。
「フィ、ぃ……?」
呼んでももう返事はない。いつもの親しみが籠った光で、イチヘイの目を見ようとはしない。
零れていくのは、ただ震えて、乾いた笑い声。
彼はそこで察してしまった。
その笑みがもう、こちらに向けられているモノではないということに。
それは幾度となく越えた夜の底で、彼女の近くに添いつづけるイチヘイが最も恐れ、向き合うことを厭うて逃げて来たもの。
――フィーゼィリタス・アビの内に巣食いつづける、道理の通じぬ狂人たる一面――あるいは、あの月の夜からイチヘイが抱えてきた罪の容に、ほかならなかった。




