85.身体のあるお化けの解④ -ごしゅじんサマ- & 断章:‐かける、ふれる‐
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この世界には魔法がある。獣人種もいる。しかし喋る〈刷毛尾猫〉は存在しない。もし四つ足の獣が喋るのならば、それは既に〈刷毛尾猫〉などではなく、何かの妖魔か妖獣の類いになりえる。
そのため村民への説明が面倒なこと。また、よしんば村民と関わらせてこんな下劣な中身の生き物を家に置いているとわかったら、どのように噂が立つかも分かったものではない。
更にはお師匠の魔法、『鏡写し』が違法であった以上、同じく人間の姿を変形させるこの魔法が適法かどうかも、イチヘイには判じ難い。
となると、師匠の立場を考えるとソルスガにも安易には引き渡せなかった。それは、いくらこのゴミの本来の主にして、島の属する組織を正そうとしているソルスガがいくら口では『味方だ』と言っていたとしてもだ。
そのうえ縞は、ここまでの状況やべらべらと口を滑らせ続けた話を聞くに、元いた"群れ"からも完全に追放されている様子だ。
帰る場所もなく、さらに先述した通り、人型に戻らない限りは喋る猫に与えられる社会的立場などない。
そのまま放逐すれば、この男の目的が『元に戻ること』何である以上、引き続き何をしてくるかもわからない。
内心では悩ましい限りである。
イチヘイだってこんな下劣な男、いっときも側には置きたくない。しかし自らを重ねてきた同胞が「殺すな」と言うのなら、生かすほかない。
ならばいっそ、徹底的にルールで縛ってで手元に管理しておく方が、よほど安全だった。
ゆえに、『喋るな』『猫のフリをしろ』『許可もなく人里に降りるな』としたのが第一の条件だった――イチヘイとしては苦渋の判断である。
奥歯を噛みながら、続きの言葉を繋いだ。
「……テメエ、元に戻りたいんだよな? なら、」
彼はいけ好かない金色の両眼に、骨張った人差し指を突き付ける。
「第二に、俺ほか、この場にいる三人の言うことにはどんな内容でも絶対に服従しろ。部屋から出てけと言ったら出てけ、外で寝ろと言ったら寝ろ。万一妖獣に挑めと言われたら挑め。命令には服従だ」
縞は鼻で笑っている。しかし、
「ただ、命じて「死ね」とは言わない。命の保証はする、そもそもこれはテメエをここで飼うための条件だからな」
イチヘイはチラリと、茶器を片手に自分たちを見ている、言い出しっぺの子供に視線を投げる。目を戻すと、縞も嘲笑を収めて花登を見ていた。その耳先の角度からは、鱗のように薄く、警戒心が剥がれ落ちていくようにも見えた。
「第三に、食卓やら台所に置いてあるもののつまみ食いは禁止だ。青頭巾も襲うな。飢えない程度に食事は出してやる。畜生らしく出されたモノだけ食ってろ」
皮肉を込めて煽っているつもりだった。しかし、今度こそ縞の耳と眉は、戸惑うように下がる。
視線が、イチヘイに戻ってくる。
「……は? 飯出るのかァ、にゃ……」という小さい呟きが聞こえたが面倒なので無視して続けてしまう。
「それから、二度と誰の風呂も覗くな。というか、俺たちに一欠片の迷惑もかけるな。……俺やここの二人にどんな形であれ手ぇ出してみろ。そのときは半殺しだ」
「はにゃ……」
「……以上だ。
それと、勘違いしてるみたいだが、テメエにその魔法をかけたのは、カナイナじゃなくてこの家の主で、俺の師匠にあたる魔女だ。今はどこにいるかもわからないが、いずれ帰ってくる。
そのとき元に戻すための口利きを俺がお師匠さまにしてやるかどうかは、全部お前の心がけ次第になる。分かるな? それに花登はああ言ってるが、俺だって人間だからな……。気分を損ねたら気ぃぐらい簡単に変わるぞ?」
イチヘイは首根っこの付け根から生える綱をつかみ、縞を目前まで持ち上げた。深く響く声に憎々しげな色を混ぜながら、鋭い瞳で最終的な脅し文句をかける。
「――――結局のところお前の運命と生命は、俺が握っていることを忘れるなよ……??」
「ニャァ……」
どんな気持ちだったのだろう。今度の鳴き声は、完全に〈刷毛尾猫〉のソレだった。
「条件を呑むなら縄をほどいてやる」
するとそのとき、脇からまたよく通る声が上がる。
「んええ、イチヘイ、この猫オジサン……飼うの?」
はたと気づく。そういえば、フィーに同意をとるのを忘れていた。
「……嫌か?」
「ううん、イチヘイが良いならいいのよぅ。だってボク、イチヘイの言うことなら何でもきくのよぅ?」
「まだ……そんなこと言ってんのか……」
へにゃりと微笑むその言葉に、またざわりと掴めない何かが胸を嘗めていく。
「それにねぇ、花登ちゃんが殺さないでって言うなら、それもねぇ、ボクと同じなのよぅ」
「同じ?」
「んえへへぇ? あのねぇ、ひみつなのよう」
噛み合わない会話。フィーも相当縞を嫌っているようにみえたが、『イチヘイと花登が良いなら良い』と、言いたいのだろうか。
けれどそこには、さっきまで縞を小突き回して煽っていた横暴な無邪気さとはどこか違う、やはりどこかネジの外れた笑みがある。
同じものを見て話しても、相棒のこの狂気はいつまでも拭いきれない。
「ヘッ……」
ただ、そこで嘲笑のように鼻が鳴り、イチヘイの意識は一気に縞へと引き戻された。苛立ちと嫌悪が、その表情に再び帰ってくる。
「……で? 呑むのか? 呑まないのか?」
縞は彼を睨んだままこたえない。
イチヘイはまた足元に縞を転がし、さっき鼻先に刺していた短刀を床から引き抜いた。
銀色が、光る。
「……呑まないなら、さすがにてめぇみたいなゴミは抱えきれない」
その言外と、握った愛刀の刃先に潜むのはもちろん、『聞かぬなら死ね』である。
だが、そう言い放ったときだった。自分の食べかけの皿に新しく料理を盛った花登が、おもむろに四つん這いになって、おずおずと近寄ってくる。
絨毯の上を滑らせてきた皿を、縞の鼻先に寄せた。皿の上には、炒めた野菜とこんがり焦げ目のついた青頭巾の手羽先部分がのっている。
「……美味し、よ?」
掠れて良くでない声が言った。イチヘイはその光景に、言葉を上手く出せない少女の内に隠れた、自分とは確実に何かが違う本質を見た気がした。
理解が及ばず、彼は一瞬言葉に詰まる。
一方、金色の目はキョロキョロと戸惑ったように料理と、花登と、イチヘイと、それから時々フィーのほうを見て泳いでいた。鼻先はピクピクと動いて、料理の匂いを嗅いでいる。〈刷毛尾猫〉の身体は、鼻も耳も鋭敏だ。さぞ強烈なことだろう。
それからさらに数秒の沈黙のあと、二つに割れた上唇がもぞりと開いた。
「……~~~う、にゃ」
「あ゛? 聞こえるように言えクズ」
縞はパッと顔を上げた。
「ニャア! これ、食う! って、言ったんだにゃァ?!
オイラ昨日からよォ、何も食ってねえんだニャ! 全部言うこと聞くからよォ、ほどいてくれニャ! 新しい……―――」
そこで一拍、間があった。性格の悪そうな笑みを佩いて、縞の口元が歪む。
それは自暴自棄になった者の最後の悪あがきのようにも見えたし、或いはイチヘイの手管と花登の一押しで、この馬鹿の取るに足らないプライドを上手くへし折れた結果だったのかもしれない。
「……新しい、ごしゅじんサマよォ……」
ニャァ……、と最後に鳴くその声を耳にいれながら、イチヘイは嫌いな相手からそう呼ばわれることに、背筋の毛穴をぞわりと逆立てていた。
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【断章:欠ける、狂れる】
まだ割れてはいない。
でも、傷がはいった。
フィーはこの世界の女子服を着なれないハナトに、優しく着方を教えてあげていた。そうして自身も濡れた毛皮を拭き、乾いた服に着替え終わった――その直後のことだった。
震える指を首に伸ばせば、お師匠さまからもらった『御守り』の、滑らかな石の表面に薄いひびの感触があった。
『ぶつければ欠けることもあるから丁重に扱いなさい』とは言われていたけれど、さすがにこの一瞬にはあり得ないことである。
ぴしり、と微かに首元から鳴ったその音は、山が裂けるより、海が割れるより深く、フィーの心を絶望と焦燥に突き落とす。慌てて外して眺めた。右側二つ、石を失った台座のすぐとなりにある青い石に、亀裂が走っている。
既にないこの二つが割れた瞬間の、一昨日の出来事を思いだし、彼女は上着の帯を結ぶのも忘れて部屋を飛び出していた。
ハナトに名前を呼ばれた気がしたけれど、耳に入らなかった。
――イチ、なにがあったの? なにをしたの?
そっちに行ってはダメだと思う反面、イチヘイに殺してもらえるならと思う心も、フィーの胸の中にはやっぱりある。
けれどお師匠さまとの約束は、どこにもいけないフィーにとって、まだ唯一の緣たりえた。彼を衛らなければという思いの方が、まだ強かった。
駆ける。
触れる。
状況は、見て察した。
この性格最悪な猫のことは、今はどうでもいいのだ。フィーは大好きな『相棒』を諌めなければならない。そのことだけが、心が裂けそうになってもなお、狂人のように振る舞うフィーを突き動かす。
それでも触れた『相棒』の手首は、濡れて冷えきってしまった彼女の手のひらには熱いくらいだった。そのあたたかさに跳ねる胸を、『私』を押さえて、振り絞る。声を上げる。
お師匠さまと交わした約束を、まもるために。
『怒っちゃダメなのよう……』
フィーは縋る。あの二つの月と雪の夜から、自らの価値を見失ってしまっても、今はまだ………。




