76.潜むもの、変わるもの① -雑貨屋にて-
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いくつかある窓も扉も全て開け放たれている。それでも、広い店内はそこそこ薄暗い。
人影もなく、遠くで空を渡る水鳥の鳴き声だけが響く。
だが、吹き抜ける初夏の風や、よく磨かれた棚。古びた天井に反射している日差しの陰影や、雑多に吊るされた品物の隙間に息づくものは、停滞や陰鬱ではない。
そこには確かに人々の暮らしが交わりあっている、生活の手触りがあった。
「おーいノナウ婆ちゃん、椅子壊れたから直してくれない?」
唐突に客が来た。店の入り口の床に影が立つ。
カウンター脇で肘を付いていたイチヘイは、眉間にしわを寄せたまま無粋な視線を投げた。見れば同じくニーム村に暮らす、十代前半ほどの少年だった。
「なんだいね、今取り込み中なんだ」
するとカウンター脇で、鑑定用の虫眼鏡を手にする婆さんが反応する。顔を上げないまま少年の抱える物にチラと目を寄越し、威勢良く声を張り上げた。
「あとで息子に押し付けとくから、そこら辺の脇にでも置いときな! お代は後で貰うよ」
「わかったー」
彼は元気に返す。しかし奥まで来て、自分をじっと見てくるイチヘイの視線に気づいた途端、ぴくりと怯えた。おそらくイチヘイの目付きが、竜をにらみ殺せそうな程には鋭かったからだろう。
こんな表情、普段のイチヘイも村民には向けない。
「あ、お、お大師さまのとこの……」
示されたカウンターの傍に脚が一本折れた丸椅子を置きつつ、「お、おはようございます……?」と若干戸惑ったように挨拶する。
イチヘイが低い声で「……おう」とだけぶっきらぼうに返すと、とたんその頭には横薙ぎの張り手が飛んできた。
後頭部に衝撃。スパン! といい音がする。その間に少年は退散していった。
「――こんのクソガキ! なんだいね今日は、いつにも増して態度悪いよっ!!」
「あ゛ー?! うるせーよ!」
「あんたがこんなに怒るなんて初めてみるね!」
「~~っ、チッ、余計なお世話だババア」
イチヘイは朝から不機嫌だった。
まだ誰にも言ってはいない。しかし今朝までの間に、イチヘイの中では幽霊の正体がほぼ確定していた。以降、彼はずっと腸が煮えくり返っている。
ただのつまみ食い犯に対して憎しみさえ覚えている。
無言でまた肘をつきなおした。ムスッと鼻筋にしわを寄せながらノナウ婆さんの作業が終わるのを待つ。
花登救出のために戦ったあの瞬間から、自身の中にある何かが変わり始めていることには、イチヘイ本人もずっと気づいていた。ただ、幼少期以来、久々に取り戻したこの燃え立つような感情は制御が難しく、周囲の人間に当たり散らしたところで晴れる気もしない。
どうしてこんなに不愉快なのか。
ざらざらと終始、胸を鑢っていく名前のつけられない思いに支配されながら、彼自身にはその理由がよく分からないままだった。
昨日、婆さんが家に来たときや、ソルスガと対峙したときすら、こんなに長く苛立つことはなかったのに。
「……で? 巣蜜を食った幽霊がなんだって?」
少しの沈黙ののち、ノナウ婆さんが話の続きを促してくる。
『森の家の幽霊騒動』。よく考えると、要らんことを話してしまったような気もする。
だが、視線をやれば太くて力強い釣り眉の下で、婆さんの両目は爛々と輝いていた。『狙った噂は逃がさない』とでも言わんばかりだ。
イチヘイは一つため息を吐き、気を紛らわせるように左耳に触れる。魔除けの赤い房飾りのピアスが彼の耳元でチャリ、と音を鳴らす。これをくれた師とフィーの顔を頭によぎらせつつ、少し頭を整理した。
(まあ、ここまで話した内容には特段、問題はないか。絞るのはこの後話す情報だけだ。……家に鏡写しがいることを隠すのは言うまでもない、が……)
ゆえに嘘を交えつつ続きを語る。
「あー……まあ……。それから、俺とハナトが夕食の片づけしてたら、水小屋の方からフィーが飛び出してきたんだが――――」
あれから、幽霊に関しては追加の事件があった。
一つは、フィーが『幽霊』に風呂を覗かれたことだ。
実際のところ、彼がフィーを見つけたのは花登と鏡写しを交えた相談を終え、森から戻ってきた直後である。
彼女はよほど混乱していたのか、毛皮も拭ききらずにびしょびしょのまま、直視を躊躇う程度の薄着で二人を探していた。
少し落ち着いてからは、『目だけ金色にひかってた!』『たぶんちっちゃかった!』と証言し、さらに、『……『貧相だ、つまんない』って言って笑われた……失礼なのよう』と唇を尖らせていた。
もう一つは、『幽霊』が罠にはかからなかったことである。
婆さんに語ったのは、そこまでだった。
――「まあ、そんな感じだ……」
ムスッとしたまま締める。
婆さんからは、「ふーん?」と興味がなさそうな声のトーンが返って来る。だがぱちぱちと繰り返すまばたきの目尻には、これを最初に誰に話そうかと思案するような悪戯っぽい笑みがある。
イチヘイは表情を崩さず、内心でだけ辟易して目を細めた。これ以上は、単に婆さんに話すのが面倒なので黙っているつもりだ。
ゆえにそれ以上は口をつぐんだまま、じっと今朝までを振り返る。
実のところ、イチヘイはずっと実験していた。
二人に「騙す宣言」をした後から、彼は自らが語る情報、見せる情報、すべて犯人に見られていることを想定し、独りでいるときにとる仕草にまで注意を払っていた。
落胆する演技もしてみせた。
彼が、『幽霊は、自分たちの言葉を聞いている』という内容を、声でなく文字で語ったこと。
すぐ口を滑らすようになってしまったフィーには、殆ど何も知らないでいてもらったこと。
『幽霊を罠にかける』と大仰に宣言したこと。
それに、サマロがどんな菓子か普段より口数多くハナトに語ったことや、あんなわかりやすい箱罠を仕掛けたこと。
全て向こうに知能があるか、こちらの言葉を理解するかどうかを確認するための試金石だった。
なにしろ〈青頭巾〉を拐うために小屋の扉を開けて、ことが済んだら丁寧に掛け金まで閉じていくような『幽霊』である。さらに巣蜜が食い散らかされたとき、蜜で裏側がべとべとになっていた箱の蓋は、箱本体が落ちた場所とは少し離れた位置にひっくり返してあった。
つまり、蓋を開ける。
どかす。
テーブルが汚れるから裏返して置く。
後で閉めるつもりでいたのに、急に人が来たから慌てて隠れる。
この一連の動作をやってのけた可能性も否めなかったのだ。
彼がこの二つを同じ犯人の仕業だろうと見当をつけたのも、どちらの事件にもそこはかとなく知能を感じたからだった。
その結果として、幽霊は罠にかからなかった――――。
やはり『幽霊』には、イチヘイたちの言葉を理解できるだけの知能と警戒心があった。
――――さらにあまつさえフィーの風呂を覗いて貶したと言うのだから、野の獣などでは決してない。そうしてそれが確定した瞬間から、彼の中では怒りが止まらない。
ただ、罠にかからなかったこと自体は想定内であった。怒れる反面、その事実を思うとむしろほくそ笑む心もイチヘイの中には疼く。
なんとなれば、今のところはうまく踊ってくれているということだ。
彼は治まらない不機嫌さも混じって知らず凶悪な笑みを浮かべながら、最後に話した言葉にそのまま続きを継ぎ足した。
「……まあ、今朝の箱罠にはかからなかったがな。今は、もう少しマシなエサを入れた罠を用意してある」
しかしそう言った直後、婆さんは顔を上げた。手にしていた虫眼鏡と、両手の平より一回り大きい、濁った灰色の塊を机上に置く。
「で、なんでそんな不機嫌なんだい? んな顔で店ん中に居座られちゃ、さっきの坊主みたいに客が寄り付かないよ」
「あ゛? 知らねえよ」
すると、どうみてもわざとらしいため息と共に、ノナウ婆さんは緩く首を振った。話しかけると言うより、大きな独り言のような話し方である。
「ちっとはマシになったかと思ったんだが、やっぱりポンコツなのは変わっとらんかったんかいね? クソガキ」
「あ゛ぁ゛??」
思わず突っかかってしまったときだ。
「――イーチヘイっ! ばーあちゃんっ!」
午前の陽の明るさから転び出たような笑顔で 、店の入口にフィーが顔を覗かせた。その後ろから、村の小さい子供たちまで数人、「お弟子さん、こんにちはー!」と元気に叫びながら現れる。




