75.身体のあるお化けの怪③ -手ぐすね引く夜-
読了目安→5~9分
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天井から滴ってくる滴と、窓の隙間から出ていく湯気を眺めて一人お湯に浸かる。最後に香油の香りと湿気を纏わせながら、花登は外に出た。
すると入れ替わりで、杏色の長い耳と尻尾を揺らしながら、「わーい、おふろー!」とフィーが脱衣場の奥に消えていった。
一人残った裏庭の隅。
キッチンの窓が近いせいか、ひやりと湿気を帯び出した夕闇の中に、さっき焼き上がったサマロの、花のような甘い匂いが漂っている。
向こうの窓から魔石具の、仄かに暗く、眠たくなるような黄色をした明かりが漏れていた。
「おい花登」
そこへ、バルコニーに続く勝手口の扉を開けて、イチヘイが「ちょっと来い」と手招きする。
綺麗になったばかりの裸足をまた汚すのは惜しかったけれど、とりあえずは呼び声に従う。
「行くぞ。罠を張りに行く」
あれから、焼き上がったサマロは四分の一が、フィーに気付かれる前に油紙の袋に取り分けられていた。
残ったサマロは冷めてからすぐ蓋付きの器に入れて、この部屋の片隅に鎮座する本棚の、鍵付きの棚に仕舞われていた。
「ぬ……?」
そこでふと気付いて、ハナトは屈む。
花登からは死角になるテーブルの下に、いつの間にか木の板で組まれた箱罠が置かれていた。そこそこ大きくて、中型犬くらいなら閉じ込めてしまえそうだ。ただ、天井の明かりが心もとないので、覗き窓の一つもないそれは、屈んでみても中は良く見えない。
「そっちにはもうサマロが仕掛けてある。こっちはこのままで良い。もう一個仕掛けに行くぞ」
「あい……」
言って、彼は一度廊下に半身を出すと、部屋の隅にもうひとつ仮置きしていた箱罠を軽々と担ぐ。ハナトは自分も持ちたいと申し出たが、「要らん、一人で持てる」と一蹴されてしまった。
道を照らすランタンまでもが、サマロと一緒に彼の手の中にある。
……別に花登を頼る気はないらしい。
「いいから来い」
「ぬ……」
花登は一瞬、唇を引き結んで戸惑った。
(じゃあ、あたし、必要ないんじゃ……)
一瞬役に立てないことに肩を落としかけるが、しかし『騙されてろ』とこの男が確かに言ったのを、花登は思い出す。その言葉を信じておとなしくその背中を追うと、また裏庭に出る。
水小屋の脇を通りすぎるとき、風呂場の天窓の隙間からは良く通る声が漏れ出ていた。
月は満ちずと、日は登り往く♪
粃、淋しや 嵐に揉まれ♪
さりとて 麦穂は、麦穂は たわわヨ♪
フィーが気分良く、また鼻唄を歌っているらしい。
変な歌詞だ。
すっかり暮れた裏庭の、その柔らかい風にのると、その歌も物悲しくも綺麗に花登の耳に入ってくる。
視界の中では、イチヘイがランタンと一緒に片手で持ったサマロの袋が、彼の歩調に合わせて揺れる。そのそれぞれを目と耳に捉え、ハナトはふと、さっきの光景を思い出していた。
焼き上がってみると、サマロは丸くて、濃いきつね色をしていて、信じられないくらい良い匂いがした。パッと見は一口大のドーナツみたいだ。
『――――んええ、おいしそうなのよう……』
バルコニーから戻ってきて焼きたてのサマロを目にしたフィーも、早速目を輝かせている。
花登にはそうでもなかったけど、フィーの顔を見ていると、『ここでは甘いものなんて、果物以外はそんなに食べられない』と言っていたイチヘイの言葉は本当なのかもしれない、と思い直す。
一つなら食べて良いと言われたので、ぱくりと頬張った。
焼きたての食感は、もちもちというよりぷにぷに。思ったより甘さは控えめだったけれど、蜂蜜の香りと一緒に一瞬、花畑に寝転んでいるかのような爽やかで優しい香りが鼻を抜け、花登は目を丸くした。
けれど、あまりの美味しさを噛み締めて一つ飲み込んだあと、花登のとなりでフィーが、
『じゃー、一晩寝かせた方がおいしくなるから、残りは明日食べるのよう!』
と蓋付きの器にサマロを仕舞い始めたのには、別の意味でびっくりしてしまった。ただ、側の椅子に座った彼もそれを特に止めない――。多分元々、そういう食べ方のお菓子なのだと、花登は思った。
「これより、美味っ、じ……?」「んふふふー、そうなのようー?」
短い会話だった。そこへイチヘイが、鋭い瞳を細めて、フィーの横顔を覗き込む。もし睨まれれば縮み上がってしまう程度には怖い顔立ちなのに、そうやってフィーを見る目は、ずっと優しい。
『フィー、急なんだが明日はニーム村に出かける用が出来た。帰ってきたら茶でも入れて食おうな、外で、みんなで』
『んあえ?! おでかけ?! それにそれに、外でみんなでってことは、お茶会!!』
すると、それがきっとよっぽど嬉しかったのだろう。花登の隣で、彼の方を向いたフィーの耳も尻尾はピンと跳ねた。そして次の瞬間、フィーの口から放たれた言葉に、花登の心も一人で勝手に盛り上がる。
『えへへぇ、イチぃ……だいすき! 結婚しようー?!』
(――え、え……?!)
思わずイチヘイの反応に注目してしまう。
『あ゛? しねえよ』『んえぇ、知ってたー!』
びっくりするくらい塩だった。ヘラヘラとわらうフィーの言葉が本気か嘘かは、花登には分からない。
……でもそう返すイチヘイの深紅の瞳が一瞬揺れたのを、二人の顔を見上げていた花登は気付いてしまった。
もし友達が目の前でこんな話をしだしたら、花登は両手を口に当てて黄色い悲鳴をあげていたはずだ。
(怒られそうだから出来ないけど……)
しかし悲鳴はあげなくても、じろじろ見すぎたかもしれなかった。彼女の視線に気付いたイチヘイが、しかめた眉で問いかけてきたのだ。
『? おい花登、昼間っからたまに見るがおまえソレどういう感情の顔なんだよ……』
『ぬ、なん゛でもな゛っ、い』
……やっぱりこの二人は、花登には良く分からない。
(――――付き合って……る? それともない?)
花登は意識を、自分の足元でしゃがんでいるイチヘイの広い背中に戻してきた。『いいよ』って答えてあげれば良いのに、などと勝手なことを考えて、またふふふと手のひらで口元を覆ってしまう。
ちなみに花登がこんなふざけた気持ちで立つ目前で、イチヘイの顔つきは大真面目だった。
「……よし、これで良い」
「っ、あいっ」
言いながら立ち上がるイチヘイ。彼がこちらを見る前に、花登は咳払いをして浮わついていた気を取り直した。
なんとなればいままさに、二個目の罠が家禽小屋の直ぐ隣に仕掛けられている。けれど結局、本当に見ているだけになってしまった。
どうして自分を着いてこさせようとしたのか、花登は余計に首をかしげる。
「……じゃ、行くぞ」
と、広い背中はまたのしのしと歩きだした。動物園で見たことがある、獰猛な虎やライオンを思わせるような、しなやかな身の運びである。しかし、足が向かったのは家の方角ではない。
「……森?」
敷地の内から外を見る。
日暮れ過ぎの森には、夕空に僅かに残る光すら届いていない。しかし、その後ろ姿は裏口の小さい木戸をくぐって、どんどん先に行ってしまう。遠くなる。
「イチ、兄!?」
叫んで、ウッと喉が絞まりかけた。でもイチヘイは手をひらりと振って、振り返りもせず呼びかける。
「こっちだ着いてこい」
曲がりくねった道に呑まれて、もうあまり姿は見えない。ランタンの光だけが、薮の隙間か薄く透けている。
一体何のために。暗くて怖いのだけど……。
しかし、付いてこいと言われている――――。
花登は意を決して家の敷地の境界を跨いだ。多分五十メートル位は走っただろう。
《――イチ兄、なっ、んで……》
軽く息を上げながら、ようやく追いつく。
目指していたランタンの、淡い光源を見上げ――――そこで花登は目を疑った。
いつの間にか、明かりが二つに増えていた。
《きたな? 花登》
見つめてくる瞳は四つ。
イチヘイが、二人に増えていた。花登は思わず、瓜二つ……を通り越して全く同じ顔の二人を見上げた姿勢のまま硬直する。
(はっ、え、え……??)
《あの家の土地の中にいると、何語で話しても全部わかるからな。ちょっと家の外に出た》
片方は、きっとわざとなのだろう。日本語で話しかけてくる。彼の言う通り、あの家の敷地の中は、イチヘイとフィーのお師匠さまの魔法で、知らない言語同士でも言っている意味がわかる。だから花登が日本語しか話せなくても、フィーとも言葉が通じていた。
そしてもう片方は――――、
「花登さま、はじめまして。驚かせてしまい、申し訳ございません」
聞こえる低いのに凛と響く、それでいて少し喉にかかる声。
つまり花登の知るイチヘイの声と全く同じ声で、びっくりするくらい丁寧な話し方をしてくる。
話しているのはルマジアの言葉。
ただ家の中と同じで、それは花登にはちゃんと理解できるのだった。
花登の脳裏を、自分に「耳」をくれると言っていた夢の中のシーナバーナと、それと全く同じ顔をしていたカナイナ先生のことがよぎる。でも理解るだけで、話せはしない。
ちなみに今話しかけてきた、花登から見て右側に立つイチヘイは、今までハナトが見てきた彼と、眉から鼻筋に走る傷痕や、付けている片耳だけのピアスの位置が綺麗に鏡写しだった。
(これ、絶対イチ兄じゃない……)
見た目ではない、話し方や身のこなしかたが違いすぎるからだ。
(え、なあに? 魔法? どういう仕組み……??)
《あっ、はじめッ、まじ……ケホッ》
訳がわからず気圧されたけれど、一応挨拶は返せた。すると同時に、
《は? おまえなんで、敷地の外に出てコイツの言葉がわかる……―――?》
《ん? ぬぇ……?》
多分本物である方のイチヘイが身を乗り出して、本当に度肝を抜かれたような顔で、花登を覗き込んでくる。彼からすれば予想外の出来事だったのかも知れない。
《おまえ、そういう……「〈天賜〉」持ちだったのか……?》
《ぎふ、と?》
(良くわかんないけど、これが普通じゃないのはあたしも知っ……)
「あー……」
花登はハッとした。言い忘れていたのだ。
でも別に隠していたつもりはない。
本当は昨日の時点で、花登はこの能力に気付いていたし、驚いていた。それはソルスガとカナイナの見送りにいく二人について行って、敷地の外に出た時だ。
でも、あの時は皆、それどころじゃなさそうだった。それにイチヘイが、こんなにお話してくれるなんて、花登も思わなかったから。
(今なら、聞いてもらえるかな……)
ただ、字も書かずに長く話すことはできない。どう話そう。どうしたらわかってもらえる?
(――と、いうか、なんでイチ兄が増えてるの……?)
無表情のイチヘイと、眉根にしわを作っているイチヘイ。二人のイチヘイを見上げ、花登は戸惑う。
その沈黙にエナタルの森がざわめき、どこか遠くで、太い笛を吹くような、フクロウに似た鳥の声が響いていた。




