73.身体のあるお化けの怪① -巣蜜の恨み-
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この家の扉は観音開き。穴を空けられたのは左の扉のみであり、結句、左側だけが新品になった。
外のバルコニーで昼食をとり、時刻は昼下がりの少し手前だった。
イチヘイが古傷だらけの手で新しい建て付けに触れる。知らない家の戸口に手をかけているような気分だった。
「んええ、色、ちぐはぐだねえ……」
「うーん、そこは我慢していただけますかね、おひいさん」
後ろでフィーが首を斜めにしながら感想を呟き、トビが苦笑している。
――――「じゃ、イチヘイくん、僕たちはこれでね」
それからほどなくして、雪分ケの引く、荷積み用の輓獣車に乗り込み、二人は帰っていった。
しかしその去り際、横を過ぎていくノナウ婆さんはイチヘイの肩をがしりと掴む。相変わらずの強引さに彼が固まるのをよそに、婆さんはポツリと呟いた。
「ついに……クソガキがポンコツを卒業する日がねぇ……」
「あ゛? ポンコツってなんだよ」
さすがに心外である。
しかし婆さんは、イチヘイの問いを華麗に無視。さらにその隣に立つフィーまでを交互に見やりながら、
「……仏頂面のポンコツだと思ってたのにいよいよ所帯じみてきたって言ってんだ。しっかりやりなよイチヘイ……?」
しみじみそう言った。しまいには
「じゃあねハナトちゃん。このポンコツな父ちゃんと母ちゃんの言うこと、よーく聞くんだよ!
……ああ、どっちもポンコツで頼りなかったら、この婆さんのトコの子になってもいいんだからね!」
そうして、「がははは!」と妙に上機嫌な笑いを残し、通り嵐のように去っていった。
「は……?」「ぬ……」「んええ……」
三人それぞれにポカンと立ち尽くす。イチヘイは、フィーと思わず顔を見合わせた。相棒は長い耳を倒し、なぜかもじもじと困ったような、あるいは嬉しそうな表情が、手と顔に出ている。急に言われて、戸惑っている様子だ。
父。母。
……まあ、花登の保護者になったことは確かだ。好きに言わせて置けばいいだろう。
イチヘイは気を取り直して、相棒に優しく声をかけた。正直そんな体裁より、イチヘイには心を病んでいる彼女の様子を気にかける方がよほど重要だった。
「……家、入るか?」
「んえ? あ、うん!」
パッと返る言葉。するとそこにはもう、どこか様子がおかしい『いつもの相棒』がいる。フィーは、またニヨニヨと笑いはじめる。変わらず機嫌は良さそうだった。少し安心する。
「ねー、マロ蜂の巣蜜、嬉しいねぇ、イチぃ」「あ゛? ああ……」
ただこれをもはや日常と見なしてしまうことには、一抹の切なさ、やるせなさもある。イチヘイは小さく口を引き結んでそれをごまかし、二人に先んじて玄関に向かいだした花登の背中を見つめる。横ではフィーが、まだしつこく話しかけてくる。
「ねえねえ、イチはあれでなに作る? ボクねえ、ボクはねえ、サマロがいいなぁ……」
……この話、さっきも聞いた。甘いものが本当に嬉しいのか、フィーには昼飯のあとからずっとこうして、貰った巣蜜の使い道について話しかけられていた。
「えへへー、サマロね、お花の匂い強くて好きー!」「そうだな」
そんな二人の目前で、小さな手ががちゃん、と扉を開ける。
その、わずか。
――――ガタッ、ゴトン!!
台所の方から、確かに響いた。
三人の表情から一瞬で日常の柔らかさが溶けて消える。
それは何かが動いたような、倒れたような……意思のある何かの気配を確実に伝えてくる、鈍い音だった。
◆
イチヘイは黙ったまま、古傷のついた眉根と鼻筋にシワを寄せる。降る階段の手すりをつたいながら、首をかしげた。
ちゃんとした武器は自室にあるため金づち片手に部屋という部屋をくまなく見て回ったが、どこにも、侵入者とおぼしき人影が見当たらないのである。
新しい色をした戸口の前で身を寄せ、戻ってきた彼と顔を合わせる二人の表情は、落ち着かなさと不安を語っている。
「……いない。下で何か気配はしたか?」
二人がそれぞれ首を振る。特に、フィーが何も感知していないのが不気味だった。
しかし、何かがこの家にいるのは確かなのだろう。と、そこで廊下から食卓に視線を投げたイチヘイははたと眉をひそめ、次に硬い表情を見せている相棒に声をかけた。
「フィー、ちょっと見ろ」
目先の動きで示して、共に居間に入る。午後の西日が差し出した室内は明るい。そのさなか、食卓の上を見たフィーが
「んえ!?! えええ巣蜜……!!」
と耳と尻尾をピンとはねあげ、素っ頓狂な声と共に駆け寄って行く。
なんとなれば、婆さんから貰った巣蜜の箱は食卓ではなく椅子の上に横倒しになっていた。イチヘイが気付いて眉をひそめたのもコレのせいだった。
蓋はテーブルの上で無造作にひっくり返っており、箱の中に溜まっていた蜜が椅子の上に広がって、周囲に甘ったるい匂いを放っていた。蜜の詰まった手のひら大の巣板も一つ、床に落ちて薄く埃を纏っている。
さっきの音の正体も、恐らくこの箱が落ちる音。
「んええぇぇ、もったいないぃ――」
拾い上げるフィーの耳が、瞬時にぺたりと倒れた。
「これ、食卓の上に置いてあったよな?」
横から無言でこくりと長い耳が頷きを返してくる。
遅れて部屋に入ってきた花登も「おいて、あった」とイチヘイを見上げた。
その目前でフィーは、ことり、と木箱を上に置き直す。それから静かに膝をついて、椅子のうえにこぼれた巣蜜をおもむろに指先でぬぐいだした。
ついで、ちゅぱ、と指を吸う小さな音が、重たい空気の中にやけに大きく響く。
「甘いのよぅ……?」
「汚ねえぞ」
しかしさっきまでこれは、恐らくフィーにとって幸せの塊だったはずだ。あんなに上機嫌のフィーを見るのは、イチヘイも思えば久しぶりだったのである。
そんな巣蜜の感想を、全く嬉しくなさそうに呟く彼女の表情を目にしてしまうと、本気で止める気にはなれない。
イチヘイは、なんだか心がモヤついていた。
ざらりと胸を舐める、いつもの掴めぬ感情。
しかし、以前と何かが違う。
もし今、胸の底を探れば、いつものその意味をひとつ、――――自分のものとして獲得できるような気もした。
「イチ、兄」
その時、花登が何か思い出したような表情でイチヘイの袖を引く。
「朝、だれか、見って、たっ」
「は?」
イチヘイはその意味が含む不穏さを測りかねて、小さい上背を見下ろす。しかし相手は少し深刻そうな表情で、それ以上語ろうとしてむせた。
「いい、書け」と筆記具を差し出すと、彼女は即座に立ったまま前屈みになって、テーブルにかじりつく。拙い走り書きが、今朝、フィーと一緒にいる間に感じた気配について語る。鋭い瞳は、そんな事があったのかという思いで見つめていた。
それから最後に一文。
『このお家って、おばけがいるんですか?』
カタンとペンを置いて、どこか怯えに好奇の混じったような円い瞳が見上げてくる。
「いや……」
『そんなものに出遭ったことはない』と返そうとしたイチヘイだった。
しかしフィーが床から拾い上げて、ためつすがめつしていた巣板を近くで目にした瞬間である。イチヘイは流れるように、その巣蜜のかけらに向かって手をのばしていた。
「……おいフィー、ちょっとそれ見せてみろ」「んえぇ? イチぃ……。……お腹壊すよ?」
信じられない、という顔をされる。
「いや食わねえよ馬鹿、お前じゃあるまいし」「んっ、なんか今イチ失礼なこといった!!」
手にすると、片手大でもずっしり重い。
巣蜜は、文字通り蜂蜜をたっぷり溜め込んだ蜂の巣そのものである。この巣板は床に転がった時の衝撃か、持ち上げると崩れたところから既に蜜が垂れ出しそうだった。受け取れば、イチヘイの指先もペトペトになってしまう。
だが気にせずよく見る。それから、顔を上げぬまま口を開いた。
「……フィー」
「んん?」
「ここ、この部分どう思う」
指差した部分は、巣板の端。そこには不自然に食い込むように残された半円形の欠けがあった。それもひとつではなく、同じ形が二つ、三つ。
それを目に入れたフィーの表情は、僅かに驚いたようなものに塗り変わる。
「んえ? え? 獣の歯形なのよう……? 齧ってる……。ちっちゃくて可愛いし、人のじゃないの」
フィーは、妖獣や獣にだけはイチヘイ以上に詳しい。そのフィーがそう言うのだから、やはりその通りなのだろう。
イチヘイは、改めて花登に視線を落とした。彼女の質問に改めて応じた。
「……この幽霊、身体があるな?」
「ぬ、ある……」
「んええ、身体のある幽霊って、幽霊じゃないのよ?」
三人はめいめいに顔を見合わせた。
明るい外の裏庭に比べて室内は薄暗く、差し込み出した西日の反射が、それぞれの顔に柔らかい陰影を落とす。
しかしそんな中でイチヘイの面にじわりと滲んだ微笑み
は、決して友好的なものではなかった。
なにせ既に、物的な実害を出されているのだ。
巣蜜をつまみ食いし、フィーにあんな顔をさせた。
今朝殺られた青頭巾一羽も、決して二束三文の価値のものではない。
このまま野放しにしておけるほど、イチヘイは寛容ではなかった。
「――――犯人、捕まえるぞ。二人とも協力してくれ」
その気迫に気圧されたのだろう。
彼の言葉を聞いた二人は、切り替わった彼の表情に一瞬目を見開く。けれどすぐに、その翡翠と榛色の瞳は、
「……巣蜜の恨み、許せないのよう……」
「いたずら、とめよ!」
それぞれに、力強い頷きを返してきた。




