72.帰る場所≠帰りたい場所③ -マロ蜂の巣蜜-
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鍵付けの作業自体は滞りなく終わったが、イチヘイが振り返ってみると二人の姿がなかった。さっきまで、二人してバルコニーの上にラグを敷いていたと思ったが、今、その場にはラグとクッションの、緑やオレンジの鮮やかさだけが取り残されている。
「あ゛? おい、フィー? 花登?」
少し声を張り上げるも、呼び声に返事をしてきたのは、
「ケッケギョーギョルー!」「「ギョーギョルーー!!」」
小屋の周りの囲いで放飼されている、青頭巾たちの賑やかさだけだった。
イチヘイの脳内を、あの意味のわからない大きさの〈虚棲ミ〉と戦うことになった、森での一件が横切っていく。
(おいおいおいおい、まさか、また森に行ったんじゃないだろうな……)
まあ流石に、あんな異常事態に遭遇することは早々ないだろうとは思いつつも、とっさに考えているのは自分の武器の置き場所だった。
「――ついでにまた一人、居候が増えたりしてな……」
その上、冗談めかして吐いたそんな呟きさえ、結局はどうも変な真実味を帯びてイチヘイの耳に戻ってくるのだ。
気付けば彼は立ち上がっていた。
それにフィー一人ならまだどうともなるが、もし花登までつれてどこかに行ってしまっていたとしたら、危険だった。花登はまだ、アザラに狙われているかもしれないのだ。
イチヘイの相棒は人間相手には戦えないし、戦わせるべきではない――――その事は、昨日の”群れ”との乱闘でイチヘイは骨身に染み透っていた。
足早に母屋へ向かう。取っ手を握る古い木の工具箱が、彼の歩幅にあわせてガチャガチャと騒ぎだした。
「おい、フィー?! 花登!」
やはり声は返ってこない。
(……また鏡写しを呼ぶか……?)
が、そこまで思い詰めた刹那。裏庭から家の表に続く小径の向こうに、花登の顔がひょっこり覗いた。ついでその後ろから、赤い房飾りと銀のピアスを着けた長い耳も見える。
「んえ、イチヘーイ!」
片腕に箱を抱えた翠の瞳が、気の抜けた声と共に手を振ってくる。彼はそっと胸を撫で下ろした。
「あのねえ、ごめんね! 玄関の前でずっとボクたちのこと呼んでたみたいなの。気付いたから、見に行ってたのよぅ!」
「ぁ゛? なんだ、客か?」
……しかし、フィーの後ろから出てきたその顔を目にした瞬間、彼の思考は面倒くささに華麗に支配される。
(――げっ……)
内心は、そのまま顔にでていた。そしてイチヘイがそんな表情をしだした途端、
「カーッ、こっちの家までわざわざ上がって来てやったってのにね! なんだいね、その顔は! もっと喜びな!!」
その人物は矍鑠とした歩きで機敏にイチヘイの目前まで迫ってきた。体格はフィーより小柄なのに、長身の彼を見上げてくる迫力は小さい猛獣もかくやである。
通称、ノナウ婆さん。
髪は白髪交じりのグレー。坂の下の村――ニーム村で唯一の雑貨屋を営む、人族の老婆である。イチヘイとフィーがこの森の家で師と暮らし始めたすぐの頃からの顔見知りであり、二人がここに戻ってきてからも、何くれとなく関わろうとするおせっかい婆だった。
「何の用だよババア」
「ああ、なんだって? アタシゃ年寄りなんだ、耳が遠くて聞こえないね?」「こういう時だけババアぶんなくそババア」
にらみ合うも、すぐにわざとらしいため息と共に目を逸らされる。いつものこと過ぎて、既に半ば諦められているのである。
「……まったく、口の減らない子だよこのクソガキは。おひいさんとおんなじもの食って育ったとは思えないね!」
減らず口はどっちだと思うが、師匠からは、『愛想を振り撒けとは言わないけれどね、村の人間と諍うことだけは、吾の目の黒い内は許さないよ』と叩き込まれている。
ゆえに例えこれまで覚えたことのない新しい苛立ちに振り回されても、彼女と争う気だけは起こらない。眉を吊り上げながらも、チッ、と舌打ちでだけで収めた。途端、意外そうな目が向けられる。
「……なんだいクソガキ、怒っとんのかい? いつもより威勢がいいね」
「あのね、あのねえ、イチー」
と、そこへフィーがニヨニヨと幸せそうな顔をしながら近寄ってきて、話は中断された。手にしていた一抱えほどの木箱を、「見て見てー!」と差し出してくる。蓋がされて中身は見えない。しかしフィーの動きが連れてきた微風が、ふわりとイチヘイに甘い匂いを届けた。
「あのねすごいんだよ、ノナウばあちゃんがね、マロ蜂の巣蜜をくれたの!」
「は? 何でまたそんなもんが」
すると間髪入れず、婆さんが得意気に腕組みをはじめる。
「うちの裏庭に気付いたらマロ蜂がずいぶんデカい巣をつくっててね? 息子に採らせたんだ。
――フン、持ってきてやったんだから感謝するんだね? この、ノナウ婆さんに!」「ノナウばあちゃんありがとうー!」
彼女にはべたべたと甘えるフィーが、即座に毬の跳ねるような声でお礼を言う。
なにしろこの世界では、そもそも砂糖が貴重品だ。つまり甘い味のするものも、基本的に貴重なのである。イチヘイまでもが無意識に機嫌を直していた。
その様子を眺めて、ノナウ婆さんの眉間のシワが緩む。満足げにまたふふんと鼻を鳴してきた。
「……で、用はそれだけか?」
「かーっ、用がなけりゃあ来ちゃダメなんかい! 相変わらず薄情だよこの子は!」
言いながらイチヘイの肩をどついてくるノナウ婆さん。痛くも痒くもないが、唐突な狼藉に思わず彼の顔には微妙な表情が浮かぶ。
その態度も見咎められるかと思いきや、彼女は一度でかい声で
「ちょっとトビや! こんなクソガキでも今日は一応、家主代理だよ! 挨拶しときな!」
と叫んでから、何食わぬ顔でイチヘイに向き直った。
「……まあ用向きはあるんだがね」
あからさまに失礼な言葉が飛んでいった気がしたが、これに口を出すと面倒な目に遭うことも、イチヘイは学習済みである。嫌そうに目をすぼめながら受け流した。
婆さんに呼ばれて家の陰から物差しと炭筆片手に人影が現れる。人族の癖に月輪族(※熊のような獣人種)のようにがっしりした体格をした、四十半ばの男だった。
彼女の一人息子なのをイチヘイは知っているが、顔立ちも性格もおっとりしていて印象もうすく、親とは似ても似つかない。
その息子曰く、今朝早く、兆嘴商会の使いが店を訪れたのだと言う。使いは取引をしている誼でたまに店とやり取りのある人間だった。今朝は改まった様子で、商会主であり領主の次男でもあるソルスガ・アフェイーグの名を出してきたらしい。いつもは無いことだった。
そして商会主の名の元に急に幾つか頼みごとをしてきたが、そのうちの一つが、三日以内にお大師様の家の玄関を直してくれないかと言うものだったらしい。
「僕は一応、ちいさい家具とかね、木工品も作って商会に卸してるからね。玄関扉くらいならいけるって思われたのかもだね……」
そんなことをやっぱりおっとりした口調で話して、息子はすぐ、「じゃあ作業に戻るから。しばらく騒がしくしているよ、お弟子さんたち」と再び家の陰に引っ込んでいく。
……ただ、そこではたと思い出したような顔をして、革の袋をイチヘイの手に乗せに戻ってきた。
「――そうだった。それから、使いの人から君宛てにお金を預かってたんだった。
確かに渡したからね? よくわからないけど、『申し訳なかった』って伝えといてくれとも言われているよ。……じゃ!」
そう言って、今度こそ姿を消す。
ずっしり重たい。二十から三十エラ程度は入っていそうだった。
ソルスガ・アフェイーグ。
一方のイチヘイは、ここで飛び出てくると思わなかった男の名前に、片眉を引き攣らせている。しかしすぐに、昨日あの男と交わした聖宣の契約書に、「花登を浚いに来た”群れ”の連中が壊していった玄関扉は、三日以内に直すよう手配する。庭は金銭にて弁償する」旨が記されていたことを思い出していた。
なんと言うか、仕事が早い。
するとそこで、一人残った婆さんの方が腕組みをほどいて、腰に当てながらイチヘイに問いかけてくる。
「――ちなみにアフェイーグ様からは、扉の修理のお代もいただいててね……。――それにイチヘイ、その金はなんだい?
こうして来て見ればお大師さまが大事にしてなさった前庭も荒れ放題じゃあないか。
なあ、あの方との間で一体何があったんだい? それに……さっきからそこに突っ立ってる可愛い子は?」
目尻にシワの刻まれた闊達な瞳には、心配とはまた別に、キラリと好奇心のようなものが光っている。
状況を呑みきれていないらしい花登は、婆さんに指を差されて落ち着かない表情をしはじめた。
イチヘイは、そういえばこの婆さんは、耳長族よりよく喋るのだったと思い出す。
話す内容は絞らねば、気付けばニーム村中で噂の的にされてしまうのは目に見えていた。
(めんどくせえなクソ……)
イチヘイは耳の上の髪の毛をかきむしりながら、目の前の強敵に向かって眉根を寄せるのだった。
昨日あった出来事については、できれば彼女にはなにも話さずに終わらせたかったのが正直なところである。
しかしこの婆さんの目に留まってしまった以上、誤魔化して逃げ切れるともおもえない。イチヘイ自身はこの婆さんに興味は無いのに、気づけばフィー含め孫かなにかのように扱われ、こっちが無表情でいても心の機微を読んでくる。フィーよりしつこい分タチが悪い。
そのうえ下手に隠せば、勝手に話に尾ひれをつけて話し出す可能性さえあるのだ。イチヘイは小声で呟いた。
「このクソババアめ……」
「ああん!? なにか言ったかい??」
「いいや……?」皮肉めいた口ぶりでわざとらしく返しながら、婆さんをチラと見る。頭を掻くのをやめた。
(こうなったら洗いざらい話すか……)
それなら隠さなければならないことは、既に花登に奴隷印が押されてしまっていること位になる。奴隷という身分は零落した存在として、場合によっては差別の対象になったりするからだ。
特に、市民身分に混じってくらす場合は。
また、花登と我が家に非合法な襲撃をかけてきた"群れ" の一件については――――花登がそいつらの主である男の世話になると決めた以上は――――本来ならば忖度して黙っているべきなのかもしれない。が、しかし、
(あの野郎に気ィ使ってやるのも、なんか癪だしな……)
ということでイチヘイは静かに一つ頷いた。花登を手招きして傍らまで呼び寄せ、
「このガキは花登って名前だ。兆嘴商会の私兵に奴隷にされそうになって逃げ出してきたところを、俺たちが拾った……」
と、斯々然々、花登が奴隷身分であること以外、おおよそ全部ノナウ婆さんにぶちまける。
ちなみにイチヘイが隠したいことまで口走らないように、話している間じゅう、巣蜜を抱いて永遠にニコニコしているフィーの頭上には彼の手が置かれていた。
隣にやってきた花登とノナウ婆さんの目が、フィーを撫でる自分の手と幸せそうなフィーの顔付きをチラチラ見るのをイチヘイは感じる。しかし彼には最後まで、その意図を汲み取ることは出来なかった。




